26 魔獣領域
「ただ逃げるだけでは、いずれ追い詰められる。
落ち着け。対策を考えるのじゃ」
アウレの冷静な声が、胸を締めつけていたイズナの焦りを打ち消した。
山頂から見下ろした時は、ただ白銀の世界が広がっているだけに見えた。
しかし、足を踏み入れた瞬間、その認識は粉々に砕かれる。
空から降り注ぐのは、純白の雪ではない。
それは、何かが燃え尽きた後に残されたかのような、不気味な灰だった。
立ち枯れた巨木が墓標のように並び、空気は濃密な死の臭いを帯びている。
ここは慈悲のない世界。
真の弱肉強食だけが支配する――魔獣領域。
「チッ……しつこいな……!」
森の中、巨大な節足が乾いた地面を叩く。
「カサカサ」という不快な音が、耳の奥にまとわりつく。
無眼蜘蛛。
一本の脚だけで二メートル近くもある、巨大なC級魔獣だ。
視力を持たない代わりに、獲物の足音や心音すら感知する捕食者である。
まだレベル18のイズナにとって、人間ランクで言えば『正位』相当のC級魔獣が二匹――さすがに分が悪い。
走りながら、イズナは腰のポーチに手を伸ばした。
指先で掴み取ったのは、小さな褐色の瓶を二つ。
一つを、後ろの地面へと叩きつけ、もう一つは自分の周囲へと振りかけた。
パリン――小気味よい音と同時に、強烈な刺激臭を放つ煙が立ち込めた。
その直後だった。
樹林の奥から、空気を震わせるような低い羽音が響いてくる。
単なる虫の羽ばたきではない。
何万、何十万という個体が一斉に羽動する――死の旋律。
「カチカチ」と顎を鳴らし、先ほどまでイズナを追い詰めていた無眼蜘蛛たちが、その音を聞いた瞬間、はっきりと怯えを見せた。
捕食者だったはずの存在が、天敵を前にした小動物のように、我先にと逃げ惑い始める。
――だが、逃げ場はない。
木々の隙間から溢れ出したのは、黒霧のような魔虫の群れ。
『壊死の羽蟻』。
それは瞬く間に、この一帯を飲み込んだ。
「ギ、ギィィィッ!」
二つの巨大な影が黒霧に包まれた刹那、無眼蜘蛛の絶叫が響き渡る。
ほんの数秒後、黒霧が通り過ぎた場所には――肉も血も、殻の欠片すら残っていなかった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
だが黒霧は、イズナを取り囲むように広がりながらも、彼が立つ場所だけを避けるように、ぽっかりと空白を残していた。
まるで見えない障壁に阻まれているか、
あるいは――イズナという存在そのものを、畏れているかのように。
数分が経過し、もはや喰らうべき獲物が周囲にいないと悟ったのか、死の黒霧は潮が引くように四方へと散っていった。
静寂が戻った森の中で、イズナはようやく強張っていた身体の力を抜く。
先ほど使った薬は二種類。
一つは、壊死の羽蟻を“獲物の方へ”惹き寄せる誘引剤。
そしてもう一つは、自分の周囲にだけ散布した忌避剤だった。
「助かった……。
たまたま、この二つの素材が手に入っていて良かったですね。
まさか、魔獣領域に入った初日に使うことになるとは思いませんでした」
手元に残った、空の小瓶を見つめながら、イズナはようやく息を吐いた。
北境では「天才」ともてはやされた自分の実力が、この地では――生き残るための最低ラインにすら届いていない。
――そのとき、遠くで別の咆哮が低く響いた。
一つではない。いくつもの重なった声が、灰に覆われた森を震わせる。
「急がねばならん。他の魔獣どもも、この騒ぎに気づき始めておるぞ」
アウレの切迫した声に、イズナは即座に表情を引き締めた。
「はい」
「東へ向かえ。あちらから、気配を感じる」
「気配……? 先生の『欠片』ですか?」
「いや、人間じゃ。……しかも、この気配の持ち主……」
「人間……!? この地に?」
「確認に行くぞ」
「はい」
イズナは精神力を周囲へと張り巡らせ、全神経を研ぎ澄ませた。
一歩踏み出すたび、枯れ枝が折れる音が、まるで心臓の鼓動のように大きく響く。
霧の向こうで巨大な影が動くたび、彼は息を殺し、素早く木々の陰へと身を潜めた。
そうして警戒を解かぬまま、複雑に入り組んだ森をしばらく進んだ末――
不意に視界が開け、イズナの足が、はたりと止まった。
前方の空地。
巨大な樹木の根元へと追い詰められ、数多の猿型魔獣に包囲されている一人の男がいた。
「……! あいつは」
イズナは思わず息を呑んだ。
大剣を振るい、重い原力を込めた一撃で迫る魔獣を退けているその男――
一ヶ月前、カイエン男爵と共に北境へ来ていた、重剣のアカツキだった。
レベル39、ランク『上位』。
人間世界では、一人で一軍を正面から打ち負かす実力者。
しかし、その男ですら、この魔獣領域の深部では、死の淵へと追い込まれていた。
全身には数えきれぬ裂傷。
暗赤色の血が、服と地面を汚している。
対するは猿型魔獣の群れ。
その中心には、巨大な斧を肩に担いだ一頭の巨猿が鎮座していた。
獣特有の凶暴さに加え、狡猾な知性を宿したその瞳。
放つ気配はB級――人間側で言えば『上位』に相当する存在だ。
巨猿が低く唸ると、配下の猿たちがじりじりと包囲網を狭めていく。
アカツキは、逃げ場のない状況でもなお、闘志を失わず巨猿を睨み据えていた。
(先生……このままでは、あいつは死にます。
助けるべきでしょうか?)
イズナは、心の中でアウレに問いかけた。
かつては敵だったが、敗北を潔く認めて去ったあの引き際。
カイエンのような小悪党と袂を分かった決断は、イズナに嫌悪を抱かせるものではなかった。
(――己で決めよ。それもまた、修行じゃ)
イズナは一瞬、沈黙した。
そして、腹をくくる。
(……助けましょう)




