49 蒼嵐と紅蓮
男は一歩、ゆっくりと踏み出した。
「……まあいい。どのみち結果は同じだ」
低く笑い、細い目を細める。
「それにしても――そんな至宝。
君のような小僧が持っていても宝の持ち腐れだ。
その神紋……私が預かってやろう」
言葉と同時に、男の身体から原力がうねった。
押し殺されていた力が、堰を切ったように溢れ出す。
空気が重く沈み、空間そのものが軋んだ。
たとえA級魔獣でさえ、 膝をつくしかない――それほどの威圧だった。
イズナは目を細める。
「……ふん」
鼻で笑う。
「たかがS級魔獣が、 このワシの神紋に目をつけるとはな」
挑発にも近い言葉。
男は怒るどころか、 かすかに口元を歪めた。
「威勢だけは褒めてやろう」
直後――
無形の原力が、四方からイズナへ襲いかかった。
目に見えぬ圧力。
殺意だけを帯びた衝撃。
イズナは片手を上げ、静かに印を結ぶ。
轟、と風が唸った。
周囲を覆っていた暴風が一気に膨れ上がる。
同時に、もう片方の手が虚空へ差し入れられた。
何もない空間。
だが確かに、そこへ腕を沈める。
そして――
ゆっくりと引き抜いた。
現れたのは、一振りの直刀。
イズナの背丈をも超える長さ。
無駄のない、真っ直ぐな刀身。
刀身に走った金属の光が、鋭く閃く。
イズナはそれを無造作に振り下ろす。
たった一閃。
空間に無数の風刃が走った。
襲い来る無形の原力は、 届くより先に細かく切り裂かれ――
霧散。
形を保つことすら許されず、 音もなく崩れ落ちた。
「……ほう」
男の動きが止まる。
口元の笑みが、すっと消える。
細い目がイズナを射抜いた。
先ほどまでの余裕は消え失せ、男の表情が静かに変わる。
「……宝具まで持っているのか」
男は低く呟き、口元をわずかに歪めた。
「どうやら君は……ただの人間の小僧ではないようだ」
空気が、ぴりと張り詰める。
「名乗っておこう。
私は極東魔獣領域――鳳仙族が一柱」
わずかに顎を上げる。
「朱雀院炎羅だ」
その名が落ちた瞬間、場の温度が変わった。
「我ら鳳仙族に刃向かう……
その意味、分かっているのだろうな?」
だが――
イズナは微動だにしない。
「……ふん」
鼻で笑う。
「極東魔獣四家、か。
名乗り一つで、ワシが怯むとでも思ったか?」
朱雀院炎羅の眉が、ぴくりと跳ねた。
「……なるほど」
冷えた笑みが浮かぶ。
「強がりも、いつまで続くかな」
次の瞬間。
背より、赤い光が爆ぜた。
――翼。
燃え立つような真紅の羽が、大きく広がる。
炎の気配をまとった翼が、ゆらりと揺れた。
地を蹴ることなく、朱雀院炎羅の身体が宙へ浮かぶ。
そして――
掲げた掌の上に、紅蓮の火が灯った。
静かに、確かな熱量で燃え上がる。
「鳳仙族は……火と共にある」
その瞳が妖しく光る。
「我が一族は、生まれながらの炎の使い手」
火焔が、さらに勢いを増す。
「風ごときで――」
嘲るように言い放つ。
「この私に勝てると思うなよ」
朱雀院炎羅の声が落ち、火が天幕のように広がる。
視界を埋め尽くすほどの炎。
淡い緑に満ちていた空間が、一気に赤へと染め上げられた。
「いけ――『鳳凰紅蓮』」
炎羅の掌から放たれた火が渦を巻き、形を成す。
生まれ落ちたのは、巨大な火の鳥。
翼を広げた灼熱の塊が、上空から一直線に降り注ぐ。
逃げ場を許さぬ、圧倒的な質量と熱。
その真下。
イズナは長大な直刀を静かに構え、ただ一点――落ちてくる火鳥を見据える。
「――『蒼嵐千刃』」
低く呟き、刃を振り上げた。
振り抜かれた一閃。
風を纏う斬撃が、周囲の空気を一気に引き裂く。
数万を超える風刃が一斉に解き放たれ、絡み合い、うねりながら龍のように天へ駆け上がった。
赤の鳳凰。
緑の風龍。
二つの力が、真っ向から激突する。
――轟音。
世界が爆ぜた。
光と衝撃が弾け飛び、風の結界が耐えきれずに崩壊する。
抑え込まれていた力が解き放たれ、爆発的な波動となって広がった。
外縁町の上空。
赤と緑の衝撃波が交差し、空を覆い尽くす。
大地が揺れ、空気が唸る。
昨日の戦闘すら霞む、桁違いの威圧。
遠く離れた魔虎軍の陣地でも、その異変ははっきりと感じ取られていた。
「……なんだ、あれは……」
兵たちのざわめき。
ミスドロン将軍もまた、言葉を失い、ただ呆然と空を仰ぐ。
赤と緑の衝撃が空を裂く中、イズナの顔色は目に見えて失われていた。
血の気の引いた頬。
浅くなる呼吸。
衣の下では、肌のあちこちに細かな裂け目が走り、赤い筋がじわりと滲んでいる。
それは戦闘で負った傷ではなかった。
アウレの力――今のイズナの身体には、あまりにも重すぎる負荷。その代償が、確実に肉体を蝕んでいた。
イズナの指が静かに動き、組まれる印が変わる。
次の瞬間、額に刻まれた古い紋様が再び強く輝いた。
衝撃で四散していた風が呼応するように引き戻され、行き場を失っていた気流が渦を巻いて収束していく。
圧縮された暴風は、朱雀院炎羅の周囲を取り囲むようにして巨大な球体を形作った。
「……っ!」
唸りを上げる気流の牢獄。荒れ狂う風が炎羅の動きを封じ込める。
このまま撃ち合えば、勝敗が決する前にイズナの身体が限界を迎える。
(……ここまでか)
わずかな隙を見切り、イズナは踵を返す。
空を蹴り、一歩、二歩。
瞬く間に距離を縮めていた。風を裂く軌跡の先に、アカツキとミツバの姿が映る。
その傍らへ滑り込むと同時に、イズナは迷いなく手を振った。
轟、と風が炸裂する。
三人の身体を包み込む奔流。暴風が地を蹴り、視界の景色が弾け飛ぶ。
気づけば、イズナたちの姿はすでに遥か彼方へと掻き消えていた。




