50 追われる三人
それから、およそ五分。
唸り続けていた風の球体に、ついに亀裂が走った。内側から噴き上がったのは激しい炎で、暴風の檻は耐えきれずに弾け飛び、空は一面の火に覆われる。
揺らめく火の海の中から、ひとつの影が現れた。真紅の翼を広げた男――朱雀院炎羅。赤い瞳には隠しようのない怒気が宿り、整っていたはずの顔立ちは怒りに歪んでいた。
「……小賢しい真似を」
低く吐き捨てると、荒れた呼吸を鎮めるように、ゆっくりと息を吸って吐く。
やがて炎羅の表情から、わずかに熱が引いていった。
「……ふん。まあいい」
苛立ちを押し込めるように鼻で笑う。
「この極北の魔獣領域にいる限り、私の手から逃げ切れることはない」
赤い瞳が、遠くの空を睨んだ。
「必ず見つけ出す」
声は落ち着いていたが、その底には冷たい殺意が沈んでいる。
「そして――八つ裂きにしてやる」
炎羅が片手を上げると、空を覆っていた火が一斉に揺れた。続いて火の海が渦を巻き、吸い込まれるように炎羅の体内へ収束していく。燃え盛っていた空が、急速に静けさを取り戻した。
炎羅は空中で身を翻し、真紅の翼を大きく打ち払う。爆ぜる風圧。
その姿は残像だけを残して、空の彼方へ消え去った。
北方数十キロ先。山の裾に近い岩場だった。
風がゆるやかに勢いを失い、三人の身体を包んだまま静かに地へ降ろす。足が地面に触れた――その途端、イズナの膝が折れた。
かろうじて立っていた身体が大きく揺れ、そのまま前へ崩れ落ちる。
「イズナ!」
「イズナ様!」
アカツキとミツバが同時に駆け寄り、倒れ込む寸前の身体を受け止めた。
――っ。
ミツバの息が止まる。触れた手のひらに、ぬるりとした感触があった。視線を落とすと、指先が赤く染まっている。
「……え……」
声にならない。服の下、イズナの肌には無数の裂け目が走り、血がにじんで細い線となって流れ落ちていた。呼吸は浅く弱い。気配も、はっきり分かるほど落ちている。
「そん……な……」
ミツバの瞳が揺れ、堪えていたものが一気に溢れ出した。
「私なんかのために……こんな……こんなになるまで……」
声が震え、涙が止まらない。どうしていいか分からず、ただイズナの身体を抱きしめる。
アカツキの表情も険しかった。唇を強く結び、イズナの様子を睨む。
「……くそ」
そのとき、イズナの腰元の小さな袋がほどけ、いくつかの小瓶が地面へ転がり落ちた。
「……ポーションか!」
アカツキは即座に拾い上げる。中身を確かめる余裕もない。
「ミツバ、支えろ!」
「……は、はい……!」
ミツバが必死にイズナの上体を抱き起こす。アカツキは栓を引き抜き、一本、二本――ためらいなくイズナの口元へ流し込んだ。
「飲め……! 頼むから、持ちこたえろ……イズナ……!」
岩場に、切迫した声だけが響いていた。
夜。
山の岩場は、すっかり闇に沈んでいた。応急処置はできる限り施し、ポーションも使い切るほど注ぎ込んだ。
それでもイズナに、目覚めの気配はない。浅い呼吸だけが、かすかに続いている。
「……っ……」
ミツバの喉から小さな嗚咽が漏れた。涙はとうに枯れたはずなのに、それでも止まらない。
アカツキは少し離れた場所で黙々と手を動かしていた。拾い集めた枝で焚き火を組み、周囲には風除け代わりの天幕を張る。木の葉と簡単な布だけの、粗末な野営だ。
「……ここを動くのは無理だな」
低く呟く。魔獣領域の奥地――ただでさえ危険な場所だった。加えて、あの得体のしれないS級魔獣。追跡を振り切れた確証はない。
「……待つしかない、か」
焦りを押し殺し、炎を見つめる。
それから三日。張り詰めた時間だけが静かに過ぎ――イズナの瞼が、わずかに震えた。
「……!」
最初に気づいたのはミツバだった。
「……イズナ様……!」
潤んだ瞳が、信じられないものを見るように揺れる。
背後からアカツキの声が飛んだ。
「目ぇ覚ましたか、イズナ」
イズナは横たわったまま、かすかに視線を動かす。だが声を出す力は残っていなかった。唇すら、ほとんど動かない。代わりに、目だけが静かに二人を追う。
「……無理に喋るな」
アカツキが低く言う。
「ミツバ、水だ」
「は、はい……!」
慌てて小袋から水筒を取り出し、ミツバはそっとイズナの頭を抱き起こした。壊れ物に触れるような手つきで、慎重に唇へ水を含ませる。
イズナの喉が、ごくわずかに動いた。ほんの一口。それだけで限界だった。やがて瞼が閉じられる。
「……イズナ様……?」
「心配すんな」
アカツキが息を吐く。
「眠っただけだ」
――意識の奥。
(……先生、いますか……?)
かすれた呼びかけ。
(ああ)
すぐに返る声。
(よく目を覚ましたな、イズナ)
(……あれから、どうなっているんですか)
(丸三日じゃ。おぬしは深く眠り続けておった)
(……三日……)
(原力は尽き、肉体にもかなりの負荷がかかっておったが……幸い、致命的な傷には至っておらん)
(……よかったです……先生……本当にありがとうございます)
(礼を言うのはまだ早い。ワシもまた、残っていた力の大半を使い果たしてしもうた)
(……え……)
(もしまた、あの鳳仙族とやり合うことになれば、次は無事では済まぬやもしれん)
(……はい)
(今は余計なことを考えるでない。もうしばらく眠るのじゃ)
(……はい)




