網戸
網戸
体調を崩して仕事を辞め、実家に戻ってきた。
憧れていた世界は結局憧れでしかなくて、ただの幻想だったと気付かされた。賑やかな通りはただうるさいだけだし、きらびやかな店たちはただ高いだけだ。所詮、収入がなければ暮らせない場所なのだ。
がらがらとトランクを引きずって、田舎道を帰る敗北感といったら。渋る両親をほぼ無視する形で都会へ飛び出していった者の末路としては、あまりにありふれている。
それでも実家は受け入れてくれたので、とりあえず落ち着いて次の職を探すことができた。
最近できたという大手運送業者の倉庫で、仕分けの作業をする仕事に就いた。座る暇なんかほとんどないけれども、あまり人と話すこともないので気が楽だった。
夕方に帰宅し、夕飯を食べて入浴する。その頃には、外はもう真っ暗だ。
古い洗面台の鏡を見ながら、スキンケアをする。鏡が見えにくいのは風呂の湯気のせいだけではなく、単純に古くて汚れているからだ。どんなに磨いても、すぐに表面が鈍く曇る。実家の中で妙に引っかかる不便さの一つだった。
ぶぅぅぅううううううう……ん。
化粧水を肌になじませながら、すぐ横の窓を睨んだ。まるで蓋をされてしまったかのように、不自然に暗い。
長年の雨風にさらされてすっかりボロボロになった網戸は、サッシが歪んでしまったのかびくともしない。おまけにここは西に面しているため、午後になると強烈な日差しが入り込む。仕方なくすだれをつけて、夏の酷暑をしのいでいた。
そのすだれと網戸の間に、時折虫が潜り込む。運良く風が吹けば、すだれが少し持ち上がって逃げ道ができるのだが、大抵はまたすだれに巻き込まれて、虫はそこで短い一生を終えることになる。上下を固定されたすだれと、網戸との狭い隙間で。
残酷で哀れな末期を迎えるまで、彼らは必死でもがく。跳ねたり飛んだり鳴いたりして、何とか生きようとする。その最後の抵抗──すだれと網戸に挟まれて、狭苦しいそこで羽を全力で震わせる音は、我が家ではもはや夏の風物詩となりつつあった。
虫が苦手な身としては、姿が見えなくとも、激しい羽音は恐怖と嫌悪の対象でしかない。仕事で疲れて帰ってきた時などにきくと、本当に苛立たしかった。音と、それにより想起される虫の存在。田舎を嫌って、都会に憧れた理由の一つなのだ。
今日も今日とて、奴はすだれに挟まってもがいているようだ。
ぶぅぅぅうううん。
ぶぶぶぶぶぅぅぅううん。
あぁ、本当にうるさいなぁ。
さっさと諦めて、終わってしまえばいいのに。
ぶぶ、ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
ぶぅぅぅぅうううううん。
「うるさいなぁ! 早くどっか行けよ!」
思わず怒鳴って、窓の下あたりの壁を蹴った。もちろん、穴が空かない程度に。
叫んでから、馬鹿馬鹿しくなった。虫相手に、何をしているのだろう。こんなの意味がないのに。
しかし、虫は大人しくなった。羽音がぴたりと止んだ。壁からの衝撃が伝わったのか。とりあえず今、静かになるならそれでいい。
早く寝てしまおう。きっと疲れてイライラしているのだ。そう思って、再び鏡へ向き直った。その時。
「何でいるのわかったんだよ」
低い。低い、男の声。
不満そうに。つまらなそうに。ソイツは呟いた。
窓の向こうで。
ざぁっとすべての音が遠のく。
見たらダメだ見たらダメだ見たらダメだ。
ぎゅっと目をかたくつぶって、息を殺した。
心臓が暴れている。胸が苦しい。
耳鳴りがしそうなほど硬直していると、消えていた虫の声や風の音が戻ってきた。
そっと目を開ける。羽音はもう聞こえなかった。
気のせいだったのだろう。
だって、窓の外は荒れ放題の竹やぶで、
人が入る余地なんて、
いや、
そもそもそんな所へ入り込む意味がないし、
だから、
だからそこにいるのは虫じゃないか。
虫。虫だよ。
虫に決まっている。
人なんか入ったら、狭すぎる。
きっと苦しいだろうし、身動きなんかとれない。
網戸に顔を押し付ければやっと呼吸ができる、そんな程度の隙間しかない。
だから、
だからこの網戸は開かないんだ。