10 逆鱗の刻
セレナの顔は青白かった。
だが、その背筋だけは折れず、まっすぐに伸びている。
カルスは外出中。
イズナも姿を見せていない。
今この場で、この家を守れるのは――彼女一人だった。
「ですが……」
声はわずかに震えていたが、セレナは必死に言葉をつなぐ。
「この屋敷は、代々私たちが受け継いできた私邸です。
国から賜ったものではありません。たとえ爵位を失ったとしても、住まいまで奪われる理由は――」
「私邸、だと?」
クロードは鼻で笑い、言葉を遮った。
口元には、隠そうともしない下卑た嘲笑が浮かんでいる。
「負け犬は負け犬らしく、尾を巻いてスラムの犬小屋にでも潜り込めばいい。
ここは間もなく、我らヴィミリアン家のものになるのだからな」
一歩、前へ。
体内から原力が溢れ出し、重苦しい圧が空気を押し潰す。
セレナたちは思わず数歩、後ずさった。
「潔く一か月以内に立ち退け。
父上が正式な任命書と軍勢を率いて到着したとき、今のように“話し合い”で済むと思うなよ。
その時は『王国直轄地の不法占拠』の罪で、物一つ持ち出すことも許されん」
溜め込んでいた鬱屈を吐き出すように、クロードは声を荒げた。
「そもそも、すべてはあのイズナ・アークライトのせいだろうが!
あいつが身の程もわきまえず、王都でウェントワース家に楯突いたせいで、北境領主の座が空いた!
その結果、父上はこんな凍りつく最果てに“左遷”される羽目になったんだ!」
指を突きつけ、吐き捨てる。
「貴様らは全員――存在そのものが災いなんだよ!」
「お母様をいじめないで! この、ハゲ!」
その瞬間、鈴を転がすような少女の叫びが広場に響いた。
エリーゼは大きな瞳を見開き、恐れを押し殺すようにしてクロードを真っ向から睨みつけていた。
クロードは一瞬、少女の言葉を理解できず、呆けたような顔をした。
だが次の瞬間、その表情は醜く歪む。
「……たかが辺境の小娘が、この私に向かって何を口走っていやがる」
低く、粘つく声。
「どうやら、躾が足りないようだな」
クロードは隣に控えていた従者へ、冷え切った視線を投げた。
合図を受け取った男は、卑しい笑みを浮かべながらエリーゼへ歩み寄る。
「やめてください!」
セレナは咄嗟にエリーゼを背後へ庇い、必死に声を張り上げた。
「子供の言ったことです! どうかご容赦を……!
私が、私が代わりにお詫びしますから……!」
だが、その訴えは容赦なく踏みにじられた。
「邪魔だ。どけ」
従者は乱暴にセレナを突き倒す。
「――っ!」
セレナは短い悲鳴を上げ、地面へと倒れ込んだ。
「お母様!」
母が無惨に突き倒される光景を目の当たりにし、エリーゼの瞳に怒りと涙が一気に溢れ出す。
少女は考えるより早く駆け寄り、従者の腕に思い切り噛みついた。
「痛っ……! 痛えっ! このガキ――!」
従者は顔を歪めて叫び、乱暴にエリーゼを振り払った。
振り上げられた拳が、容赦なくエリーゼへと振り下ろされる。
逃げ場のない暴力を前に、エリーゼはぎゅっと目を閉じた。
――だが、痛みは来なかった。
代わりに響いたのは、鈍く乾いた衝撃音。
そして、従者が悲鳴を上げながら、数メートル先まで吹き飛ばされる音だった。
広場が、一瞬で凍りつく。
居合わせた者すべての視線が、同じ一点へと吸い寄せられた。
そこにいたのは――
少女を庇うように前に立つ、一人の少年の後ろ姿。
「……イズナ様だ」
「イズナ様が、戻られたぞ!」
アークライト家の使用人たちが、思わず声を上げる。
「イズナ……」
「お兄様!」
セレナとエリーゼも、ようやく理解した。
そこに立っているのが、一週間以上姿を消していたイズナであることを。
再会の喜びが、一瞬だけ胸をよぎる。
だがすぐに、現実が冷たく突きつけられた。
――今のイズナには、もう原力がない。
戻ってきたところで、この状況を覆せるはずがない。
「てめぇ……何しやがる!」
殴られた顔を押さえ、従者が怒号を上げながら立ち上がる。
だが、イズナは一瞥すらくれなかった。
静かに身を翻し、倒れていた母と妹のもとへ歩み寄る。
その身体を抱えるようにして、そっと助け起こした。
「怪我はない?」
「ええ……大丈夫。でも、あなたは……」
セレナは不安を隠しきれず、目の前のクロードたちと息子とを、落ち着かない視線で行き来させた。
「――あとは任せて」
淡々とした声。
そこには、感情を押し殺した冷たさがあった。
イズナはゆっくりと振り返る。
不快そうに目を細めるクロードを、真正面から見据えた。
(こいつがイズナ・アークライトか。
シグルド殿からは、原力を失って廃人同然だと聞いていたが……
今の一撃、どう見ても原力が乗っている)
クロードは内心で素早く計算を巡らせながらも、その表情には一切を出さなかった。
代わりに、煮えたぎる怒りを抑えきれずにいる従者へ、顎だけで合図を送る。
主の意図を悟った従者は、荒い足取りで一歩踏み出し、イズナに向かって怒声を浴びせた。
「おい、無視してんじゃねえぞ!
この俺の顔を殴りやがって……ただで済むと思うなよ、ガキが!」
従者の体から、殺気とともに原力が膨れ上がる。
その気配から察するに、レベル16、ランクは「見習」だった。
並の相手なら、その威圧感だけで足がすくむだろう。
イズナは、クロードに向けていた視線を、ゆっくりと従者へ移した。
――その瞬間。
その黒い瞳から、凍てつくような殺意が滲み出る。
同時に、これまでとは明らかに質の異なる“蒼”の原力が、爆発的に噴き上がった。
「……レベル17だと!?」
「原力が、戻ったのか……?」
「いや、それどころか……前より、強くなっているぞ……!」
広場に走るざわめきを意にも介さず、イズナは氷のように冷えた声で言い放った。
「俺の家族に手を出したんだ。
――覚悟は、できているんだろうな?」




