38 嵐の激突
巨大な斧が、唸りを上げて振り下ろされた。
上から下へ、一直線。
まともに受ければ、同格の『上位』であっても無事では済まない一撃だ。
――だが。
イズナは、避けなかった。
身構えることすらせず、その場に立ったまま、斧を迎え入れる。
「もらった――!」
巨猿が、勝利を確信した声を上げる。
その瞬間だった。
斧の軌道が、わずかに――しかし確実に歪んだ。
イズナの目前で、巨大な刃は不自然に進路を逸らし、左下へと流される。
次の瞬間、地面を叩き割る轟音。
斧は深く地中に食い込み、石畳を引き裂きながら、数メートルにも及ぶ溝を刻んで止まった。
「なに――!?」
巨猿が、思わず目を見開く。
その視線の先。
イズナの全身には、淡い緑の風が幾重にも絡みついていた。
流れるようでいて、しかし確かな密度を持ち、身体の輪郭をなぞっている。
風は渦を巻き、刃を拒み、力の向きをねじ曲げる。
――『風の鎧』。
イズナは表情一つ変えず、静かに腕を伸ばした。
開いた掌を、真正面から巨猿へと向ける。
あまりにも不釣り合いな光景。
小さな人間と、圧倒的な巨体の魔獣。
一瞬、時間そのものが止まったかのように見えた。
――パァンッ。
乾いた破裂音が、空気を打ち砕く。
斧は地面に残されたまま、巨猿の巨体だけが、見えない拳に殴り飛ばされたように宙を舞った。
数十メートル先まで吹き飛ばされ、そのまま魔猿軍の隊列へ突っ込む。
悲鳴が上がり、何体もの兵を巻き倒しながら、巨体は地面を転がった。
「――ぐっ……!」
体を起こそうとした、その瞬間。
――ヒュッ。
鋭く空を裂く音が、耳元をかすめる。
「まずい!」
反射的に横へ転がった直後、
先ほどまで倒れていた場所に、轟音とともに影が落ちた。
深く地面を抉り、斧が突き刺さっていた。
「おのれ――!」
怒りの咆哮を上げようとした、その刹那。
すでに、目の前にイズナがいた。
距離は、ほぼゼロ。
再び、掌が突き出される。
――パァンッ。
二度目の炸裂音。
今度は、より近く、より重い。
極限まで圧縮された空気が解き放たれ、
爆発的な衝撃となって、巨猿を叩き飛ばす。
巨体は悲鳴を上げながら宙を転がり、地面を何度も跳ねて、ようやく止まった。
イズナは、ゆっくりと手を下ろす。
彼が使っているのは、決して複雑な技ではない。
極限まで圧縮した空気を、一点に解き放つ――それだけ。
その単純さゆえに、威力は凶悪だった。
風は、すでに完全に彼の味方になっている。
巨猿が二度も吹き飛ばされた光景に、魔猿軍の動きが目に見えて鈍った。
歓声と怒号で満ちていたはずの庭に、ざわりとした戸惑いが広がる。
「……今の、見たか?」
「殴った……? いや、触れてすら……」
誰もが視線を逸らせず、イズナを見つめていた。
さきほどまでの嘲りは消え、代わりに滲むのは、はっきりとした動揺。
数体の魔猿が、無意識のうちに一歩、また一歩と後ずさる。
「あり得ねぇ……あんな『見習』の人間ガキが、なんで、こんな力を……」
原力の気配は、依然として微弱。
それが余計に、理解を拒んだ。
巨猿は瓦礫を弾き飛ばしながら跳ね起き、怒りのままに咆哮する。
「ぶっ殺す……ぶっ殺してやるッ!!」
理性はすでに吹き飛んでいる。
ただ、目の前の人間を叩き潰す――その衝動だけが、全身を支配していた。
イズナは、その叫びに応じなかった。
ちらりと視線を横に流し、アカツキの戦場を見る。
――あっちも、そろそろだ。
激突する原力のうねり。
剣と太刀がぶつかるたび、空気が震え、庭が軋む。
互いに決着をつける一撃を、わずかな間合いで探り合っていた。
(……こっちの持ち時間は、せいぜい十分)
神紋を借りて引き出せる力には、明確な制限がある。
無駄に消耗するつもりはなかった。
イズナは、静かに息を吐く。
「……そろそろ、終わりにしよう」
その瞬間だった。
イズナの体から、これまでとは異なる気配が滲み出す。
淡く、しかし確かな――蒼。
冷たい原力が霧のように広がり、左手へと集束していく。
同時に、右手には緑の風が渦を巻き、小さな竜巻となって形を成した。
庭の空気が、一段低く沈む。
「……属性原力だと?」
「しかも……氷属性……!?」
魔猿軍、そして魔虎軍の中から、驚愕の声が上がる。
「待て……あの人間、二つの属性を……!?」
「そんな馬鹿な……!」
ざわめきが一気に広がった。
原力が複数の属性を帯びること自体は、理論上は可能だ。
だが、それには相応のランク、あるいは特殊なスキルが必要になる。
少なくとも――
『見習』と呼ばれる段階の人間が扱える代物ではない。
属性を一つ持つだけでも異例。
それが二つとなれば、もはや常識の外だ。
もっとも。
風の力は、イズナ自身の原力ではない。
それは狂嵐の神紋――アウレから借り受けた力にすぎない。
そんな事情を知る者は、ここにはいなかった。
イズナは、左右の手を静かに近づけた。
二つの力が触れ合った瞬間――
淡い蒼色を帯びた、鋭利な小さな渦が生まれる。
次の瞬間、イズナはその手を天へと掲げた。
轟、と低い音を立てて、渦が膨張する。
無数の氷の破片を巻き込みながら、狂風が螺旋を描いて立ち上がった。
氷片が舞い、暴風が唸る。
瞬く間に、イズナを中心として、数十メートルにも及ぶ氷の嵐が形を成す。
それは、かつてクロードとの戦いで目にし、身をもって学び取った制御術。
だが今は、神紋の力によって――規模そのものが、桁違いだった。
巨猿は、ほんの一瞬だけ動きを止める。
遅れて、本能が警鐘を鳴らしていた。
巨猿は片腕を振るい、地に突き刺さっていた巨斧を引き戻す。
両手で柄を握りしめ、そのまま全身を使って回転を始めた。
唸りを上げる筋肉。
巨大な斧と巨体が生み出す回転が、空気を切り裂き――
こちらもまた、無数の斬撃を孕んだ暴風が立ち上がる。
鋭利な刃の竜巻。
「どっちが上か……はっきりさせてやる!」
巨猿が吼える。
「――『魔神斬』ッ!!」
刃の竜巻が、地面を抉りながら突進する。
それを見て、イズナは口元をわずかに吊り上げた。
次の瞬間、腕を振り下ろす。
「――『氷嵐』」
蒼き氷の嵐が、正面から解き放たれた。




