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蒼の境  作者: 神奈川楓
第一章 蒼の始まり
15/55

15 無形の波

 イズナは、来るべき新領主に備え、数日間屋敷を離れる決意をした。

 幸い、今の屋敷には父カルスだけでなく、傭兵団の長である黒鱗も留まっている。

 驚くべきことに、黒鱗もまた『上位スペリオル』――すなわち、レベル30の壁を超えた本物の実力者だった。

 カルスと黒鱗。

 この二人の怪物が睨みを利かせている限り、あの“独狼”バルドといえど、そう易々と手出しはできないはずだ。

「よし……行こう、アウレ」

 イズナは再び、北境の峻険な山脈へと足を踏み入れる。

 今回の目的地は、前回よりも、さらに奥深い場所だ。

 道中、アウレは浮遊しながら、イズナの脳内に直接『錬金術の基礎』を叩き込み始めた。

「いいか、少年。

 錬金術とは単なる“混ぜ合わせ”ではない。万物の根源たる理を理解し、その構成を一度壊し、再び組み上げる行為じゃ。

 ……まずは、己の精神力を操れ。

 すべてはそこから始まる」

 イズナの脳へ、膨大な知識が濁流のように流れ込む。


 山脈のさらに奥深く、人跡未踏の岩洞。

 イズナはこの場所に一週間籠もり、アウレの指導のもとで「精神力」の研鑽に没頭した。

 当初は、実体のない精神力をどう扱うべきか、まるで見当がつかず、ただ目を閉じて時間を浪費する日々が続いた。

 だが、数日が経過した頃、イズナの脳裏に鮮烈な記憶が蘇る。

 あの日、アウレが錬金術を行った際に放っていた、あの独特で静謐な“波紋”だ。

(……これか。

 原力のように熱く滾るものではなく、もっと深く、自分自身の『意識』を研ぎ澄ませていく感覚……)

 七日目の朝、イズナはついに、掌の上にある薬草を精神力で包み込むことに成功した。

 それは、驚くべき感覚だった。

 これまで慣れ親しんできた「原力」による索敵は、いわば相手に光を当てるようなものだ。察知能力が高い相手なら、その視線にすぐ気づいてしまう。

 だが、「精神力」による感知は違う。まるで空気そのものが相手に触れるかのように自然で、不快な気配を一切残さない。

「ほう……一週間ですでに精神力を制御できるとは、なかなかじゃないか」

 アウレの半透明の影が、岩壁にもたれながら、満足げに鼻を鳴らした。

 その瞳の奥には、わずかな驚きが隠されている。

 かつて天才と呼ばれたアウレでさえ、精神力の端緒を掴むまでに丸一か月を要した。それを、たった一週間で成し遂げたイズナの集中力と、錬金術師としての高い適合性が、この異例の速度を生み出していた。

「次は実践だ。簡単な調合を行ってもらおう」

 アウレの指示に従い、イズナは荷物の中から古びた調合釜を取り出す。

 アークライト家の古い倉庫の隅で眠っていた、年季の入った一品だ。

 汲んできたばかりの澄んだ山の水。

 道中で採取した薬草。

 そして、いくつかの補助材料。

 それらを釜に投入し、イズナは静かに目を閉じた。

(……火は使わない。精神力で、釜の中を動かす)

 精神力を、細い糸のように伸ばし、釜の内部へと満たしていく。

 錬金術における調合とは、ただ混ぜる作業ではない。

 精神力で成分を分解し、最適な比率で再構成する、極めて精密な操作だ。

 料理の火加減を調整するように、慎重に、かつ大胆に精神力の強度を変えていく。

 強すぎれば薬草の生命力は焼き切れ、弱すぎれば成分は分離したまま泥水に終わる。

 バシャッ、と音を立てて、最初の数回はどす黒い液体が釜の底に残るだけだった。

「くっ……集中力が……」

「甘いぞ、少年。その一滴に、お前の意志を乗せろ。物質に命を吹き込むのじゃ」

 アウレの叱咤が飛ぶ。

 イズナは額に汗を浮かべながら、残った精神力を最後の一滴まで絞り出した。

 釜の中の液体が、精神力の波動に呼応するように淡く輝き始める。

 やがて、液体は鮮やかな琥珀色へと変化し、洞窟内に爽やかな香草の匂いが満ちていった。

「……できた」

 震える手で小瓶に注がれたのは、紛れもない――ヒールポーション。

 イズナが、自らの力で“無から有”を生み出した、最初の成果だった。

 アウレはヒールポーションを受け取り、光にかざして軽く揺らした。

 琥珀色の液体が、小瓶の中で濁りなく揺れる。

「初めての作品にしては、悪くない品質じゃ」

 アウレにとって、それはあくまで「基礎をクリアした」という程度の評価だった。

 だが、長い年月封印されていたアウレは、現代の錬金術がどれほど衰退しているかを知らない。

 不純物が混じり、濁った薬水が当たり前となっている今の市場において、

 イズナが作り上げたこの透明度の高いポーションは、間違いなく「上」――つまり「一級品」に分類される代物だった。

 もちろん、今のイズナにそれを知る術はない。

 ただ、尊敬するアウレに認められたことが、何よりも嬉しかった。

「よし、熟練するまでこれを繰り返せ。

身体にその感覚を刻み込むのじゃ」

「はい、アウレ先生!」

 「先生」と呼ばれた瞬間、アウレの眉がぴくりと跳ねた。

 半透明の顔に一瞬だけぎこちなさが浮かぶが、すぐにどこか得意げな笑みに変わる。

「ふん……。ワシが教えるからには、三流以下の出来など許さぬ。

 さっさと次を始めよ、少年」

 それから数日間、岩洞には釜をかき混ぜる音と、時折響く小さな爆発音、そしてアウレの厳しい叱咤が絶え間なく響き続けた。


 時間はあっという間に二週間が過ぎていた。

 岩洞の入り口に立つイズナの姿は、二十日前とは見違えるほどの雰囲気を纏っている。

 背負い袋の中では、この半月で作り上げた色とりどりの小瓶が、かちゃり、かちゃりと心地よい音を立てていた。

 久々に浴びる陽光が、目を刺すように眩しい。

 だが今のイズナの瞳は、それを真正面から受け止めても揺るがない。


「……さて、帰ろうか」

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