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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
50/55

50 追われる三人

 それから、およそ五分。

 唸り続けていた風の球体に、ついに亀裂が走った。内側から噴き上がったのは激しい炎で、暴風の檻は耐えきれずに弾け飛び、空は一面の火に覆われる。

 揺らめく火の海の中から、ひとつの影が現れた。真紅の翼を広げた男――朱雀院炎羅。赤い瞳には隠しようのない怒気が宿り、整っていたはずの顔立ちは怒りに歪んでいた。

「……小賢しい真似を」

 低く吐き捨てると、荒れた呼吸を鎮めるように、ゆっくりと息を吸って吐く。

 やがて炎羅の表情から、わずかに熱が引いていった。

「……ふん。まあいい」

 苛立ちを押し込めるように鼻で笑う。

「この極北の魔獣領域にいる限り、私の手から逃げ切れることはない」

 赤い瞳が、遠くの空を睨んだ。

「必ず見つけ出す」

 声は落ち着いていたが、その底には冷たい殺意が沈んでいる。

「そして――八つ裂きにしてやる」

 炎羅が片手を上げると、空を覆っていた火が一斉に揺れた。続いて火の海が渦を巻き、吸い込まれるように炎羅の体内へ収束していく。燃え盛っていた空が、急速に静けさを取り戻した。

 炎羅は空中で身を翻し、真紅の翼を大きく打ち払う。爆ぜる風圧。

 その姿は残像だけを残して、空の彼方へ消え去った。



 北方数十キロ先。山の裾に近い岩場だった。

 風がゆるやかに勢いを失い、三人の身体を包んだまま静かに地へ降ろす。足が地面に触れた――その途端、イズナの膝が折れた。

 かろうじて立っていた身体が大きく揺れ、そのまま前へ崩れ落ちる。

「イズナ!」

「イズナ様!」

 アカツキとミツバが同時に駆け寄り、倒れ込む寸前の身体を受け止めた。

 ――っ。

 ミツバの息が止まる。触れた手のひらに、ぬるりとした感触があった。視線を落とすと、指先が赤く染まっている。

「……え……」

 声にならない。服の下、イズナの肌には無数の裂け目が走り、血がにじんで細い線となって流れ落ちていた。呼吸は浅く弱い。気配も、はっきり分かるほど落ちている。

「そん……な……」

 ミツバの瞳が揺れ、堪えていたものが一気に溢れ出した。

「私なんかのために……こんな……こんなになるまで……」

 声が震え、涙が止まらない。どうしていいか分からず、ただイズナの身体を抱きしめる。

 アカツキの表情も険しかった。唇を強く結び、イズナの様子を睨む。

「……くそ」

 そのとき、イズナの腰元の小さな袋がほどけ、いくつかの小瓶が地面へ転がり落ちた。

「……ポーションか!」

 アカツキは即座に拾い上げる。中身を確かめる余裕もない。

「ミツバ、支えろ!」

「……は、はい……!」

 ミツバが必死にイズナの上体を抱き起こす。アカツキは栓を引き抜き、一本、二本――ためらいなくイズナの口元へ流し込んだ。

「飲め……! 頼むから、持ちこたえろ……イズナ……!」

 岩場に、切迫した声だけが響いていた。


 夜。

 山の岩場は、すっかり闇に沈んでいた。応急処置はできる限り施し、ポーションも使い切るほど注ぎ込んだ。

 それでもイズナに、目覚めの気配はない。浅い呼吸だけが、かすかに続いている。

「……っ……」

 ミツバの喉から小さな嗚咽が漏れた。涙はとうに枯れたはずなのに、それでも止まらない。

 アカツキは少し離れた場所で黙々と手を動かしていた。拾い集めた枝で焚き火を組み、周囲には風除け代わりの天幕を張る。木の葉と簡単な布だけの、粗末な野営だ。

「……ここを動くのは無理だな」

 低く呟く。魔獣領域の奥地――ただでさえ危険な場所だった。加えて、あの得体のしれないS級魔獣。追跡を振り切れた確証はない。

「……待つしかない、か」

 焦りを押し殺し、炎を見つめる。


 それから三日。張り詰めた時間だけが静かに過ぎ――イズナの瞼が、わずかに震えた。

「……!」

 最初に気づいたのはミツバだった。

「……イズナ様……!」

 潤んだ瞳が、信じられないものを見るように揺れる。

 背後からアカツキの声が飛んだ。

「目ぇ覚ましたか、イズナ」

 イズナは横たわったまま、かすかに視線を動かす。だが声を出す力は残っていなかった。唇すら、ほとんど動かない。代わりに、目だけが静かに二人を追う。

「……無理に喋るな」

 アカツキが低く言う。

「ミツバ、水だ」

「は、はい……!」

 慌てて小袋から水筒を取り出し、ミツバはそっとイズナの頭を抱き起こした。壊れ物に触れるような手つきで、慎重に唇へ水を含ませる。

 イズナの喉が、ごくわずかに動いた。ほんの一口。それだけで限界だった。やがて瞼が閉じられる。

「……イズナ様……?」

「心配すんな」

 アカツキが息を吐く。

「眠っただけだ」


 ――意識の奥。

(……先生、いますか……?)

 かすれた呼びかけ。

(ああ)

 すぐに返る声。

(よく目を覚ましたな、イズナ)

(……あれから、どうなっているんですか)

(丸三日じゃ。おぬしは深く眠り続けておった)

(……三日……)

(原力は尽き、肉体にもかなりの負荷がかかっておったが……幸い、致命的な傷には至っておらん)

(……よかったです……先生……本当にありがとうございます)

(礼を言うのはまだ早い。ワシもまた、残っていた力の大半を使い果たしてしもうた)

(……え……)

(もしまた、あの鳳仙族とやり合うことになれば、次は無事では済まぬやもしれん)

(……はい)

(今は余計なことを考えるでない。もうしばらく眠るのじゃ)

(……はい)

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