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蒼の境  作者: 神奈川楓
第一章 蒼の始まり
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16 大切な物

 半日の道のりを経て町へ戻ったイズナは、人々の行き交う通りを足早に抜け、まっすぐ屋敷へと向かった。

 中へ入ると、父カルスと黒鱗、そして数人の傭兵たちが険しい表情で机を囲んでいる。

「戻ったか、イズナ」

 カルスが顔を上げ、息子に声をかけた。

 その瞳には安堵の色が浮かんでいたが、同時に、わずかな戸惑いも宿っていた。三週間ぶりに見る息子の姿。原力の“レベル”自体に変化はないはずなのに、どこか雰囲気が違う。静かで、底知れない圧のようなものを感じ取っていた。

 その正体が精神力の変化だと、カルスには分からない。

 ただ、確かに「何かが違う」という感覚だけが残っていた。

「ただいま戻りました、父様。……何かあったのですか?」

 イズナの問いに、椅子にもたれていた黒鱗が、苦々しげに横顔を向ける。

「ああ、少々やっかいなことになってな」

「え……?」

 黒鱗は吐き捨てるように続けた。

「来週やってくる新領主の傍らに、もう一人、凄腕がいるらしい。レベルは――おそらく39だ」

「39……。『上位スペリオル』……それじゃあ、父様と同じくらいの……?」

 イズナが息を呑む。カルスも重々しくうなずいた。

「独狼バルド、新領主のカイエン男爵、そしてその用心棒……向こうには、三人もの『上位』がいることになる」

 その言葉が、重く室内に落ちた。

 “北境最強”と謳われたカルスと傭兵団ブラックバイパー団長・黒鱗。

 その二人が揃っていても、なお戦力差は大きい。

 ましてや今のイズナは、まだレベル17。

 レベル30を超える『上位』はおろか、レベル20を越えた『正位プライマリー』にすら及ばない。今回の戦力計算において、彼は数に入れられてすらいなかった。

 ――財務大臣ルシウス。

 奴はアークライト家を確実に、そして跡形もなく踏み潰すため、万全の布陣を敷いてきたのだ。

 イズナは小さく息を吐き、静かに問いかける。

「……そのレベル39の用心棒について、何か分かっていることはありますか?」

「“重剣のアカツキ”だ。特定の組織に属さないソロで、口数の少ない男だ」

 黒鱗の答えに、イズナの眉がわずかに動いた。

 その名は、北境に住む彼の耳にも届くほど有名だったからだ。

 カルスが低い声で言った。

「謎の多い男だ。常に単独で行動し、決してパーティを組まない。王国や有力貴族が何度も誘ったが、すべて断ってきたと聞く……それほどの人物が、なぜ財務大臣一派に与したのか、理解し難いな」

「ああ……まったくだ」

 少しの沈黙の後、カルスが重く息を吐き、口を開いた。

「……これから数日、昔の知り合いたちに当たってみる。少しでも力を貸してくれそうな者がいれば、戦力の足しになるだろう」

「ああ。俺も裏の筋を探ってみる。金か借りかは分からんが、協力してくれそうな奴がいないか洗ってみよう」

 黒鱗も椅子から立ち上がり、カルスの言葉に応じた。だが二人の声には、どこか張りつめた諦念が滲んでいる。

 新領主の背後にいる財務大臣の権勢を思えば、没落したアークライト家に手を貸す者がどれほどいるか――その現実を、彼ら自身が誰よりも理解していた。

「イズナ……お前は、しばらく休んでいろ。母さんと妹のことは任せた。もし……もし本当に手の打ちようがなくなったとき、そのとき、二人を連れてこの地を離れろ。いいな?」

 その眼差しには、元領主でも戦士でもなく、ただ一人の父としての決意が宿っていた。

 イズナはその重すぎる言葉を受け止め、静かにうなずいた。


 部屋を出て中庭へ向かうと、小さな人影が一直線にイズナの胸へと飛び込んできた。

「お兄様、おかえりなさい!」

 胸元に顔を埋めてきたのは、妹のエリーゼだった。

「ただいま、エリーゼ」

 イズナがその頭を優しく撫でると、エリーゼはふと顔を上げる。翡翠のように澄んだ瞳が、不思議そうにイズナを見つめていた。

「あれ……お兄様、なんだか……」

「ん? どうしたんだ。どこか変か?」

 エリーゼはしばらく首を傾げながらイズナを眺めていたが、やがて小さく首を振った。

「うーん……よく分からない。でも、気のせいかな」

 それ以上は言葉にできず、エリーゼは照れくさそうに笑った。

 イズナは「山に籠もっていたせいで、少し雰囲気が変わっただけだろう」と深く気に留めなかった。

 だが、彼の内にいるアウレは息を呑んでいた。

(……この娘、イズナの“精神力”の揺らぎを感じ取ったというのか?

 もしや……錬金術師としての資質は、イズナ以上かもしれんな)

「ねえ、お兄様、どこに行ってたの? 何か面白いことはあった?」

 エリーゼは目を輝かせながら、イズナの袖を引いてせがむ。その無邪気な声が、重苦しい空気の漂う屋敷の中で、まるで一筋の光のように感じられた。

 イズナは優しく微笑む。

「そうだな。少し山奥まで探検に行ってたんだ。珍しい色の草を見つけたり、きれいな石を拾ったりしてね」

「えーっ、なになに? もっと詳しく教えて!」

 妹のぬくもりと、屈託のない笑顔。

 それらに触れるたび、イズナの胸の奥で、静かな決意が少しずつ形を持っていく。

 この小さな幸せを、財務大臣や新領主といった連中の都合で踏みにじらせるわけにはいかない。

 ――必ず、自分のやり方で、家族を守る。

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