36 魔猿将軍
先ほど声を上げた巨大な猿型魔獣――
それは数日前、アカツキを集団で襲い、しかしイズナの介入によって形勢を崩され、傷を負って逃げ延びた、あの巨猿だった。
そして、その隣に立つ魔獣は、さらにひと回り大きい。
猿というより、ゴリラに近い体躯。
その巨体は、魔虎軍の将であるミスドロン将軍とほぼ同格と言っていい。
逆立った灰色の体毛。
血を思わせる猩紅の双眼には、理性よりも先に暴力が宿っている。
その姿を認めた瞬間、魔虎軍の兵たちの表情が一斉に強張った。
――魔猿軍総大将。
ラント・ロプス将軍。
B級魔獣。
ラントはゆっくりと視線を巡らせ、やがてアカツキの姿で止めた。
その口元が、わずかに歪む。
「ミスドロンに連れて行かれた人間が、もう一人いたな」
低く、腹の底から響く声。
「気配がある……あの部屋か。中で何かしているようだ」
その言葉を受け、傷を負った巨猿が一歩前に出る。
唇を吊り上げ、怒気を隠そうともせずに吠えた。
「兄貴! あの二人の人間は――必ず殺して、噛み砕いてやる!」
ラント将軍は鼻で笑う。
「焦るな。
今日ここにいる者は――誰一人として、逃がすつもりはねぇ」
その言葉が落ちた瞬間、魔猿軍から獣じみた歓声が一斉に上がった。
興奮と殺意に満ちた咆哮が重なり合い、空気そのものが震える。
一方、魔虎軍の側には重苦しい沈黙が広がっていた。
誰もが顔を強張らせ、歯を噛みしめている。
「……どうして、こんな……」
誰かが、絞り出すように呟いた。
ラント将軍だけでも脅威だというのに――その弟までが、ここにいる。
二体のB級魔獣。
この戦力差を前にして、抗う術などあるはずがなかった。
魔虎軍の兵たちの表情が、次第に沈み込んでいく。
そのときだった。
「……ミスドロン将軍は、必ず戻ってくる」
一人の兵が、震える声でそう言った。
「将軍が戻ってくれさえすれば……きっと、奴らを退けてくれる……!」
縋るような言葉。
それに応えるように、わずかに顔を上げる者もいる。
だが――
ラントは喉の奥で低く笑った。
「くくっ……」
そして、はっきりと嘲りを込めて言い放つ。
「ミスドロンは、もう戻ってこねぇよ」
場の空気が、一瞬で凍りついた。
「な……っ」
「き、貴様……! ミスドロン将軍に、何をした――!」
怒号が飛ぶ。
「お前らには、知る必要はねぇ」
ラントの声は、感情の欠片もなく冷え切っていた。
「どうせ――ここで死ぬ。
外縁町も、これからは我が魔猿軍のものだ」
その一言が落ちた瞬間、場の空気が張りつめた。
アカツキは静かに息を吐き、一歩前へ出る。
剣を構えたまま、巨猿へと視線を向けた。
「……あの時、逃がすべきじゃなかったな」
淡々とした声だった。
悔恨とも自責ともつかない。ただ、事実を述べているだけの口調。
一対二。
しかも相手は、B級魔獣が二体。
今の自分で抗える状況ではない。
それでも、退く気はなかった。
そのときだった。
背後の客室から、眩いほどの緑光が溢れ出す。
「……なんだ?」
「何が起きた?」
扉の隙間から漏れた光は、庭の闇を押し退けるように広がり、空気そのものを震わせた。
直後、薬草を煮詰めたような澄んだ香りが、室内から溢れ出す。
眩い緑光は次第に弱まり、やがて静かに収束していった。
「あの部屋……確か、人間の客人が使っていたはずだが……」
「イズナ様……」
ざわめきが広がる中、ミツバが不安そうに呟く。
その背後で、アカツキは剣を下ろすことなく、静かに振り返った。
そして、低く一言だけ漏らす。
「……この気配、やっと終わったか」
ラント将軍は目を細め、その部屋を睨み据えていた。
獣のような嗅覚で、何かを悟ったかのように。
「――あの人間、錬金術師か」
次の瞬間。
軋む音を立てて、客室の扉がゆっくりと開いた。
集まったすべての視線を受けながら、イズナが何事もなかったかのように室内から歩み出る。
緊張に満ちた庭を一瞥し、淡々と口を開いた。
「……ずいぶん賑やかだな」
そして、ふと視線を止める。
「おや? 見覚えのある顔もいるじゃないか」
その言葉に、巨猿の表情が一瞬で歪んだ。
牙を剥き、溜め込んでいた怒気を吐き出すように吠える。
「――兄貴、こいつだ!
こいつが突然現れなければ、俺はあの大剣使いに傷を負うこともなかった!」
巨猿の怒りに対して、イズナは一切応じなかった。
吠え声など耳に入っていないかのように、視線すら向けない。
そのまま一直線に歩き出し、剣を構えるアカツキの隣に並ぶ。
「ありがとうな。調合している間、守ってくれて」
「……約束を果たすまでだ」
アカツキは視線を前に据えたまま、短く答える。
イズナはそれに、ほんのわずか口元を緩めた。
そして、ゆっくりと前へ視線を移す。
「――あの巨猿は、俺が引き受ける」
一拍置いて、横目でアカツキを見る。
「そっちの“将軍”とやらは、頼んだぞ」
「……ああ」
その様子を眺めていたラント将軍が、肩を揺らして嘲るように笑う。
「おいおい……随分と舐められたもんじゃねぇか」
次の瞬間、彼が一歩踏み出した。
――どん、と。
空気が沈む。
凄まじい原力が、ラント将軍の体から溢れ出し、波のように周囲を押し潰した。
その圧に、庭にいた者たちは思わず後ずさる。
足に力が入らず、数人がその場で膝をついた。
「な……なんだと!?」
「そんな……馬鹿な……!」
ざわめきが広がる中、ラント将軍は口角を吊り上げる。
「俺ぁな――B級なんざ、とっくに越えてんだ。
今はA級だ。覚悟しとけよ」




