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蒼の境  作者: 神奈川楓
第一章 蒼の始まり
23/55

23 狂嵐神紋

(先生……神紋って、何なんです?)

 身体の主導権をアウレに預けたまま、自分の肉体が常識を超えた力を振るう光景を、意識の深層から見つめていたイズナが、驚きと好奇心の入り混じった声で問いかけた。

(……後で話してやる。今は、この場を収めるのが先決じゃ)

 ローブの下で、アウレの気配が変わる。

 戦場を支配していた絶対的な圧が、限界を迎えたかのように急激に掻き消えた。

 カルスをはじめとするアークライト家の人々が、深い敬意を込めて歩み寄った。

「アウレ様、ご無事でしょうか」

「うむ」

 アウレは短く応じると、懐から一本のヒールポーションを取り出し、カルスへと無造作に放り投げた。

「使うがいい」

「……かたじけない」

 カルスがそれを一息に飲み干すと、戦いで負った外傷が、まるで湯気を立てるかのような速さで塞がっていった。

 その驚異的な治癒を目の当たりにした傭兵たちから、思わず感嘆の声が漏れた。

(あれが……噂の高品質ポーションか)

(あんな深手を一瞬で……。俺たちにも、約束の報酬としてあれが渡るのか)

 期待と興奮がざわめきとなって広がる中、アウレは仮面を軽く正し、去り際の言葉を落とす。

「……後はおぬしらでせよ。ワシには、まだ片付けねばならぬ事がある」

「アウレ様……。今回の御恩、何と申し上げれば……。あなた様がいなければ、アークライト家は――」

 深く頭を下げるカルスに、アウレは仮面の下で淡然と微笑んだ。

「――造作もないことじゃ。……では、また後日」

 その一言を残し、黒いローブの錬金術師は、無数の視線を背に受けながら、戦火の残る雪原を静かに歩き、やがて白銀の彼方へと溶けるように消えていった。



 屋敷から十分に距離を取って森の影へと入った瞬間、アウレは静かに身体の主導権をイズナへと返した。

「……はぁ……はぁ……っ……体が……重い……!」

 意識が戻った途端、イズナを襲ったのは、これまでに味わったことのないほどの激しい倦怠感だった。全身の筋肉が鉛に変わったかのように動かず、肺は焼けるように痛む。

「くく……ワシの力を使う以上、それ相応の代償は払ってもらわねばならん」

 イズナは雪をかぶった大樹に背を預け、しばらくの間、荒い呼吸を繰り返した。ようやく言葉を紡げるようになったのは、数時間が経ってからだった。

「……今回は助かりました。ありがとうございます、先生」

「うむ。じゃがな、ワシの力もまだ完全ではない。先ほどのような力を、何度も許すほど余裕はない。

 何より、おぬしの体が先に壊れる。あれを当てにして、過信するでないぞ」

「……はい。肝に銘じます」

 短い沈黙が落ちる。

 イズナは冷たい空気を肺に送り込みながら、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。

「先生……さっき、アカツキが言っていた『神紋』って、何なんですか?」

 アウレが答える代わりに心念を動かすと、イズナの眼前にひとつの紋章が浮かび上がった。

 緑色の半透明のそれは、静かに空中に漂いながら、古代の息吹を宿したかのような光を放っている。その穏やかな輝きの奥には、天地を覆すほどの嵐が封じ込められているのが、肌で感じ取れた。

「これは……」

 イズナには見覚えがあった。

 アウレが「原力凋零」の薬を調合してくれた際、その額に浮かび上がっていたものと同じ紋章だ。

「これはワシが持つ神紋――『狂嵐の神紋』じゃ」

「狂嵐の神紋……」

 イズナは、食い入るようにそれを見つめる。

「人類がまだ存在しなかった太古の昔から、神紋は天地の理の中に凝縮されて生まれてきた。

 火山の最奥で生まれるもの、虚空の深淵に宿るもの、天の彼方に隠され、誰の目にも触れぬまま存在し続けるもの。

 そして、この狂嵐の神紋は、永劫に風が止むことなき嵐の峡谷で、ワシが見出したものじゃ」

 その声には、幾つもの時代を越えてきた重みが宿っていた。

「これまでに見つかり、歴史に名を刻んだ神紋は、わずか十七枚に過ぎん。

 世界の理を思えば……まだ人知れず眠るものも、いくつもあるはずじゃ」

「……十七枚……? そんなに少ないんですか?」

 想像を絶する希少さに、イズナは息を呑んだ。

「そうじゃ。そして、その一枚が――いまおぬしの目の前にある」

 アウレは静かに言葉を継ぐ。

「神紋は、ただの戦闘手段ではない。我ら錬金術師にとって、それはこの世の何にも代えがたい至宝なのじゃ」

「至宝……」

「神紋とは、天地に生まれ、世界そのものの理が具現化した存在。対して錬金術の調合とは、その理を読み解き、再構築し、新たな形を生み出す行為にほかならん。

 じゃからこそ、神紋の加護を得た調合は成功率が飛躍的に高まるだけでなく、その神紋が持つ性質すら、調合物に宿らせることができるのじゃ」

 その言葉が、イズナの意識を強く打った。

 それは、彼がこれまで知っていた錬金術の常識を、根底から覆す世界の理だった。

「少年よ。もしおぬしが、歴史に名を刻む大錬金術師を目指すのであれば――

 いずれは、己の神紋を見つけ出さねばならん」

 その言葉に、イズナの瞳が熱を帯びる。

 先ほどまでの疲労すら忘れ、彼の胸には未来への希望と野心が燃え上がっていた。

 まだ見ぬ世界の理。

 そして、自分だけの神紋。

 その圧倒的な可能性に、イズナの鼓動は高鳴るばかりだった。

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