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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
35/55

35 包囲迫近

 イズナは素材を一つずつ釜へと入れ、静かに精神力を注ぎ込み、調合を始めた。

 今回は、これまでとは少し違う。

 精神力に加え、初めて神紋の力を混ぜ入れる。

 ――狂嵐の神紋。

 戦場では荒れ狂う暴風として顕現するその力は、調合においてはまったく別の顔を見せた。

 激しさを内に秘めたまま、あらゆる不純を洗い流す――澄み切った浄化作用。

 イズナは精神力を張り巡らせ、その一抹の緑の風を釜の中へと溶かし込む。

 風は渦を描き、素材を包み込み、混ざり合いながら静かに巡っていく。

 花弁も、液体も、粉末も。

 その一滴一片に至るまで、淡い緑の光が行き渡っていくのが見えた。

 まるで、釜の中で小さな嵐が息を潜めているかのように――

 しかしそこにあるのは、破壊ではなく、確かな浄化の力だった。

 その微妙な均衡を保ったまま、調合は途切れることなく続いていた。

 釜の中では緑の気配が静かに巡り、時間だけが淡々と積み重なっていく。

 気がつけば――一時間が過ぎていた。


 そのころ、部屋の外。

 ミツバは両手でトレイを抱え、廊下を静かに歩いてきた。

 上には、湯気の立つ温かい料理がいくつも並べられている。

 香りは控えめだが、丁寧に仕上げられていることが一目で分かる品々だった。

 扉の前で足を止め、首を小さく傾げて声を落とす。

「アカツキ様……廊下で、何を?」

 廊下の壁際に立っていたアカツキは、視線を前に据えたまま答えた。

「イズナは中で調合している」

「そうでしたか……。お食事をお持ちしましたが、少し後にした方が良さそうですね」

「……ああ、そうだな」

 言葉を継ごうとした、そのときだった。

 遠くから、かすかなざわめきが届く。

 人の声。

 足音。

 慌ただしく交錯する気配。

 アカツキの表情が、瞬時に変わった。

 それまでわずかに緩んでいた空気が、ぴんと張り詰める。

 彼は音のする方向を鋭く睨みつけ、低く告げた。

「ミツバ。ここから離れるな」

「は、はい……!」

 理由は分からない。

 だが、その声色だけで、ただ事ではないと悟るには十分だった。

 次の瞬間――

 屋敷の外から、甲高い鐘の音が鳴り響いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 それに重なるように、切迫した叫び声が広がっていく。

「敵襲――!」

「敵襲だ――! 全員、戦闘態勢に入れ!」

 アカツキは、扉越しに中の気配を探った。

(……まだか)

 調合は、終わっていない。

 鐘と怒号が重なったその瞬間、ミツバは思わず息を呑んだ。

 魔虎軍の本拠地が襲われるなど、これまで考えたこともなかった。

「そ、そんな……まさか……」

 信じられないというように目を見開き、何かに思い至ったように喉を鳴らす。

「……も、もしかして……」

 言葉を最後まで口にする前だった。

 重い足音が連なり、庭先へとなだれ込む影が見える。

 鎧に身を包んだ魔獣たちの一団。

 その大半は、長い腕と屈強な体躯を持つ猿型の魔獣だった。

「……やはり、魔猿軍ですね」

 魔猿軍。

 魔虎軍と並び、外縁町を管理する二大軍勢の一つだ。

 表向きは停戦状態にあり、一定の均衡は保たれていた。

 だが、水面下での小競り合いや摩擦が絶えなかったのも事実である。

 それでも、これほど露骨に、本拠地へ踏み込んできたことは、これまで一度もなかった。

「……魔猿軍」

 アカツキが低く呟く。

 双方の因縁に深入りするつもりはないが、問題は――イズナが、今も調合の最中にいることだ。

 精神力を深く使い込んでいる最中では、わずかな外乱ですら致命的になりかねない。

 調合の失敗で済めば、まだいい。

 下手をすれば、錬金術師本人の精神に深刻な損傷を残す恐れすらある。

 ――ここを死守する。

 そう心に決め、アカツキは背中へと手を伸ばした。

 重厚な剣が鞘を離れ、低く金属音を立てる。

 その姿は、門前に立ちはだかる一枚の壁だった。

「……卑怯ですね。よりにもよって、将軍様が不在の今を狙うなんて」

 ミツバはそう呟き、唇をきゅっと噛みしめた。

 震えを押し殺すような仕草だった。

 その間にも、戦いの音は途切れない。

 剣と鎧がぶつかる金属音。

 怒号と咆哮。

 石畳を踏み鳴らす足音が、四方から押し寄せてくる。

 魔虎軍の主力は、ミスドロン将軍とともに町の外へ出ていた。

 今ここに残っているのは、最低限の守備部隊のみ。

 数でも、勢いでも――明らかに分が悪い。

 魔猿軍の攻勢に耐えきれず、魔虎軍は次第に後退していく。

 庭を越え、建物の陰へと押し込まれながら、やがて――

 イズナとアカツキが滞在する客室前の庭へと追い詰められていった。

 そこが、最後の防衛線となった。


 その間に、魔猿軍は周囲へと兵を回していた。

 気づいた時には、この一帯はすでに幾重にも包囲され、逃げ道は完全に断たれていた。

 あちこちから響く猿の咆哮が重なり合い、まるで逃げ場を失った獲物を嘲笑っているかのようだ。

 その包囲網の中から、ひときわ大きな体躯を持つ魔獣が二体、ゆっくりと前へ進み出る。

 どちらも並の兵とは明らかに違う、重圧を伴った存在感を放っていた。

 そのうちの一体がアカツキの姿を認めた瞬間、目の色を変えた。

 憎悪を隠そうともせず、歯を剥き出しにして隣の魔獣へと低く告げる。

「兄貴……数日前に、俺に傷を負わせたのは――あの人間だ」

 吐き捨てるような声音には、恨みと屈辱がべったりと絡みついていた。

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