48 ミツバの危機
ミツバは、目の前の男から目を逸らせなかった。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
まだ、きちんと別れも言えていない。
伝えたい言葉も、何ひとつ届いていない。
このまま、誰にも知られず――
消えてしまうの……?
「……いや……」
かすれた声が、わずかに漏れる。
もし、以前の自分だったなら。
ただ運命を受け入れて、うつむいていたかもしれない。
けれど――
あの少年と出会ってから、
自分は少しだけ、変われた気がしていた。
怖くても。
震えても。
それでも、前に進みたいと思えた。
(……助けて……)
誰が来てくれるというのだろう。
これまで、誰一人として
本当の意味で自分を見てくれた者はいなかった。
――あの人だけは、違っていた。
熱に浮かされたように、唇が震える。
「……た、すけ……て……」
途切れかけた声。
大きく息を吸い込み――
「イズナ様――!」
叫んだ。
「……ん?」
男の眉が、わずかに動く。
「私の原力拘束を受けて、まだ声を出せるとは……」
細い目が、興味と警戒の色を帯びた。
「やはり――
その血は、完全に断っておくべきだ」
男の瞳に、濃い殺意が滲んだ。
ゆっくりと、男の指が握り込まれる。
見えない原力がミツバの身体を締め上げ、
無慈悲に圧力を強めていく。
「……っ……!」
骨ごと軋むような圧迫。
呼吸すら奪われる。
このまま――押し潰される。
そう思った、その瞬間だった。
男の表情が、突如として変わる。
「――っ!」
反射的に振り返り、
原力をまとった拳を後方へ叩きつけた。
――激突。
拳と、緑の暴風が正面からぶつかり合う。
空気が裂け、
爆ぜた衝撃が室内を蹂躙した。
轟音。
吹き荒れる風。
耐えきれず――屋根が弾け飛んだ。
舞い上がる瓦礫。
視界を覆う砂塵。
やがて――
渦巻いていた風が、ゆっくりと静まっていく。
男は険しい顔のまま視線を戻した。
ミツバの前。
そこに――
ひとりの少年が立っていた。
細身の背中。
静かな佇まい。
だが、その姿があるだけで――
空気が変わる。
男は、くつくつと喉の奥で笑った。
「なるほど……八咫烏どもが騒いでいた
“風を操る人間の小僧”か。
あいつらが歯が立たなかったのも無理はない」
細い目が、イズナを値踏みするように細められる。
「……その力。
神紋だな?」
イズナは答えない。
ただ静かに、男を見据える。
緑の瞳。
その奥で、底知れぬ風が揺れている。
――数分前。
外縁町を離れた直後だった。
イズナの意識の奥で、不意に声が響く。
(……待て)
アウレの声だった。
(どうした、先生)
(後ろから……妙な気配がある)
イズナは足を止めた。
(昨晩の連中ですか?)
(違う)
即座に否定が返る。
(よく気配を隠しておるが……相当の強者じゃ、狙いは、あの虎の将軍か)
わずかな間。
(……いや)
一瞬の静寂。
(将軍ではない……)
そして、低く告げる。
(戻れ、イズナ!)
「……え?」
(あのハーフの小娘が危ない!)
イズナの顔色が変わる。
「戻るぞ、アカツキ!」
説明はなかった。
「……了解」
アカツキは理由を問わない。
ただイズナの様子から異変を察し、そのまま駆け出した。
二人は即座に踵を返す。
走る中で、アウレの感覚がさらに研ぎ澄まされていく。
(時間がない)
低く、確信を帯びた声。
(イズナ……身体を借りるぞ)
(分かりました!)
次の瞬間。
イズナの視界が揺れた。
意識の深層から、もうひとつの存在が前へ出る。
原力の流れが変わる。
空気が軋む。
そして――
間一髪。
アウレはイズナの身体を通して、その場へと舞い戻った。
男とイズナの視線が、真っ向からぶつかる。
その直後――
アカツキが少し遅れて駆け込んできた。
「イズナ――」
イズナは振り返らない。
視線を外すことなく、低く言い放つ。
「……そやつを連れて離れろ」
一拍。
「こやつは――ワシが相手する」
アカツキは一瞬、目を見開いた。
その口調。
その気配。
肌を刺す、この圧。
(……この感覚……)
かつて、自分を叩き伏せた“あの時のイズナ”だ。
「……了解」
短く答え、ミツバのもとへ駆け寄った。
ようやく我に返ったミツバは、小さく息を呑んだ。
震える唇から、かすれた声がこぼれる。
「……イズナ……様……」
本当に、来てくれた。
信じきれなかった現実が、胸に熱を灯す。
けれど――
喜びより先に、拭えない違和感がよぎった。
魔獣の感覚は、人間よりも鋭い。
だからこそ分かる。
目の前に立つイズナ。
姿は同じなのに、どこか空気が違っていた。
静かすぎる気配。
張り詰めた原力。
――今まで感じたことのない圧。
明らかに、以前とは比べものにならないほど強い。
胸がざわつく。
限界を越える力には、代償が伴う。
それは魔獣であるミツバにも分かっていた。
もし、その代償が――
自分のせいだとしたら。
不安が、喉を締めつける。
そのときだった。
男が低く笑う。
「この私の前で、逃げられるとでも?」
前へ一歩踏み出した瞬間――
イズナの指先が、すっと宙をなぞった。
轟、と空気が唸る。
緑の暴風が巻き起こり、二人を中心に円を描いた。
半径およそ十メートル。
荒れ狂う風の壁。
男とイズナを、外界から完全に隔てる。
「……っ」
男の足が止まった。
わずかに沈む表情。
細い目が、険しくイズナを射抜く。
舌打ちこそしないが、理解は早かった。
――どうやら、ミツバを仕留める前に、目の前に立ち塞がる、この人間の少年を排除しなければならない。




