25 北境出発
翌日。
イズナは家族と黒鱗たちの前で、アウレと共に修行の旅へ出る決意を打ち明けた。
激しい反対を覚悟していたが、父・カルスは一瞬だけ視線を伏せ、深く息を吐いて静かに告げた。
「……わかった。アウレ様には、くれぐれもよろしく伝えてくれ」
意外なほどに、あっさりとした言葉だった。
カルスは、息子がすでに自分たちの手の届かないほど大きな宿命に足を踏み入れていることを、どこかで悟っていた。
その夜、イズナは荷造りを終え、翌朝にはこの家を発つと心に決めていた。
翌朝。
「お兄ちゃん……本当に行っちゃうの……?」
エリーゼが大きな瞳に涙を溜め、名残惜しそうにイズナの袖をぎゅっと握る。
「ああ。エリーゼ、父様と母様を頼む。
それから、錬金術の練習も続けるんだ。いいな?」
「……うん」
堪えきれなくなった涙が、ぽろりと少女の頬を伝い落ちた。
母・セレナもまた寂しさを隠すように微笑んでいたが、その目元は潤んでいる。
「頑張れよ、イズナ。強くなって帰ってこい」
黒鱗がそう言って、背中を叩いた。
少し離れた場所から見守っていたカルスは、しばらく黙したまま、やがて一歩前に出た。
「イズナ」
短く名を呼び、息子の目を真っ直ぐに見据える。
「無事でいろ。それだけでいい。
……帰ってくる場所は、ここにある」
「父様……」
カルスはそれ以上何も言わず、ただ重く頷いた。
それが、北境を守り続けてきた男なりの覚悟だった。
「それじゃ、行ってきます。
二年後の『シード・トーナメント』までには、必ず戻ってきます!」
イズナは力強く宣言した。
それは家族への約束であり、強者として帰還するという、自分自身への誓いでもあった。
家族と傭兵たちに見送られながら、イズナは大きな旅鞄を背負い、遥か彼方へ連なる山脈へと歩き出す。
冷たい北風の中、その背中は――数日前よりも、確かに一回り大きく見えた。
「アウレ先生、次はどこへ向かうんですか?」
吹き荒れる風雪に抗いながら、ひとりの少年が足を進めていた。
見た目は孤独な旅人。しかしそこには、二つの声が静かに言葉を交わしている。
「この山脈を越え、さらに北へ向かう」
「山脈を……越える?」
イズナは思わず声を上げた。
北境を縁取るこの山脈は、王国にとって天然の要塞である。
そしてその向こうに広がるのは、人類の侵入を拒む――“極北の魔獣領域”。
アークライト家が代々、北境の守護者として称えられてきたのは、この山を越えて侵攻してくる魔獣たちを食い止め、王国の平和を死守してきたからに他ならない。
幼い頃から、カルスには耳に胼胝ができるほど言い聞かされてきた。
『あの山を越えてはならない。
あそこは、人間が立ち入る場所ではないのだ』
「……ワシには感じるのじゃ。あの極北の地、凍てつく闇の底に、ワシの『魂の欠片』が眠っておる」
アウレの言葉には、揺るぎない確信があった。
己の欠片を取り戻すため。
そして弟子であるイズナに、真の強さを刻み込むために。
「わかりました……行きましょう。魔獣領域へ」
イズナは胸の奥の震えを押し殺し、不敵な笑みを浮かべて旅鞄の紐を締め直す。
少年は――
白銀の絶壁がそそり立つ山脈の深淵へと、迷いなく足を踏み入れた。
道中、アウレは休む間もなくイズナに知識を叩き込んだ。
どの薬草がどの症状に効くのか。どの魔獣の角が武具を強化し、どの晶石が原力を底上げするのか。
イズナにとって、この過酷な雪山は、ただの危険地帯ではない。巨大な「素材の宝庫」でもあった。
イズナは、襲い来る魔獣を次々と倒しながら、前へ前へと進んだ。
遭遇するのは、主にD級魔獣だった。人間のランクで言えば『見習い(アプレンティス)』相当の相手だ。
しかし標高が上がるにつれ、その気配は変わっていく。
やがて、実力が『正位』に匹敵するC級魔獣の影が、雪嵐の奥にちらつき始めた。
一歩、また一歩と死線を越えるたび、イズナの身体には確かな力が蓄積されていく。
そしてついに、レベルは18へと到達していた。
夜になれば、手近な洞窟や、雪の積もらぬ岩壁の下を探して身を寄せ、夜を凌ぐ。
吹き荒れる雪嵐は生命を凍えさせるほど苛烈だったが、原力を身体の表面に薄く展開し、寒気を遮断する技術も、この一ヶ月で身につけていた。
そして、洞窟に灯した小さな焚き火の下で、もう一つの修行が始まる。
「精神力の加減を誤るな。その晶石の核を抽出するには、精神力を『波』ではなく、『針』のように一点へ集中させるのじゃ」
「……はい、先生!」
アウレの厳しい指導のもと、昼間に採取した素材は、次々とポーションや霊薬へと姿を変えていった。
実戦と調合。
この過酷な循環が、イズナを容赦なく鍛え上げていく。
そうして、死線と錬成を繰り返す日々が、一ヶ月を越えようとした頃――
ついに、イズナの足は山脈の頂へとたどり着いた。
そこは、空に最も近い場所だった。
眼下には果てしない雲海が広がり、その向こうには、北境で見慣れた景色とはまるで異なる世界が横たわっている。
禍々しくも、どこか神々しいオーロラが揺らめく――
人の領域を拒む、「極北の魔獣領域」。
「……着いた」
イズナは息を呑み、遥かな景色を見据えた。
「ここが、北境の果て……」
「行こう」
「はい!」
イズナは、未知と死が待つ世界の入口に、迷いなく足を踏み出した。




