45 神紋在処
黒い霧は、それ以上広がることはなかった。
やがて空中で形を変え、壁のように凝縮していく。
濃淡の異なる黒が折り重なり、実体と影が溶け合ったような、不思議な立体感を形作っていた。
「……これは」
思わず、イズナが声を漏らす。
アウレも目を細め、宙に浮かぶ異様な光景をじっと見据えていた。
「……地図じゃ」
「地図?」
その言葉に、イズナはあらためて霧の壁へと視線を向ける。
虚と実が織りなす起伏は、確かに山並みを思わせる形を描いていた。
しばらく見つめていると、それが偶然の産物ではないことが分かってくる。
立体的に浮かび上がった部分は、まるで地形そのものを写し取ったかのようだった。
「じゃが……アストラ王国でもない。
この極北の魔獣領域とも、地形が合わん」
その言葉に、イズナは眉をひそめる。
二人の視線が、自然と地図の中心へと引き寄せられた――そのときだった。
アウレが、はっと息を呑む。
次の瞬間、信じられないものを見たかのように目を見開き、思わず一歩、前へ踏み出していた。
「……まさか」
「先生? どうしたんですか?」
ここまで動揺したアウレを見るのは、イズナにとっても初めてだった。
アウレは震える指で、地図の中心を指し示す。
そこには、黒い渦のような印が浮かび上がっていた。
「こ、これは……神紋じゃ」
声が、はっきりと震えている。
「神紋!?」
「そうじゃ。この地図が示しているのは、神紋の在処」
断言だった。
アウレが見誤るはずがない。
若い頃、神紋を追い求めていた彼は、古籍に記されたあらゆる神紋の印を片端から書き写し、形を叩き込んできた。
その記憶に刻まれた紋様と、今、目の前に浮かぶ黒い印は――疑いようもなく一致している。
「しかも……ただの神紋ではない」
アウレは一度、息を整え、言葉を選ぶように続けた。
「数ある神紋の中でも、最も得体の知れん――
空喰の神紋じゃ。まさか、その手がかりをここで掴むことになろうとは」
その名を聞いた瞬間、イズナの視線は地図の中心へと吸い寄せられた。
目を輝かせたまま、黙ってアウレの説明に耳を傾ける。
「本来、神紋というものは、天地の異象の中で生まれ、そこに満ちる莫大な力を取り込み続けておる」
アウレは自身の胸元に手を当てた。
「じゃが、その力の格は一様ではない。
ゆえに歴史の中で、神紋は“格”によって序列が付けられてきた。
ワシの《狂嵐の神紋》は、全十七ある神紋の中で第九位じゃ」
わずかに、胸を張る。
「……第九位、ですか」
「そして、この地図が示す空喰の神紋は――
序列では、十七位。最下位じゃ」
「……十七位」
思わず、声が落ちる。
期待していた分、失望は隠せなかった。
だが、すぐにイズナは考え直す。
たとえ最下位であろうと、それが神紋である事実に変わりはない。
天地が生み出した、比類なき力の結晶――それは紛れもない。
その反応を見て、アウレはふっと口元を緩めた。
「ワシが言うたじゃろう。
これが、最も得体の知れん神紋じゃと」
どこか含みを持たせた笑みだった。
「序列が最下位に置かれておる理由も、そこにある。
これまで、空喰の神紋の力を本当の意味で引き出せた者はおらん」
「……どういうことですか?」
イズナが問い返す。
アウレは一拍置き、声を落として続けた。
「空喰の神紋には、ひとつの噂がある。
――他の神紋を喰らい、その力を取り込んで成長する、というものじゃ」
「……神紋を、喰う?」
「そうじゃ」
アウレは、ゆっくりとうなずいた。
「過去には、この空喰の神紋を手にした強者もおった。
じゃが、誰一人として“次”へは進めなかった」
「次、というと……」
「二枚目の神紋じゃ」
その一言に、イズナは息を呑む。
「そもそも神紋そのものが、滅多に存在せん。
しかも一つひとつが、途方もない力を秘めておる」
アウレは、静かに、しかし断定的に言った。
「たった一枚を従わせるだけでも、命を賭けねばならん。
それを二枚、ましてやそれ以上となれば……想像に難くあるまい」
だからこそ。
「空喰の神紋は、成長の可能性を持ちながら、誰にも使いこなされなかった。
ゆえに、序列は最下位じゃ」
イズナは、再び地図の中心を見つめる。
黒い渦は、何も語らず、ただ静かにそこに在った。
その奥に、可能性と破滅を同時に抱え込むかのように。
(これを手に入れられれば……
自分も、先生のような強者になれる)
その思いが胸をよぎった――まさに、その瞬間だった。
黒い霧が、ゆっくりと収縮を始める。
紙へと戻っていくのだろう――そう思った矢先。
霧は一気に凝縮し、一本の黒い光へと変わった。
次の瞬間、それは一直線に――イズナへと放たれる。
「危ない!」
アウレが叫ぶ。
だが、この距離、この速度。
たとえアウレであっても、手を差し伸べる余地はなかった。
イズナが事態を理解したときには、すでに遅い。
黒い光は、抵抗もなく彼の身体へと溶け込んでいった。
「……っ」
即座に精神力を巡らせ、身体の隅々まで探る。
違和感はない。
痛みも、異変も、何ひとつ感じられなかった。
まるで――
本当に、何も起きていないかのように。
アウレも表情を強張らせ、強大な精神力でイズナを探る。
それでも、手がかりは掴めなかった。
「……痕跡が、ない」
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
どうやら、アカツキとミツバが戻ってきたようだ。
アウレは一瞬だけイズナを見つめ、低く告げた。
「今は、様子を見るしかあるまい」
そう言い残すと、その姿はふっと掻き消えた。
再び、イズナの内へと身を潜めるように。
部屋には、何事もなかったかのような静けさが戻る。




