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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
53/55

53 怨嗟の樹

「……誰だ」

 アカツキが低く問いかけた。

 イズナは動かない。視線は空き地の中央――巨木から一度も逸れず、息を吐いて短く言う。

「……怨嗟の樹」

「なに?!」

 アカツキが眉をひそめる。ミツバも同じように見上げ、言葉を失った。

「こ、これが……怨嗟の樹……?」

 その瞬間だった。

『人間よ。なぜ、お前が狂嵐の神紋を持つ』

 空気がさらに沈む。イズナはすぐには答えず、間を置いてから口を開いた。刺激しないよう、言葉を選ぶ。

「神紋のことは……答えられません。無礼があったなら、失礼しました」

 風の殻がかすかにうなる。ミツバは息を潜め、アカツキも余計な口を挟まない。

 イズナは続けた。

「自分たちは、頼みがあってここへ来ました。怨嗟の樹……あなたの樹液を、少し分けてほしいです」

 返事はない。

 沈黙だけが長く伸びた。紫の雫が落ち、土が焦げる音が妙に大きく響く。霧がゆっくりと渦を巻き、空き地の端が霞んでいく。

 やがて、声が再び落ちる。

『狂嵐の神紋を得たということは……かつての主は、もうこの世にはおらぬ、ということだ』

 懐かしさが混じる。だが同時に、底に沈んだ悲しみが重い。

 イズナの眉がわずかに寄る。何かに気づいたように、視線がさらに鋭くなる。

「……あなた、狂嵐の神紋の前の持ち主を知っているんですか?」

 イズナの問いは、空き地に吸い込まれたまま戻らなかった。

 しばらく沈黙が続き――やがて頭の内側へ落ちてくる声が、話題を切り替えるように響いた。

『よく聞け。あと一刻で日が落ちる。暗くなる前に、この密林を出ろ。……さもなくば、ワシはこの毒霧を抑えきれん。お前たちは全員、ここで死ぬ』

 脅しではなかった。忠告でもない。淡々とした事実の通告だった。

「……でも、樹液が必要です」

 イズナは引かなかった。声は落ち着いているのに、言葉の芯は固い。

「仲間を助けるために……どうしても」

『無理だ』

 怨嗟の樹の声に、わずかな疲れが混じる。

『見ての通り、ワシはこの有様だ。今の樹液は、揮発する毒だけで生き物を殺す。救う薬になる前に、近づいたものから焼き切れる』

「そんな……」

 ミツバが小さく漏らし、アカツキが奥歯を噛んだ。三人の胸に、別の現実が重くのしかかる。

 樹液が手に入らなければ、これまで積み上げてきた段取りが崩れる。アカツキを治す道が閉じるわけではないが、代わりの素材はさらに手に入りにくい。

 それに、ここを出れば――森の外で待っている朱雀院炎羅と正面からぶつかる。

 時間は少ない。

 イズナは視線を落とし、紫の雫が作る焦げ跡を見つめる。

 そのとき、ふとミスドロン将軍の話を思い出した。

 怨嗟の樹は、もともとこんな姿ではなかった。数年前、突然変わった――と。

 日が落ちるまで、あと一刻。逃げ道は塞がれている。なら、せめて理由を掴む。変化の原因が分かれば、手はあるかもしれない。

 イズナは巨木を見上げ、口を開いた。

「……あなたは魔獣の中でも珍しい、錬金術師だと聞きました。自分も錬金術師です。まだ浅いですけど……もし、何か手伝えることがあるなら」

 そこで一息。押しつけにならない距離を残す。

「せめて、どうしてこうなったのか……それだけでも、教えてほしいです」

 霧が、さざめくように揺れた。

 怨嗟の樹の気配が、風の色に触れたように僅かに沈む。

 長い沈黙ののち、怨嗟の樹は、ようやく口を開いた。

『――数年前のことだ。ワシは……一人の人間に会った』

 声は乾いていた。怒りとも諦めともつかない響きが、霧の奥で擦れる。

『そやつは、強かった。S級のワシですら、底が測れん。どれほどの力を隠しているのか……近づけば近づくほど、分からなくなる類の人間だった』

 イズナは黙って聞いた。アカツキも、ミツバも、息を殺す。

 ある日、その人間は突然、怨嗟の樹の前へ現れた。そしてこう言った。

「狂嵐の神紋について、何か知っているか」

 もちろん、怨嗟の樹は知らんと答えた。だが、そいつは引かなかった。錬金術の気配を嗅ぎ取ったのだろう。怨嗟の樹を睨みつけ、こう続けた。

「――お前は、あの死に損ないと、何かつながりがあるな」

 空き地の中央で、紫の雫がまた落ちる。じゅ、と地面が焼ける音がした。

『ワシは、まだB級だった頃、魔獣領域の外へ出て、世界を歩いたことがある。その旅の途中で……狂嵐の神紋の主に、少しだけ手ほどきを受けた。錬金術の基礎も、精神力の扱いも……そのときの縁があって、今のワシがある――とな』

 その言葉に、イズナの内側で、アウレが低く息を吐いた。

(……やはり、あの時の小童か。魔獣にして精神力が珍しくしっかりしておったから、つい手を入れたのじゃが)

 イズナは表情に出さず、喉の奥で息を飲み込んだ。

『……その人間は、それを聞いて、目が変わった。面白がるような、嫌な笑いを浮かべてこう言った』

 ――“へえ……あの死に損ない風の錬金術師と関係があるのか。関わった奴は皆、死ね”

 その言葉が終わった瞬間だった。

 イズナは、自分の内側が大きく揺れるのを感じた。

 アウレの気配が、乱れる。

 普段は岩のように沈んでいるはずの意志が、今だけは抑えきれないほど激しく波立っていた。そこから伝わってくるのは、燃え上がる怒りだ。底が見えないほど濃い。

(……先生)

 イズナが呼びかけると、返事はすぐには来なかった。

 わずかな沈黙。荒い息を飲み込むような間があって、ようやく声が落ちる。

(今は、何も聞くな)

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