17 影の庇護
翌日、アークライト家に予期せぬ客人が現れた。
頭の先からつま先まで厚手の黒いローブに身を包み、顔には仮面をつけた人物。
その異様な姿に、屋敷の空気は一瞬で張り詰めた。
カルスと黒鱗は即座に立ち上がり、無言のままセレナとエリーゼを庇うように背後へ下がらせ、自らは一歩前へ出た。
「……どちら様でしょうか。アークライト家に、どのようなご用件で?」
カルスは礼節を保ちながらも、鋭い視線を相手へ向ける。
その正体不明の人物から、露骨な威圧感は感じられない。
しかし、内側に秘めた“何か”が、得体の知れぬ不気味さを放っていた。
カルスと黒鱗の感知をもってしても、ローブの下に隠された素顔も、実力の深さも、正確に読み取ることができない。
沈黙を守っていたローブの人物が、ふっと低く笑った。
「そう緊張するな。ワシは、令息――イズナに頼まれ、おぬしらを助けに参った」
仮面の奥から、永い時を生きた者のような声が漏れた。
それは紛れもなく、イズナの内に潜むアウレの声である。
そして、この黒いローブに身を包んでいるのは――他でもない、イズナ本人だった。
アウレの提案に従い、イズナは己の身体を“精神力”で完全に覆い隠していた。
それによってカルスたちの原力感知は遮断され、さらに黒いローブで体格や動きまでも隠されている。
精神力を操れない武人にとって、今のイズナは実体を掴めない“未知の存在”でしかなかった。
「……イズナに、頼まれただと?」
カルスが困惑の声を上げた、その瞬間。
仮面のイズナは音もなくローブを翻し、数個の革袋をふわりと宙へ放った。それらは緩やかな弧を描きながら、カルスの足元へと落ちてくる。
カルスは反射的に袋を受け止めた。
開いて中を覗いた瞬間、目が大きく見開かれる。
「なっ……これは……」
震える指で取り出したのは、小さな小瓶だった。
「ヒールポーション……しかも、この澄みきった透明度は……」
信じられないというように、カルスは息を呑む。
「これほどの品質のものは、見たことがない……」
冷静沈着な彼の声が、わずかに上ずっていた。
「何だと?」
黒鱗も思わず身を乗り出し、一つの袋を手に取る。
中から別の瓶を取り出し、光にかざした。
「……原力回復のポーションだ。それも、かなりの上物だな。ほかにもあるぞ」
袋の中には、解毒薬、麻痺薬など、基本的な薬品が整然と並んでいた。
だがそのすべてが、市場に出回るものとは一線を画す“上級品”ばかりである。
「この品質……市場に出せば、一瓶で三万ゴルは下らん。
この袋全部となれば……軽く百五十万ゴル以上の価値だ」
三万ゴル。
それは並の貴族が一か月かけてようやく手にする額に等しい。
しかもポーションは、品質が高いほど生死を分ける。
危険な状況になればなるほど、その差は決定的になるのだ。
まして、ほとんど市場に出回らない上級品ともなれば、いくら金を積んでも手に入らないことすら珍しくない。
黒鱗の言葉に、カルスは言葉を失った。
――アークライト家は、イズナを救うための素材を集めた結果、ほぼ全ての財産を売り払い、借金まで抱え込んでいる。
この薬の山は、まさに喉から手が出るほどの救いだった。
ふっと何かに思い至ったように、カルスは顔を上げた。
「……あなたは、錬金術師なのですか?
もしかして、イズナの『原力凋零』を治してくださったのも……あなたなのですか?」
仮面の奥から、静かな笑いが漏れる。
「礼には及ばん」
その、肯定とも取れる短い言葉を聞いた瞬間、カルスと――いつの間にか傍らに駆け寄っていた妻セレナは、弾かれたようにその場で深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。
息子を……我が家の希望を救ってくださったこと、何とお礼を申し上げればよいのか……!」
背後では、《ブラックバイパー》の傭兵たちが目を見開いたまま、硬直していた。
錬金術師――それは、どれほどの金や権力を積んでも、そう容易には雇えない、雲の上の存在である。
そんな存在が、なぜ没落したアークライト家に現れたのか。
「この御恩……一生をかけても、返しきれぬでしょう……」
震える声でカルスが尋ねるが、仮面のイズナはその言葉を遮るように、ひらりと手を振った。
「ワシは令息と縁がある。それだけのことじゃ。
……その薬は、使うも売るも、おぬしらの自由じゃ」
そう言い残し、仮面のイズナは悠然と背を向け、玄関へと歩き出す。
「お、お待ちください!
せめて、お名前だけでもお聞かせ願えませんか……!」
切実な呼びかけに、仮面のイズナは足を止めた。
だが、振り返ることはない。
「……アウレじゃ。時が来れば、また会うことになる」
その澄んだ声を残し、黒いローブの影は、風に溶けるように屋敷から消えていった。
屋敷に残されたカルスたちは、しばらくの間、夢でも見ていたかのように呆然と立ち尽くしていた。
「錬金術師……アウレ様……」
カルスは、手の中の小瓶を強く握りしめる。
これまでの絶望が、たった一人の出現によって、音を立てて覆されていく――そんな予感が、確かにあった。
――アークライト家に、正体不明の凄腕錬金術師がついた。
その噂は、北境の冷たい風に乗って、瞬く間に広まった。
財務大臣の報復を恐れ、これまでアークライト家と距離を置いていた有力者や傭兵たちの反応は、そこから一変する。
錬金術師という存在は、戦場に立つ戦力ではない。
だが、その身分が持つ影響力は、戦局そのものを左右するほど絶大だ。
イズナの狙いは――
最初から、そこにあった。
午後の柔らかな日差しが降り注ぐ中、イズナは庭で軽く体を動かしていた。
そのとき、エリーゼの声が背後からかかる。
「ねえ、お兄様。……本当は、あのお面の人、お兄様なんでしょ?」




