55 正位突破
怨嗟の樹は、密林の底から息を吐いた。
霧は、もうない。
紫の滲みも止まり、幹を裂いていた痛みのざわつきも、どこか遠い。
『……ようやく、終わった』
怨嗟の樹は、地に座り込んだイズナを見下ろした。
長年抱え込んでいた問題が、まさかこの小さな人間の少年に解かれるとは思っていなかった。
不思議がっているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、まだ信じきれない“間”があった。
そのとき、イズナの体が、かすかに脈打った。
原力が揺れる。
次の瞬間、さらに深いところから押し上げてくる。風が止んだはずの空き地で、見えない気流だけが一瞬、渦を巻いた。
「……え?」
イズナはすぐに姿勢を正した。
背筋を立て、呼吸を整える。
原力のうねりが外へ漏れないよう、体の中心へ押し戻した。
(……これは、まさか)
自分でも分かる。
これは回復ではない。満ちたものが、次の器へ移ろうとしている感覚だ。
レベル19から20へ。
たった一つ上がるだけ――ではない。
『見習』の枠が外れ、
『正位』へ踏み込む。
質が変わる。
原力の量も、巡り方も、根っこから別物になる。
「……おい」
アカツキが、珍しく声を落とした。
「イズナ様……」
ミツバも目を見開いて、イズナの背中を見つめる。
怖がっているのではない。何かが生まれる瞬間を、見逃したくない顔だった。
怨嗟の樹の声が、ひとつ落ちる。
『……このタイミングで突破するとは』
長く生きた魔獣の感覚が、この変化の重さを測っている。
イズナは目を閉じたまま、呼吸を揃え続ける。
原力は暴れかけては静まり、また押し上がる。まるで扉の向こうから、何度も拳で叩かれているようだ。
レベル19になってから、この一か月半。
朱雀院炎羅との戦い。命を削った逃走。
そして十日間の浄化。怨嗟の樹の毒の霧を相手に、精神力を擦り減らし続けた。
積み重ねたものが、今、形を変えようとしている。
イズナは息を吐き、最後にもう一度、内側の揺れを整えた。
それから先は、進まなかった。
時間だけが、じりじりと削れていく。
原力が持ち上がる。扉の前まで来る。――だが、最後の一線で弾かれる。
何度やっても同じだった。薄い膜が張っているように、決定的なところで止まる。
(……あともう少しなのに)
ランクの境目。
レベルがひと区切りを越えるときに来る、いちばん厄介な壁だ。力が増えるだけでは抜けない。焦ったところで、余計に詰まる。
イズナが歯を食いしばり、呼吸を整え直した――そのときだった。
空き地の中央。
怨嗟の樹の幹から、一本の蔓がゆっくり伸びた。
枯れ枝の指のような節くれ立った先が、イズナの額へ近づいてくる。
アカツキが反射的に身を乗り出しかけたが、怨嗟の樹の気配がそれを制した。
蔓は、ただ静かに、イズナの眉間へ触れる。
『少年よ。これは――お前への返しだ』
その瞬間、蔓の先に薄い光がともった。
やわらかな光がにじむように広がり、イズナの眉間へすっと吸い込まれていく。
「――っ」
イズナの内側で、原力が一段、澄んだ音を立てた。
さっきまでの濁りが抜ける。絡まっていた糸がほどけ、流れが一本に揃う感覚。
「……え、うそ?!」
ミツバが思わず声を漏らす。
「今のは何だ?」
アカツキが低く問うた。
ミツバは怨嗟の樹とイズナを交互に見て、言った。
「……魔獣の原力の結晶です。コアから切り分けた、いちばん澄んだ結晶に近いもの。
これを作るには、自分の原力を削ることになります。だから、魔獣が自分から差し出さない限り、絶対に出ません」
蔓から溶け込んだ淡い光が、イズナの眉間の奥で静かにほどけた。
体内で滞っていた原力が、もう一度、動きを取り戻す。
押し上がる。膨らむ。――さっきまで弾いていた薄い膜が、今は薄紙のようにしか思えなかった。
(……来る)
呼吸を崩さないまま、意識だけを深く沈める。
原力の流れが一本に揃い、次の瞬間、境目が音もなく裂けた。
――レベル20。
『正位』。
「……突破したか」
アカツキの低い声が耳に届く。ミツバは何も言わず、ただイズナを見ていた。
イズナはゆっくりと目を開ける。
十二歳で『正位』へ届く者は、アストラ王国でも滅多にいない。
数か月前――王都の覚醒の儀。あのときの自分は、レベル15だった。
そこからレベル20まで。
胸の奥で原力が静かに満ちていくのを感じながら、イズナはひとつの顔を思い浮かべる。
シグルド・ウェントワース。
あのとき、自分に毒を盛った男だ。
イズナの口元が、わずかに歪んだ。
1年半後の『シード・トーナメント』で、必ず後悔させる。
余計な熱が言葉になる前に、その名を意識の隅へ押しやった。
イズナはゆっくり立ち上がり、怨嗟の樹へ向き直る。
そして一礼した。
「……礼を言います」
『ホッホッホ』
怨嗟の樹の笑いは、耳に心地よいものではない。枯れた幹が擦れるような、ざらついた響きだ。
それでも、長い間胸の底に沈んでいたものが、ようやく緩んだ――そんな軽さが混じっている。
続いて、幹の裂け目からもう一本、蔓が伸びた。先端には小さな瓶が巻きつけられている。
蔓は無言のまま、それをイズナの前へ差し出した。
『約束の品だ』
瓶の中で揺れていたのは、淡い緑の液体だった。光を受けると、わずかにとろみが見える。
怨嗟の樹の樹液。
イズナは両手で受け取り、瓶の口を確かめるように見つめた。
これで、コア以外の素材は揃った。




