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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
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54 浄化の風

 その人間の体から、妙な霧がふっと生まれた。避ける暇もなく、怨嗟の樹の体内へ潜り込み、骨まで削り始めた。

『……あれは、毒などと呼ぶには足りん。呪いに近い。ワシは本気で死ぬと思った。幹が裂け、樹液が狂い、霧が勝手に生まれて……止まらなくなった』

 怨嗟の樹は、そこで一拍置いた。思い出すだけで痛みがぶり返すのか、空き地の霧がわずかにざわめく。

『それでも、ワシは精神力で締め上げ、抑え込んだ。侵食を完全に止めたわけではない。だが、コアを喰われれば終わりだ。……ワシは、そこだけは渡さなかった』

 霧が重く、空き地を這った。

『結果が、この有様だ。死ねず、癒えず、毒の霧を抱えたまま、ここに縛られている。日が落ちれば落ちるほど、抑えが利かなくなる』

 言葉が途切れると、誰もすぐには口を開けなかった。

 S級の魔獣を、たった一撃でここまで追い込む人間。

 その強さの輪郭すら、想像が追いつかない。

 イズナの胸に、重い石が沈む。

 話の端々に、アウレの影がちらつく。あの人間は「狂嵐の神紋」を探していた。つまり――いつか、自分のところへ来る。

 沈黙の中で、イズナは唇を噛み、視線を巨木から逸らさずに息を整えた。

 そのとき、内側から声が落ちた。

(……あの毒の霧は、狂嵐の神紋でほどける)

(本当ですか、先生)

(狂嵐の神紋は“あらゆる気体の毒”を中和できる。あの霧は、その類じゃ)

(……なるほど)

(やることは単純じゃ。精神力で神紋を御し、霧を少しずつ削って中和していけばよい)

(……分かりました)

 イズナは小さく息を吐き、風の殻をほどかないまま一歩前へ出た。

 空き地の中央、怨嗟の樹に向けて。

「……怨嗟の樹。あなたにまとわりついた毒の霧は、自分が消せます。

 代わりに、樹液を少し分けてください」

 霧のざわめきが、かすかに止まった。

 怨嗟の樹にとって樹液は、人で言う血と同じだ。

 もし治るのなら。

 この狂った霧が鎮まり、夜ごとに抑え込む苦しみから解放されるのなら、その程度の代価は安すぎる。

『……お前に、それができるのか』

 怨嗟の樹の声は疑っているというより、確かめているだけだった。期待して裏切られることに、もう慣れすぎている響き。

 イズナは答えない。言葉より先に、手を動かした。

 静かに手のひらを差し出す。

 次の瞬間、掌の上に古い紋が浮かび上がった。薄い緑の光が輪郭を結び、文字のような形が空中でゆっくりと回る。

 空気がひとつ変わる。

 どこからともなく風が立ち、枝葉が一斉にざわめいた。葉擦れの音が広がり、霧がわずかに退く。

 長い沈黙。

 怨嗟の樹は、その緑を見つめ続けていた。

『……これが、狂嵐の神紋か』

 声の硬さが、ほんの少しだけほどける。

『……あの方の……』

 言葉はそこで途切れ、霧に溶けた。残ったのは、言い切れない何かの気配だけ。

 やがて、低く告げる。

『……よかろう。試してみろ』

 イズナは小さく頷いた。

 精神力を一点に集める。緑の風を細く伸ばし、怨嗟の樹の幹へ寄り添わせるように回り込ませた。

 ――触れた瞬間、風がわずかに震えた。

 怨嗟の樹から滲む毒の気配は、霧になる前から濃い。風が触れるたび、じゅっと湿った焼け方をする感触が、精神力へ返ってくる。

 緑の風は、裂けた樹皮の奥へ静かに入り込んだ。

 紫の液が滲んでいた割れ目の縁が、ふっと落ち着く。滴りが一瞬だけ鈍り、地面へ落ちる雫の数が減った。焦げる音も、わずかに遠のく。

『……っ』

 怨嗟の樹が、声にならない反応を落とした。

 苦しみが消えたわけじゃない。だが、暴れていた毒が、ほんの少しだけ静まった。それが分かる。

 イズナは息を吸って、ゆっくり吐く。

 毒が濃いところほど、風が削られて薄くなる。削られた分だけ、毒もまた薄くなる。拮抗する場所を探し、少しずつ前へ進める――気が遠くなるほど地味な作業だった。

 空き地の空気が、ほんのわずかに軽くなる。

 ミツバが息を呑んだのが分かった。アカツキも、剣の柄に置いた手の力を少し緩める。目に見える変化はまだ小さい。それでも、確かに効いている。

 やがて夜が来た。

 霧がいっせいにうねり、毒が牙を剥く。昼間とは比べものにならない濃さが空き地を満たし、肌を刺す気配が跳ね上がった。

 しかし――怨嗟の樹の精神力は途方もなく、密林一帯を包み込んでいた。

 そこへ狂嵐の神紋の風が重なり、毒の霧は膨らもうとしては押し戻される。

 そのたび、ざらりとした抵抗が精神力へ返ってくる。

 イズナは内心で問いかけた。

(先生……これ、どれくらいかかりますか)

 少し間があった。アウレは、風の動きと毒の減り方を見極めている。

(今の進み方なら、十日ほどじゃろう)

(十日……)

 今すぐ外へ出て、また朱雀院炎羅に追い立てられるよりは、よほどましだ。

 イズナはそう腹を括った。

 ひたすら同じ手順の繰り返し――だが、少しずつ確かに進んでいった。

 十日という時間は長いはずなのに、気づけば指先の感覚だけで朝と夜を数えていた。

 そして――十日目。

 最後の一筋が、風の中で静かに消えた。

 ざらりとした抵抗が失せ、代わりに空気がすっと軽くなる。

 怨嗟の樹の幹から紫の滲みが止まり、焦げた匂いもいつの間にか遠のいていた。

「……終わった……」

 口にした瞬間、力が抜けた。

 膝が崩れ、体重を支えきれずに座り込む。

 密林を満たしていた霧が、もうどこにもなかった。

 木漏れ日が、斑に空き地を照らした。

 薄暗い世界に、久しくなかった明るさが差し込み、地面の湿り気まで淡く光る。

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