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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
36/55

36 魔猿将軍

 先ほど声を上げた巨大な猿型魔獣――

 それは数日前、アカツキを集団で襲い、しかしイズナの介入によって形勢を崩され、傷を負って逃げ延びた、あの巨猿だった。

 そして、その隣に立つ魔獣は、さらにひと回り大きい。

 猿というより、ゴリラに近い体躯。

 その巨体は、魔虎軍の将であるミスドロン将軍とほぼ同格と言っていい。

 逆立った灰色の体毛。

 血を思わせる猩紅の双眼には、理性よりも先に暴力が宿っている。

 その姿を認めた瞬間、魔虎軍の兵たちの表情が一斉に強張った。

 ――魔猿軍総大将。

 ラント・ロプス将軍。

 B級魔獣。

 ラントはゆっくりと視線を巡らせ、やがてアカツキの姿で止めた。

 その口元が、わずかに歪む。

「ミスドロンに連れて行かれた人間が、もう一人いたな」

 低く、腹の底から響く声。

「気配がある……あの部屋か。中で何かしているようだ」

 その言葉を受け、傷を負った巨猿が一歩前に出る。

 唇を吊り上げ、怒気を隠そうともせずに吠えた。

「兄貴! あの二人の人間は――必ず殺して、噛み砕いてやる!」

 ラント将軍は鼻で笑う。

「焦るな。

 今日ここにいる者は――誰一人として、逃がすつもりはねぇ」

 その言葉が落ちた瞬間、魔猿軍から獣じみた歓声が一斉に上がった。

 興奮と殺意に満ちた咆哮が重なり合い、空気そのものが震える。

 一方、魔虎軍の側には重苦しい沈黙が広がっていた。

 誰もが顔を強張らせ、歯を噛みしめている。

「……どうして、こんな……」

 誰かが、絞り出すように呟いた。

 ラント将軍だけでも脅威だというのに――その弟までが、ここにいる。

 二体のB級魔獣。

 この戦力差を前にして、抗う術などあるはずがなかった。

 魔虎軍の兵たちの表情が、次第に沈み込んでいく。

 そのときだった。

「……ミスドロン将軍は、必ず戻ってくる」

 一人の兵が、震える声でそう言った。

「将軍が戻ってくれさえすれば……きっと、奴らを退けてくれる……!」

 縋るような言葉。

 それに応えるように、わずかに顔を上げる者もいる。

 だが――

 ラントは喉の奥で低く笑った。

「くくっ……」

 そして、はっきりと嘲りを込めて言い放つ。

「ミスドロンは、もう戻ってこねぇよ」

 場の空気が、一瞬で凍りついた。

「な……っ」

「き、貴様……! ミスドロン将軍に、何をした――!」

 怒号が飛ぶ。

「お前らには、知る必要はねぇ」

 ラントの声は、感情の欠片もなく冷え切っていた。

「どうせ――ここで死ぬ。

 外縁町も、これからは我が魔猿軍のものだ」

 その一言が落ちた瞬間、場の空気が張りつめた。

 アカツキは静かに息を吐き、一歩前へ出る。

 剣を構えたまま、巨猿へと視線を向けた。

「……あの時、逃がすべきじゃなかったな」

 淡々とした声だった。

 悔恨とも自責ともつかない。ただ、事実を述べているだけの口調。

 一対二。

 しかも相手は、B級魔獣が二体。

 今の自分で抗える状況ではない。

 それでも、退く気はなかった。

 そのときだった。

 背後の客室から、眩いほどの緑光が溢れ出す。

「……なんだ?」

「何が起きた?」

 扉の隙間から漏れた光は、庭の闇を押し退けるように広がり、空気そのものを震わせた。

 直後、薬草を煮詰めたような澄んだ香りが、室内から溢れ出す。

 眩い緑光は次第に弱まり、やがて静かに収束していった。

「あの部屋……確か、人間の客人が使っていたはずだが……」

「イズナ様……」

 ざわめきが広がる中、ミツバが不安そうに呟く。

 その背後で、アカツキは剣を下ろすことなく、静かに振り返った。

 そして、低く一言だけ漏らす。

「……この気配、やっと終わったか」

 ラント将軍は目を細め、その部屋を睨み据えていた。

 獣のような嗅覚で、何かを悟ったかのように。

「――あの人間、錬金術師か」

 次の瞬間。

 軋む音を立てて、客室の扉がゆっくりと開いた。

 集まったすべての視線を受けながら、イズナが何事もなかったかのように室内から歩み出る。

 緊張に満ちた庭を一瞥し、淡々と口を開いた。

「……ずいぶん賑やかだな」

 そして、ふと視線を止める。

「おや? 見覚えのある顔もいるじゃないか」

 その言葉に、巨猿の表情が一瞬で歪んだ。

 牙を剥き、溜め込んでいた怒気を吐き出すように吠える。

「――兄貴、こいつだ!

 こいつが突然現れなければ、俺はあの大剣使いに傷を負うこともなかった!」

 巨猿の怒りに対して、イズナは一切応じなかった。

 吠え声など耳に入っていないかのように、視線すら向けない。

 そのまま一直線に歩き出し、剣を構えるアカツキの隣に並ぶ。

「ありがとうな。調合している間、守ってくれて」

「……約束を果たすまでだ」

 アカツキは視線を前に据えたまま、短く答える。

 イズナはそれに、ほんのわずか口元を緩めた。

 そして、ゆっくりと前へ視線を移す。

「――あの巨猿は、俺が引き受ける」

 一拍置いて、横目でアカツキを見る。

「そっちの“将軍”とやらは、頼んだぞ」

「……ああ」

 その様子を眺めていたラント将軍が、肩を揺らして嘲るように笑う。

「おいおい……随分と舐められたもんじゃねぇか」

 次の瞬間、彼が一歩踏み出した。

 ――どん、と。

 空気が沈む。

 凄まじい原力が、ラント将軍の体から溢れ出し、波のように周囲を押し潰した。

 その圧に、庭にいた者たちは思わず後ずさる。

 足に力が入らず、数人がその場で膝をついた。

「な……なんだと!?」

「そんな……馬鹿な……!」

 ざわめきが広がる中、ラント将軍は口角を吊り上げる。

「俺ぁな――B級なんざ、とっくに越えてんだ。

 今はA級だ。覚悟しとけよ」

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