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蒼の境  作者: 神奈川楓
境界の向こう
26/55

26 魔獣領域

「ただ逃げるだけでは、いずれ追い詰められる。

 落ち着け。対策を考えるのじゃ」

 アウレの冷静な声が、胸を締めつけていたイズナの焦りを打ち消した。

 山頂から見下ろした時は、ただ白銀の世界が広がっているだけに見えた。

 しかし、足を踏み入れた瞬間、その認識は粉々に砕かれる。

 空から降り注ぐのは、純白の雪ではない。

 それは、何かが燃え尽きた後に残されたかのような、不気味な灰だった。

 立ち枯れた巨木が墓標のように並び、空気は濃密な死の臭いを帯びている。

 ここは慈悲のない世界。

 真の弱肉強食だけが支配する――魔獣領域。

「チッ……しつこいな……!」

 森の中、巨大な節足が乾いた地面を叩く。

「カサカサ」という不快な音が、耳の奥にまとわりつく。

 無眼蜘蛛。

 一本の脚だけで二メートル近くもある、巨大なC級魔獣だ。

 視力を持たない代わりに、獲物の足音や心音すら感知する捕食者である。

 まだレベル18のイズナにとって、人間ランクで言えば『正位プライマリー』相当のC級魔獣が二匹――さすがに分が悪い。

 走りながら、イズナは腰のポーチに手を伸ばした。

 指先で掴み取ったのは、小さな褐色の瓶を二つ。

 一つを、後ろの地面へと叩きつけ、もう一つは自分の周囲へと振りかけた。

 パリン――小気味よい音と同時に、強烈な刺激臭を放つ煙が立ち込めた。

 その直後だった。

 樹林の奥から、空気を震わせるような低い羽音が響いてくる。

 単なる虫の羽ばたきではない。

 何万、何十万という個体が一斉に羽動する――死の旋律。

 「カチカチ」と顎を鳴らし、先ほどまでイズナを追い詰めていた無眼蜘蛛たちが、その音を聞いた瞬間、はっきりと怯えを見せた。

 捕食者だったはずの存在が、天敵を前にした小動物のように、我先にと逃げ惑い始める。

 ――だが、逃げ場はない。

 木々の隙間から溢れ出したのは、黒霧のような魔虫の群れ。

 『壊死の羽蟻』。

 それは瞬く間に、この一帯を飲み込んだ。

「ギ、ギィィィッ!」

 二つの巨大な影が黒霧に包まれた刹那、無眼蜘蛛の絶叫が響き渡る。

 ほんの数秒後、黒霧が通り過ぎた場所には――肉も血も、殻の欠片すら残っていなかった。

 まるで、最初から存在しなかったかのように。

 だが黒霧は、イズナを取り囲むように広がりながらも、彼が立つ場所だけを避けるように、ぽっかりと空白を残していた。

 まるで見えない障壁に阻まれているか、

あるいは――イズナという存在そのものを、畏れているかのように。

 数分が経過し、もはや喰らうべき獲物が周囲にいないと悟ったのか、死の黒霧は潮が引くように四方へと散っていった。

 静寂が戻った森の中で、イズナはようやく強張っていた身体の力を抜く。

 先ほど使った薬は二種類。

 一つは、壊死の羽蟻を“獲物の方へ”惹き寄せる誘引剤。

 そしてもう一つは、自分の周囲にだけ散布した忌避剤だった。

「助かった……。

 たまたま、この二つの素材が手に入っていて良かったですね。

 まさか、魔獣領域に入った初日に使うことになるとは思いませんでした」

 手元に残った、空の小瓶を見つめながら、イズナはようやく息を吐いた。

 北境では「天才」ともてはやされた自分の実力が、この地では――生き残るための最低ラインにすら届いていない。

 ――そのとき、遠くで別の咆哮が低く響いた。

 一つではない。いくつもの重なった声が、灰に覆われた森を震わせる。

「急がねばならん。他の魔獣どもも、この騒ぎに気づき始めておるぞ」

 アウレの切迫した声に、イズナは即座に表情を引き締めた。

「はい」

「東へ向かえ。あちらから、気配を感じる」

「気配……? 先生の『欠片』ですか?」

「いや、人間じゃ。……しかも、この気配の持ち主……」

「人間……!? この地に?」

「確認に行くぞ」

「はい」

 イズナは精神力を周囲へと張り巡らせ、全神経を研ぎ澄ませた。

 一歩踏み出すたび、枯れ枝が折れる音が、まるで心臓の鼓動のように大きく響く。

 霧の向こうで巨大な影が動くたび、彼は息を殺し、素早く木々の陰へと身を潜めた。

 そうして警戒を解かぬまま、複雑に入り組んだ森をしばらく進んだ末――

 不意に視界が開け、イズナの足が、はたりと止まった。

 前方の空地。

 巨大な樹木の根元へと追い詰められ、数多の猿型魔獣に包囲されている一人の男がいた。

「……! あいつは」

 イズナは思わず息を呑んだ。

 大剣を振るい、重い原力を込めた一撃で迫る魔獣を退けているその男――

 一ヶ月前、カイエン男爵と共に北境へ来ていた、重剣のアカツキだった。

 レベル39、ランク『上位スペリオル』。

 人間世界では、一人で一軍を正面から打ち負かす実力者。

 しかし、その男ですら、この魔獣領域の深部では、死の淵へと追い込まれていた。

 全身には数えきれぬ裂傷。

 暗赤色の血が、服と地面を汚している。

 対するは猿型魔獣の群れ。

 その中心には、巨大な斧を肩に担いだ一頭の巨猿が鎮座していた。

 獣特有の凶暴さに加え、狡猾な知性を宿したその瞳。

 放つ気配はB級――人間側で言えば『上位』に相当する存在だ。

 巨猿が低く唸ると、配下の猿たちがじりじりと包囲網を狭めていく。

 アカツキは、逃げ場のない状況でもなお、闘志を失わず巨猿を睨み据えていた。

(先生……このままでは、あいつは死にます。

 助けるべきでしょうか?)

 イズナは、心の中でアウレに問いかけた。

 かつては敵だったが、敗北を潔く認めて去ったあの引き際。

 カイエンのような小悪党と袂を分かった決断は、イズナに嫌悪を抱かせるものではなかった。

(――己で決めよ。それもまた、修行じゃ)

 イズナは一瞬、沈黙した。

 そして、腹をくくる。

(……助けましょう)

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