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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
52/55

52 霧の密林

 朱雀院炎羅は、三人が密林へ飛び込むのを見るや、口元だけで笑った。

「……逃げ込んだつもりか」

 真紅の翼が一度だけ大きく打たれ、炎羅の影は森の上へ滑るように寄っていく。


 一方、密林へ足を踏み入れたイズナたちは、踏み込んだ途端に空気の質が変わったのを悟った。

 冷たい霧が肌へまとわりつき、息を吸うだけで喉の奥がざらつく。袖口がじわりと熱を持つ感覚まである。

「……まずい。ここの霧、腐食性が強い」

 イズナの声が引き締まる。外で見た牛型魔獣が、死にかけても森へ入らなかった理由が、いま身体で分かった。

「原力で身体を包め!」

 アカツキが叫ぶ。

 三人は反射的に原力を巡らせ、皮膚の上に膜を作った。だが霧は止まらない。膜をするりと越えて入り込み、まとわりつく勢いを増してくる。

「効かない……?!」

 アカツキが歯噛みした。霧は肌だけではなく、巡らせた原力そのものを削り取っていく。守りに回したはずの力が、抜かれるように細っていった。

 退くしかないのか。だが外には、朱雀院炎羅がいる。

 迷いが揺れかけたところへ、精神の奥から低い声が差し込んだ。

(原力では駄目じゃ。神紋を使え)

(先生……分かりました!)

 イズナは即座に額へ意識を集める。古い紋様が淡く、次いで強く輝いた。

 狂嵐の神紋。

 風が生まれた。鋭く、それでいて芯のある流れが三人の周りを巻き、霧を押し返す。霧は本能で嫌がったようにざわりと退き、道が一本、無理やりこじ開けられる。

「……いけます!」

 ミツバが息を呑み、アカツキが短く頷く。三人は風に守られた狭い円の中を、踏み抜くように進んだ。

 ――ん?

 短い驚きが、森の奥で沈んだ。

 霧の向こうで、背骨の奥がひやりとした。古いものの気配が、こちらを捉えた。

 その時、背後から朱雀院炎羅の声が落ちてきた。

「逃さんぞ――!」

 霧を裂くように、炎の圧が差し込む。

 強烈な気配が背中を押し潰しにかかり、三人の影が霧の地面へ長く伸びた。

「ちっ……しつこい奴め」

 アカツキが舌打ちし、剣の柄に手を掛ける。振り返って迎え撃つ――その動きが形になる前に、周囲の霧がざわりと揺れ、ひと息に押し寄せた。狙いは明らかだった。火を纏う朱雀院炎羅へ、霧が吸い込まれるように集まっていく。

「……霧?」

 炎羅の眉が跳ねる。反射的に腕を振るい、火が散った。火花が走り、熱の奔流が霧を薙ぐ。

 だが、手応えがない。

 火は霧を焼けず、霧も火を弾けない。互いをすり抜けるだけで、噛み合わない。霧を抜けた火はそのまま奥へ走り、巨木の幹に叩きつけられた。

 轟音。爆ぜた衝撃で樹皮が剥がれ、太い枝が折れ、何本もの大木が軋みながら傾く。

 一方で霧は、迷いなく炎羅へまとわりついた。絡みつき、押し包み、密度を増していく。

「なにっ……!」

 炎羅の表情が硬くなる。肌に触れた瞬間、腐食が走った。しかも厄介なのはそれだけではない。体内を巡る原力まで、抜き取られるように減っていく。

 ――まずい。

 判断は早かった。炎羅は翼を強く打ち、跳ぶように距離を取る。密林の縁を抜け、空中で身を止めた。追ってきた霧は森の入口まで来たところで、ぴたりと動きを止める。そこから先へは、一歩も出ない。

 炎羅は息を整えながら、下の地形をじっと見た。

 霧の境、森の静けさ、腐食が届く範囲――それらが示す答えが、ゆっくりと形になる。

「……そういうことか」

 低く呟き、赤い瞳を細めた。

「ここは――あの老いぼれの縄張り……」

 口元に、冷たい笑みが浮かぶ。

「なら、あの三人は……戻れまい」



 密林の奥。

 狂嵐の神紋が生む風が三人の周りを薄くまとい、腐食の霧を押し返しながら道をこじ開けていく。足元の落ち葉が巻き上がり、枝の隙間を抜けるたび、冷たい霧が背にまとわりつこうとしては、風に弾かれて散った。

 どれほど走ったか。

 霧の濃さがふっと緩み、三人は小さな空き地へ滑り込んでようやく足を止めた。

「……はぁ……追ってきてない……みたいですね」

 ミツバが肩で息をしながら、来た道を振り返る。

 イズナは返事をせず、精神力を広げた。炎の気配は遠い。だが、消えたわけではない。

「追いつけないだけだ。外で待ってる」

 ここから外へ出れば、必ずまたぶつかる。

 ミツバが小さく首を振る。

「……それなら、私……外に出ます。二人にこれ以上、迷惑をかけたくない――」

「ミツバ、まだそんなこと言うのか」

 イズナの声は強いが、叱りつける響きではなかった。

 ミツバは怯えず、むしろ口元がほんのわずかに緩む。気づくか気づかないかの、小さな笑みだった。

 その直後、空き地の空気が一段重く沈んだ。

 朱雀院炎羅に劣らぬ、底の見えない気配が“そこにある”。背筋を撫でるような感覚に、三人が同時に息を止める。

「……っ?」

 アカツキが剣の柄を握り直し、周囲を見回す。ミツバも息を呑み、霧の向こうへ視線を走らせた。

 けれど影はない。足音もない。

 それでも確かに、いる。

 イズナだけが視線を一点に縫い止めた。空き地の中央。そこに立つ一本の古木だ。

 幹はあまりに太く、視線が回りきらない。直径だけで数十メートルはあるだろう。木というより、岩の柱が一本、空き地に突き立っているようだった。

 幹はあちこちが裂け、抉れ、傷だらけだった。割れ目の奥から、紫色の液がじわりと滲み出している。

 雫が落ちた。

 地面に触れた瞬間、じゅっと嫌な音がする。土が黒くえぐれ、鼻を刺す匂いが立ち上った。やがてそれは細い靄となって空気へ溶け、周囲の霧へと混じっていく。

「……これが……」

 ミツバの声が震える。

 イズナは喉を鳴らし、短く言った。

「この霧の出どころ……たぶんここだ」

 そのときだった。

 耳ではなく、頭の内側へ直接落ちてくるような声。古く、乾いた響きで、圧があった。密林そのものが喋ったように。

『――人間よ。その風……狂嵐の神紋だろう』

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