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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
51/55

51 追撃

 それから、さらに五日が過ぎた。

 イズナはようやく身体を起こし、自力で座れるまでに回復していた。

 傷はポーションのおかげで跡形もなく消えている。だが、空っぽになった原力と、肉体にこびりついた疲労だけはまだ抜けきらなかった。

「……どうにか、話せそうだな」

 焚き火を囲み、アカツキとミツバが視線を向けた。

「無茶しやがって……」

 アカツキが小さく息を吐く。

「イズナ様……本当に……」

 ミツバの声はまだ震えていたが、その瞳には安堵が浮かんでいた。

 三人はこれまでの状況を整理する。

 あの男――朱雀院炎羅。

「……ミツバを狙っていた」

 イズナの言葉に、空気が引き締まる。

「“血脈”とか言ってたような気がしますけど……」

 ミツバが戸惑い気味に呟く。

「血脈、ね……」

 アカツキも眉をひそめた。

(……先生、何か分かりますか?)

 意識の奥へ問いかける。

(ふむ……)

 アウレの声が返る。

(あのハーフの小娘、まだ魔獣としての血が目覚めておらん)

(え……)

(何の血脈かまでは、ワシにも判別できん)

 一拍。

(ただ――人と子を成せる魔獣となれば――少なくともS級以上じゃ)

(なるほど……)

 短い沈黙。

「……ミツバ」

 イズナが視線を向ける。

「おそらく、あんたの出身に何かある」

「……」

 ミツバは息を呑んだ。

「自分でも……何も分かりません……」

「あの朱雀院炎羅ってやつが、また来ない保証もないしな」

「……はい……」

 ミツバの指が、そっと握りしめられる。

 結論は自然とひとつに収束した。

「……動けるようになったら北へ向かう」

 イズナの声に迷いはない。

「北方密林……か」

 アカツキが焚き火の向こうを見た。

「ミツバも一緒だ」

「……え?」

「ここに残す方が危険だ」

 あまりにも当然のように言われ、ミツバは一瞬言葉を失った。

「……は、はい!」

 小さな声。だがそこには、確かな意志が宿っていた。


 さらに一週間。

 イズナはついに立ち上がる。

「……よし」

 まだ完全ではない。歩みは遅く、時折足を止める。

「無理すんなよ」

「大丈夫だ」

 短いやり取り。

 それでも三人は進む。

 目指す先――北方密林へ。

 山を越え、荒れた平地を抜け、休み休み北を目指し続けた。

 そうしてひと月。ついに北方の密林へと辿り着く。

 幸い、道中で追跡の気配を感じることはなかった。

 崖の縁に立ち、イズナは遠くを見やった。

 視界いっぱいに広がる深い森。空へ伸びる巨木は常識外れの高さで、まるで山そのものが根を張ったかのようだった。

「……でかいな……」

 アカツキが思わず息を漏らす。

 森の上空では、鳥の姿をした魔獣がいくつも旋回していた。低く円を描き、獲物を探すように滑空している。

 周囲の原野にも、ただならぬ気配が点在していた。遠目にも分かるほど、強い原力のうねり。

 そのときだった。

「……あれ……」

 ミツバの声に、二人の視線が引き寄せられる。

 草原の端、少し窪んだ場所に、牛型魔獣が狼の群れに囲まれている。

 唸り声。飛び散る土。鋭い牙が、次々と牛の巨体へ食い込む。

「……A級か」

 イズナが低く呟く。

 牛型魔獣の放つ気配は重く、明らかに高位。だが数に押され、すでに満身創痍だった。

 それでも――

「……逃げないの……?」

 ミツバの声が震える。

 牛は後退しない。

 密林はすぐ背後。ほんの数歩で飛び込める距離にある。

 なのに、踏み込まなかった。

 牙に裂かれ、血を流しながらも、必死にその場へ踏みとどまっている。

「……森に入りたくない、のか……」

 アカツキの顔が険しくなる。

 三人の視線が自然と交わった。

 あの密林。

 そこへ足を踏み入れるということが、どれほど恐ろしいことなのか。

 目の前の光景が、何より雄弁に物語っていた。


 三人はさらに数時間、歩みを緩めることなく進み続けた。やがて視界の先に、北方密林の縁がはっきりと浮かび上がる。

 森の内側は濃い霧に覆われていた。外では鳥や獣の鳴き声が絶えないというのに、その奥だけが不自然なほど静まり返っている。

「……静かすぎるな」

 アカツキが低く呟く。

 三人は足を止め、互いに顔を見合わせた。すぐ踏み込むべきか、もう少し様子を見るか――決めきれない。

 そのときだった。

 上空を旋回していた鳥型魔獣たちが、一斉に騒ぎ始める。鋭い鳴き声が重なり、三人の頭上で落ち着きなく円を描いた。

「……これは……?」

 ミツバが首をかしげ、空を見上げる。

「私たちが近づいたから……警戒してるんでしょうか……?」

「……いや、違う」

 イズナは目を細めたまま、空から視線を外さなかった。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。

 直後、空気が灼けた。

 横薙ぎに走った熱の奔流が空を裂き、炎が形を取る。

 真紅の翼。

 燃え立つ火の気配をまとい、空中に浮かぶ影。

「――っ!!」

「あいつ……!」

 現れたのは、朱雀院炎羅だった。赤い瞳が、地上の三人を冷たく見下ろしている。

「逃げ切れたと思ったか?」

 凍りつくような声。炎羅は薄く笑った。

「鳳仙族は鳥型魔獣の頂点に立つ存在。空を飛ぶものはすべて、我らに従う」

 翼がゆらりと揺れる。

「どこへ逃げようと――この私からは逃れられん」

 言葉が落ちた瞬間、炎羅の腕が振り下ろされた。

 上空にいくつもの火の玉が生まれ、一直線に落下する。

「……来るぞ!」

 アカツキは即座に腰の小袋へ手を伸ばした。イズナが調合した薬を口へ放り込み、噛み砕く。

 原力が跳ね上がる。

 大剣を引き抜き、残る力を一滴残さず叩き込む。

「はあああっ!!」

 斬撃が空へ奔る。

 迫り来る火の玉と正面からぶつかり、激しい爆発を起こした。

 轟音が草原を揺らす。

 相手はS級魔獣。今のイズナは戦えない。前に出られるのはアカツキだけだ。

 薬で毒素を抑え込み、失っていた力の一端を引き戻したところで――レベル46程度では、S級魔獣には遠く及ばない。

 爆ぜる空を見上げ、イズナは歯を食いしばった。迷っている暇はない。

「――密林へ入るぞ!」

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