海の底で
目を開けると、私は海の底にいた。光もなく、影もなく、ただ水だけがあって、私はその中を、ただ漂っていた。
手も足も、髪も服も、ひとつのかたまりのように揺れていた。苦しさはなかった。悲しみも、嬉しさも、もう私のからだの外に出てしまったようだった。
それでもときどき、私は何かを求める様に上を見ることがあった。ある時、白い靴の影が、静かに波紋を広げながら、水面の上を歩いていくのが見えた。
その足音のない足取りが、なぜかとても懐かしかった。それが誰かを、私は忘れてしまっていた。けれど、心のどこかが、ゆっくりと、けれど確かに熱くなるのを感じた。
あるとき、その人が立ち止まった。そしてこちらを見た。私はそれに気づかないふりをした。だけど、本当はずっと待っていた。
その人が手を伸ばしてきたとき、私は初めて「会いたかった」と思った。でもそれと同時に、あの人の元に行けないのだとわかった。ここは深い海の底で、あちらは海の上。
私は、戻ることはできないのだ。
気づけば涙が溢れていた。
それと同時に、自分の体が泡となり、消えていくのが分かった。あなたが泣きながらかき集めようとした泡の中に、私の名前をそっと溶かした。でもきっと、聞こえなかっただろう。あの名前は、私よりも先に、海に還ってしまったのだから。
私はまた沈んだ。何千という貝殻のそばに降りていった。そのひとつひとつに、小さな痛みが閉じ込められている気がした。私と過ごしたあの日の、かすかな灯のような時間が。
けれど、それらはすでに遠く、ふれるたびに痛みとなって、あなたのことを締めつけた。
だから私は、奥にあった貝殻にそっと声を封じた。言葉にならない声で、ただあなたを包むように。
あなたがそれに触れたとき、私の声が届いた。たった一瞬、海と空がつながって、あなたの涙が落ちていった。それだけで、私は満たされた。
気がつくと、あなたは海の上にいた。手には、あの貝殻があった。耳をあてると、そこに私がいる。
私はまだあなたの隣にいる。でももう、あなたの夢の中でしか、私は形を持てない。
そう思った瞬間、私はまた、音もなくほどけていった。




