恋ー毎日死を想っていたわたしはひとりの医者と出会った。そしてはじめて恋というものを知る
性的逸脱行為をしていたわたしは、恋を知ってしまった。その瞬間からこれまでの壊れた愛が音もなく崩れ落ちていった。
医者の事を考えてみた。幼い頃から勉強三昧の毎日を送り、医学部へ合格し、国家試験も軽くクリアし、人生は順風満帆だと思い始めた矢先に、まさかの鬱病発病。これは、本人にとっても家族にとってもたいへんなショックだったに違いない。彼も、わたしと同じように孤独だったのだろうか。もしかしたら、男の彼は、女のわたしよりもっともっと孤独なのかもしれない。女のわたしは体さえ出せば、それが行きずりの人だろうと抱きしめてもらうことができたけれど、男の医者にはそれは出来ない相談っていうやつだったに違いない。
あんな形で別れたのに、自室にこもって考えれば考えるほど、彼の事をもっともっと知りたい自分に気がついた。もっと知りたい、彼の孤独を。もっと知りたい。彼がどんな気持ちで毎日を生きているか、を。
時間さえ空いていれば、わたしは彼と出会った駅の改札のところでずっと彼の姿が現れるのを待った。横殴りに吹き付ける海辺の秋風が冷たく、もう一度彼に会いたいと願った自分の無謀な心を大いに反省させた。それでも、わたしは彼の事を待っていた。
「やあ! キミ!」
何時間もぼうっと突っ立っていると、後ろから声がした。例の医者だった。自分から彼を見つけるつもりが、見つけられてしまったのだった。
「どうしたの? ぼうっとして。また具合でも悪いの?」
「いぇ、わたしは、あなたのことを待っていたんです」
待っていたんですというと、わたしは顔を赤らめた。これでは、好きですと言っているのと同じじゃないか。なんてことを言ってしまうんだろうわたしの口は。
「昨日はありがとうございました」
そう言って、ぺこりとお辞儀をした。
わたしたち二人は、再び、昨日と同じ喫茶店に入った。
「昨日は、勝手に帰ってしまってすいませんでした」
昨日の事を謝ると、医者は、湯気を上げるコーヒーを目の前にして、自分の話しをした。
医者は、幼少の頃から父親の暴力に耐えていたそうだ。もともと成績優秀でスポーツも万能だったのに、父親はどれだけ努力しても彼を認めはしなかったのだという。それどころか仕事で面白くないことがあると、大量の酒をあおって帰ってきては、意味もなく幼かった彼に暴力を振るうこともあったそうだ。
これだけの美青年に産まれ、成績優秀でスポーツ万能とくれば女の子達が騒がないわけないのに。絶対幸せな人生を送ってきたのだろうなとその外見では主張しておきながら、実際の彼の人生はあきらかに正反対だった。
鬱病にかかったのは、精神科医として勤務しだしてから三年後の夏だったらしい。気の強い看護婦さんたちに囲まれて、つかみかかるような勢いで治療方針がどうだのこうだのと言いたい放題言われている最中、気がついたらパニックを起こして倒れていたのだという。血圧は上が六十下が三十をきっていたそうだ。病院内で倒れたのですぐに処置はすすんだが、すぐさま内科から精神科へうつされ、『鬱病』と診断されたのだそうだ。
「キミも、随分つらい思いをしてきたんだろうね」
と、医者はやさしい笑みを浮かべて言った。
「でも、どうしてそんなにも君は寂しいのかな?」
寂しい、という言葉を聞いて、ふとわれに返った。寂しい? わたしが? 寂しいと感じているように見えるの? 何故? 自分の感情すらわからない自分に気がつくと、何故医者がわたしが寂しいと思っていると思うのかが知りたくなった。
「寂しいって、どうしてそう思うの?」
「キミは全身から寂しいっていうオーラを出しているんだよ。それはきっとキミが発するSOSなのだろうね」
「わたしみたいに、一人暮らししていたら誰だって寂しいんじゃないんでしょうか?」
「そんなことはないよ。キミの寂しさはもっと特殊な何かだと思うけどな。僕は11年以上独り暮らししているけど、その類の寂しさを感じたことはないんだ」
特殊な寂しさというのはわたしが感じているこの苦しみの事を指すのだろうか。
「わたしは、薬を飲めば元気になれるの? 精神科医はわたしに薬を飲ませようとするの。そんなんで治るわけないと思いませんか?」
わたしはふとしたはずみで、精神科に対する不満を口にした。この医者にならわかるのかもしれない。どうやったらこの種類の病気を治すことができるのかを。自分自身で体験して知っているのかもしれない。薬が病を治すのかどうか、を。
「そう思う患者に、ぼくは薬を出しませんよ」
「どうして?」
「どうしてって言われても・・・医者は信頼されてなんぼの商売ですからね」
医者は、自分自身の話を続けた。自分で処方した抗欝剤を飲んで、たったの半年で二十キロも太ったこと。その後薬を断って必死にダイエットして再び二十キロ痩せたが、薬をふたたびはじめるとすぐさま十五キロ体重が戻ったこと。セロトニンという物質が穏やかに効くと欝状態が改善されるという話も聞かせてくれた。また、わたしのような若い娘が抗欝剤を飲み続けることによって、心臓や肝臓、そして気管支がぼろぼろになっていくという話もした。
このお医者さんって、とってもやさしいし、カウンセリング技術も優れているの。わたしの自己分析、自己洞察、そして自己受容をどんどん促していく。ひとの気持ちに沿いながら相手の話を聞いていくその傾聴スキルがとても高い人なのよ。そして主人公はお医者さんと関わることによって自分で自分を許すと言う心の作業をひとつづつ行っていく。気づくと主人公はお医者さんに恋をしていた。もしかしたらそれを心理学用語で転移と言うのかもしれないが。(臨床心理学の世界では、この転移により恋が産まれた場合、治療者と患者が付き合うことはよろしくないとされている)




