27 隠しの手
アカツキを取り囲む猿型の魔獣たちが、一斉に飛びかかろうとした――その瞬間だった。
周囲の気圧が、異様なほどに沈み込む。
突進しかけた身体が、ぴたりと止まる。
攻撃の意思は宙で凍りつき、彼らは反射的に周囲へと視線を走らせた。
アカツキもまた、肌を刺すような違和感に眉をひそめる。
この魔獣領域で、凶暴な魔獣たちすら本能的に身構えさせる存在――それは、より凶暴で、より危険な“化け物”以外にあり得なかった。
……そう、思った。
だが、現れたのは枯れ木の隙間から歩み出る、たった一人の人間だった。
黒い髪に、同じく黒衣を纏った小柄な少年。
その幼い容貌は、どう見ても十二、三歳ほどにしか見えない。
あまりにも不釣り合いな少年の出現に、猿の群れもアカツキも、刹那、動きを止めた。
直後、それを「獲物が増えた」と理解した数頭の猿が、唸り声を上げながら少年へと躍りかかる。
「危ない――!」
アカツキの喉から、反射的に叫び声が迸る。
鋭い爪が、その喉笛に届こうとした刹那。
突如、猛烈な狂風が吹き荒れた。
少年を中心に、凄まじい威圧が爆ぜる。
肉薄していた猿たちは、なす術もなく木の葉のように吹き飛ばされ、巨木へと叩きつけられた。
その瞬間、少年の額に、緑色に輝く一つの紋章が浮かび上がる。
その紋章こそが、嵐のような圧力の源だった。
それを目にした瞬間、アカツキの目が大きく見開かれる。
忘れるはずがない。
一ヶ月前、自分を完膚なきまでに叩き伏せた、あの謎の錬金術師。彼の身に宿していた「神紋」そのものだった。
「貴様は……まさか……!?」
「話は後だ」
少年は短く言い放つ。
「雑魚は、俺が引き受ける。
あの巨猿は、あんたに任せる……いいな?」
荒い息を整えながら、アカツキは激しく揺れる内心を無理やり抑え込み、力強く頷いた。
「……問題ない」
少年――イズナは短く頷き返すと、手印を結び、神紋の力を解放した。
荒れ狂う風が灰を舞い散らし、周囲の猿型魔獣たちをまとめて数十メートル先へと弾き飛ばした。
今、この身体を動かしているのはアウレではない。
イズナ本人である。
この一ヶ月の修行の中で、二人が考え出した新たな切り札。
それは、神紋の力を「借りる」形で、イズナ自身が振るうという方法だった。
アウレ本人が表に出る時と比べれば、威力は十分の一にも満たない。
その代わり、イズナの肉体への負荷も、アウレの魂の消耗も、劇的に抑えられている。
発揮できる戦闘力は、ランクで言えばギリギリ『上位』に匹敵する。
もっとも、無制限に使える力ではない。
使用できるのは、一日にわずか十分程度――それが今の限界だった。
アカツキは、その一瞬の隙を逃さなかった。
大剣を頭上高く掲げ、全身の原力を注ぎ込んで巨猿へと叩きつける。
対する巨猿も、怒りに目を血走らせ、手にした斧でその重撃を受け止めた。
これまで群れに包囲され、防戦に徹するしかなかったアカツキだが――
一対一の状況となれば、話は別だ。
『上位』の頂点に立つ男の真価が、ここに来て存分に発揮される。
魔獣は人間を凌駕する強靭な肉体を持つ。
だが、人間にはそれを覆すための「スキル」がある。
――『断天分地・二式――海荒らし』
空気が爆ぜ、荒れ狂う波濤のごとき横薙ぎの一閃が解き放たれた。
巨猿は咄嗟に斧を盾とするが、大剣は鉄の刃を紙細工のように断ち割り、
その余波だけで周囲の枯れ木を根こそぎ薙ぎ倒す。
斬撃はそのまま巨猿の胴体へと深く食い込み、皮膚を裂いて鮮血を噴き上げた。
「ガアァァァッ!!」
森そのものを震わせるかのような、苦痛と怒りの絶叫が轟く。
――しかし、さすがはB級魔獣と言うべきか。
渾身の一撃を受け、致命傷に近い深手を負いながらも、その生命の灯は消えていなかった。
巨猿はアカツキと、突如現れたイズナとを交互に睨みつける。
その瞳に宿っていたのは、獣とは思えぬほど陰険で、執念深い感情の色だった。
次の瞬間、巨猿は踵を返し、脱兎のごとく森の奥へと姿を消す。
振り返れば、イズナはすでに周囲を囲んでいたC級・D級の猿型魔獣を、ほぼ掃討し終えている。
ボスである巨猿の逃亡を目の当たりにした残党たちは、戦意を完全に喪失し、蜘蛛の子を散らすように四方へと逃げ去っていく。
激闘の余韻だけが残る、灰に覆われた森。
静寂が戻る中、イズナは額に浮かぶ神紋の光を、ゆっくりと鎮めていった。
アカツキは荒い呼吸を整えると、即座に大剣を片手で構え直し、その切っ先をイズナへと向けた。
「……助けられた礼は言う。
――なぜ、貴様がここにいる?」
声も、気配も、一ヶ月前とはまったく違う。
何より、目の前のイズナはあまりに幼い。
あの天地を揺るがす力を振るった、謎の錬金術師と同一人物だとは、到底信じがたかった。
だが、この世界に、同じ神紋が二つ存在することなどあり得ない。
姿を偽り、声を変える程度のこと、錬金術師であれば造作もないはずだ。
アカツキは、そう自分に言い聞かせる。
「それは、こっちのセリフだ」
「……言ったはずだ。俺を逃がしたこと、必ず後悔させてやる」
アカツキの脅しに、イズナは不敵に口元を歪めた。
「そうかい? ……“今”のあんたで、俺に勝てるとでも?」
額に、淡く揺らめく緑の神紋。
それを目にしたアカツキの表情は苦渋に沈んだ。
――彼は知らなかった。
今のイズナには、神紋を用いて戦う余力など、もはや残されていないことを。
しばしの沈黙の後。
アカツキは、ゆっくりと大剣を下ろした。
確かに、一ヶ月前の状態ですら勝てなかった相手だ。
この満身創痍の身で、神紋の持ち主に挑むなど、無謀にも程がある。
彼は無言のまま踵を返し、その場を去ろうとする。
――その背中へ。
「おい」
イズナが、小さな瓶を一つ放り投げた。
反射的にそれを受け止めたアカツキは、手の中のそれを見て眉をひそめる。
見たこともないほど澄み切った、高品質の『ヒールポーション』だった。
「……どういう意味だ?」
困惑するアカツキに、イズナは静かに、だが揺るぎない声音で告げる。
「今の状態じゃ相手にならない。
しかし……本来のあんたなら、話は別だ」
アカツキの目が、わずかに見開かれる。
「俺は錬金術師だ。
あんたの力を縛っている“それ”を――取り除いてやる」
一拍。
「その代わり――俺と手を組まないか?」
「――っ!!」
その言葉に、アカツキの顔を驚愕が走った。




