恋にはちょっとしたスパイスが必要
未完成です。
1
改札で弾かれて、峯村一裕は思わず後ずさった。ICカードのチャージが足りなかったようだ。
「わり」
先を歩いていた相方に向かって声をかけたが、声が届かなかったようで立ち止まらない。仕方なく峯村は踵を返し、切符売り場へ急いだ。カードを自販機に突っ込む。三千円をチャージする。移動は常に電車なのだから非効率なのだが、ついちびちびとしか使え出来ないのは、売れない芸人の性だ。
戻ってきたカードを財布にしまって再び改札に向かおうとすると、道を塞がれた。
「もー、何やってんのぉ?」
相方の北川正芳だった。かなり色を抜いた派手な髪、蛍光色のTシャツを着たストリート系ファッション、どこにいても目立つ格好をしている。そして結構いかつい顔を思い切り顰めている。
「結局同じになるんだからさー、限度額までチャージすればいいじゃん。いっつも改札で引っかかるんだもん」
イライラしている。
「んな怒んなよ。いいだろ」
「よーくーなーいー」
ただでさえ目立つ格好で大声を出すので恥ずかしい。彼を体ごと腕で押しのけて改札を抜け、ホームまで早足で歩く。
「もー、峯村さんたらーっ」
振り向かなくても追いかけてくるのはわかる。無視して電車を待つ。すぐに入ってきた山手線に乗り込んだ。学校が終わったくらいの時間のせいか車内は混んでいた。離れて立っていると誰も彼らが連れ合いだとは思わないだろう。それくらい、北川とは正反対に峯村は地味だ。
人々の隙間から、北川はじっと峯村の髪を睨んでいる。無視を続けるのはいつものことだ。何も感じない。
山手線はすぐに目的地についた。無言で劇場へ向かう。次の仕事まで余裕のないスケジュール。仕事がある時は重なるけれど、ないときは全くない、波のある生活ももう六年目になる。有難いことに、バイトをしなくても良い程度には仕事がある。彼らはティースプーンという、どこか可愛らしい響きの名前のコンビを組んでいる。特に意味はない。必ず聞かれるので無理矢理意味をつけたこともあったけれど、本当に意味が無いのだった。
「おはようございまーす」
「ざいまーっす」
いつの間にか追いついてきた北川と並んで楽屋に入った。中には芸人仲間がたくさんいて、鞄を置きながら声をかけたりかけあったりする。すると次のライブ担当の作家がやって来て、仕事の話が始まった。軽いリハーサルの後に客入れをして本番。若手がネタを疲労する場として定期的に行われているライブなので事務的に進行する。MCも気心の知れた一年先輩のコンビだから安心して動ける。
出演者が順番に舞台へ出て行く度に客席から歓声を上がる。彼らも名前を呼ばれて出番となった。
「どもー、ティースプーンです。えー、僕は峯村といいます」
「カラフルなほうが北川でーす」
「カラフルって何だよ」
「だってぇ。そっちはなんか辛気臭い色合いじゃん。ねー」
「失礼だなおまえ」
「とにかく名前だけでも覚えて帰って欲しいよねー!」
喋りながら意外に舞台から客席の様子はよく見える。いつも見る顔が前のほうに座っていた。よく劇場付近で待っていて差し入れやファンレターをくれる子たちだ。そういう子たちは有り難いことに何人かいるけれど油断してはいけない。
お笑い好きで劇場まで足を運ぶファンは若い女の子が多い。彼女たちは移り気で、いくつもの顔を持っている。よく来てくれるからといって俺たちだけのファンだというわけでもない。彼女たちだって色々な芸人が好きだろうし、彼女たちの都合もある。気に障ることがあれば光の速さで噂を回す。
特に北川は標的になりやすい。
更新するしないに関わらず、殆どの芸人は自分のブログを持っていて、閲覧数やコメントが人気のバロメーターとなっている。北川の場合は更新数も多く、コメント数もそれなりだが、悪辣なコメントも多い。いわゆる荒らされるというやつだ。さらに検索すれば、もっと酷いことが書かれている場所もあるらしい。
峯村はめったにブログを更新することもなく、ネットで自分たちの評判を探すこともない。無責任な情報を見ても何も得しないと思っているからだ。
人気商売というものはまるで幽霊を相手にしているみたいだ。ぼんやりと想像がつくけれど、実際どうしたら人気が上がり、こうしたら評判が良くなるかなんていうことは分からない。分かったらとっくに売れっ子になっているはずだ。
一見「チャラい」イメージのせいか、滑ることが多いせいか知らないけれど、北川は一部の女の子たちから攻撃を受けやすいことは確かだった。そのおかげで本人はよく情緒不安定に陥いることがある。
他の芸人との絡みでもよくイジられるネタになっている。
「どうした北川、またお前のブログ荒らされてるんだって?」
「ちょっと、そういうこと言わないでくださいよー。マジで傷つくんですからぁ」
自虐的な物言いで場を賑やかす。
出演者全員のネタが終わり、続くゲームコーナーもつつがなくこなしてライブは終了した。北川は楽屋で後輩と喋りこんでいたが、もう今夜は仕事がないので峯村は家に帰ることにした。
劇場の入っているビルの前に、女の子たちがたむろしている。出てくと一斉に視線が集まる。「なんだあいつか」という感じでいくつかの視線が外れ、数人の女子高生が駆け寄ってきた。
「お疲れ様です!」
「今日のトーク面白かったです」
「写真一緒に取ってもいいですかぁ?」
自分より十歳くらい年下の女の子たちの願望を叶えるために小さなカメラにおさまる。恥ずかしくてどうも上手く笑えないけれど、彼女たちは異常に喜んでくれる。
「ありがとうございましたー」
ぺこぺこ頭を下げる女の子たちを後にして歩き出したが、一人だけまだ何か言いたそうな子が後ろを着いてきていた。振り向くと、ギャルでもなくごく普通の制服姿の女子高生がいた。
「……なに?」
「あの!」
「あ、はい」
「早く北川さんを捨てた方がいいと思います。そうしないと峯村さんまで足を引っ張られていつまでたっても売れないと思います!」
「え?」
いきなり何を言われたのかわからなくて戸惑った。しかし彼女自身はは言いたいことを言って満足したようだった。ふぅっと大きく息をつくと、軽く会釈をして劇場の方へ駆け戻ってしまった。峯村はぽかんとして突っ立っていた。
捨てる? 俺が、北川を?
足を引っ張るって。なんなんだいったい。
混乱しつつ再び歩き出そうとしたところへ、また声をかけられた。
「峯村さん」
今度はまだ新人のピン芸人・小豆沢だった。名前とは正反対にでかい図体をしている彼は、誰が喋っても見上げてしまう。
「どこ行くんすか? ゲーセンっすか?」
「あれ、お前仕事?」
「や、芝居の稽古帰りっす。俺んちこっから近くて通りがかるんっすよ」
「へー、いいとこ住んでんなぁ」
「四人同居っすから」
「あー」
「で、ゲーセン行くんなら俺も行こうかな」
言われて、峯村は迷う。
「うーん、帰るつもりだったんだけど、どうしようかな」
しかし小豆沢の目的は寄り道ではなかったらしい。周囲にちらっと視線を走らせてから声をひそめて言う。
「さっきの、聞こえたんですけど」
「えっ? さっきのって、あぁ、あの女子高生の言ってたこと?」
そうです、と彼は力強く頷いた。
「ファンの子もあんなふうに言うんだったら、見抜かれてるんじゃないですか」
「ん、何を?」
「北川さんと峯村さんが不釣合いってことですよ。あの人もいいところはあるんだろうけど、ちぐはぐなコンビでお互いの才能を潰し合うんじゃもったいないっす」
「へ?」
再び峯村は目を丸くする。
どうやらさっきの女子高生もこの後輩も、彼らコンビの関係を否定したいようだ。そんなことを素面で、正面切って言われることは滅多にないだろう。外野からあれこれ言われる筋合いはないと思うので少しむっとした。それに気づいたのだろう、後輩ははっとして口をつぐんだ。
「……先輩方にだいぶ失礼なこと言っちゃったのはわかってます。けど、俺、謝りませんから。峯村さんの才能を買ってるからこそ言ったんです!」
真っ赤な顔で彼は言った。
「えーと」
峯村はうまく答えられず、頭を掻きながら俯いた。さっぱりわからないけれど、この熱くなっている後輩にそれを伝えたらがっかりさせてしまうだろう。
「それはありがとう。じゃ」
短くお礼を言って立ち去ることにした。
「あっ」
小豆沢はさらに何か言おうとしていたが聞こえない振りをした。
若いからな、と峯村は思う。あんなふうに気持ちを真っ直ぐぶつけられるのは若さゆえだ。しかし世をすねるタイプの峯村と違い、あの真っ直ぐさはどちらかというと北川の若い頃みたいだ。
駅までの道を俯きがちに歩きながら、峯村は相方と初めて会った時のことを思い出した。
彼らの出会いは今から六年前、まだ養成所に通っている期間だった。峯村は同時に大学にも籍を置いていた。そしてどちらにも真面目に通っていなかったのだ。
そもそも峯村の不登校癖は中学まで遡る。苛めをきっかけに、中二の半ばから殆ど通わなくなった。高校になり気分を一新してからはいくらかマシだが休みグセがついていて、後半はあまり登校しなかった。そして大学でも引きこもりに戻ってしまった。
このままじゃいい加減ダメ人間になると思い、お笑い芸人になるための養成所に入学したのは極端すぎるだろう。峯村には昔からそういうところがあって、追い詰められると急ハンドルを切ってしまうのだ。
しかし養成所も学校に違いなく、やはりずるずると休みがちになってしまうのだった。それでも今までより友人が出来たのは、どんな人種も包括する許容範囲が広いせいだろう。
“神藤・阿川”というコンビの阿川行尚と神藤寛貴とはバイトに誘われた縁で仲良くなった。彼らは高校の同級生同士だったが、二人だけで固まらずに他者に対して壁を作らない不思議なタイプだった。芸人を目指しているにしては自然体で構えたところがなかった。人懐こい猫みたいな神藤と、間の抜けた犬みたいな阿川。一人でつまらなそうに机に突っ伏していた峯村を、新しく見つけた玩具のように近寄ってきた。
「おまえ暇だろ? バイトやんない?」
前置きなしに言い出す神藤に、
「バカ、神藤、いきなりすぎんだろ」
と、阿川が止める。
「峯村くんだよね。俺たち、明日から三日間だけの短期バイトやるんだけど、直前で欠員が出ちゃって、一人探して来いって言われてるんだよ。もし空いてたら一緒にやってくんないかな。八時間で九千円、交通費支給」
「明日?」
峯村は確かに暇で、断る理由が思いつかなかったので引き受けた。仕事内容は神社での団子売りという意外に堅実なものだった。場所は東京都下の歴史ある氷川神社で御鎮座祭という祭りがある週末はかなりの人手で賑わうのだった。神社の正門前に店を構える団子屋は境内にも出店を出しているので、通常働いているパートの女性らは団子作りを担当し、彼らを含めた数人の臨時バイトが売り子と品出しを担当させられた。
「お、似合ってるじゃん」
エプロンと三角巾をつけた姿を神藤に笑われた。
「お前だって同じ格好してるくせに」
「そこのお兄ちゃんたち、お喋りしてないできびきび動きなさい」
注意されても隙あらば神藤は喋っていた。
休憩時間を一緒に取って良いとい言われたので店の中でコンビニのおにぎりを食べながら、峯村はしみじみと呟いた。
「神藤ってよく喋るね」
それを聞いた彼は憮然として言い返した。
「お前さぁ、曲がりなりにも芸人になりたいんでしょ? 喋りで食ってこうって人間が寡黙でどうするわけ? 俺の方が普段から魂を忘れない正統派でしょ」
「そりゃそうだけど」
「峯村こそ大人しいし別に面白いこと言わないし、いったいどういうつもりなの?」
痛いところを突かれた。
そろそろ真剣に考えなきゃいけないところだった。何も考えてなかった。コンビやトリオで入学した奴らとは違い、一人で入ってきた奴はもっとしっかり考えている。漠然と何とかなるだろうと思っていたのは峯村くらいだった。
「おい、困らせるなよ」
阿川が助け舟を出す。同級生でコンビを組むほどなのだからよっぽど仲が良い。不登校だった峯村には、彼らがとても出会いに恵まれてるように思えた。神藤の過剰なところを阿川がフォローして、阿川のぼんやりしたところを神藤が敏感に反応する。お互い足りないところを補うように出来ている。尤も本人たちは自覚をしていないと思うけれど。
「なんだよ阿川。俺が意地悪してるみたいに言うなよ。相談に乗ってやろうと思ってんじゃん」
神藤は口を尖らせて言った。
「ほら、俺らが聞いてやるからさぁ、お前はこれからどうしたいわけ?」
いつから相談になったのか、峯村はうろたえる。
「ほらほら、どうしたいんだよー?」
「あ、あい」
「あい?」
「相方が、欲しいっ」
言ってしまって自分で驚いた。神藤と阿川は顔を見合わせた。笑われるかな、と思ったが笑われなかった。
「へーぇ、じゃあそれ任せといてよ」
真顔で神藤は言った。
「えっ」
「な、阿川。って、やべ。おばちゃんたち睨んでるよー」
慌ててそれぞれの持場に戻った。それからは客が増えて忙しくなったので、その話はそれきりになった。
続きは翌週のことだった。朝、寝ているところを携帯電話の着信で起こされた。
「わりぃ、起こしちゃった?」
神藤だった。
「ん、何」
「お見合いすっからさ、新宿まで来てよ」
お見合いというからにはてっきり女の子を紹介してくれるのだと勘違いして、髪をしっかりセットして待ち合わせ場所へ行った。駅ビルの中にあるカフェで待っていたのは三人だった。神藤と阿川とそれから隣に派手な……男?
チャラい格好の男が緊張した面持ちで正面の席に座っていた。
「ども、北川正芳といいます」
「あ、ども。峯村です」
神藤が説明を始めた。
「こいつ、隣のクラスの奴なんだけど、先月相方に逃げられちゃったの。わざわざ北海道から出てきて一緒に住んでたのに、朝起きたらもぬけの空だったんだって。すごいっしょ。で、一人で困ってたから紹介しようと思ってさ。どう、この需要と供給」
まさか本当に相方を連れてくるとは思わなかった。しかも相当不幸な奴だ。
「北海道出身なの?」
「はい。峯村さんは?」
「俺は神奈川」
「神奈川かぁ。都会ですね。俺は北海道札幌で、東京なんか右も左もわからなくって、まだどっこも行ってないんですよ。何もかも違うから圧倒されちゃって」
こいつもまたよく喋るようだ。全体的にチャラいから誤魔化されそうだけれど、体つきは筋肉質で何かスポーツをやっていたんじゃないかと想像した。顔立ち自体も精悍で目は鋭い。神藤と同じ人懐こそうに見えて、もっと奥深いような気がする。いったいどんな奴なんだろう。興味が湧いた。
「ため口でいいよ」
と峯村は言った。
「えっ」
「相方同士ならため口でいいよ」
「えっ、俺が相方でいいの?」
「?」
身を乗り出して、北川は峯村の目をのぞき込んだ。
「もっと確かめなくていいの? 何ならお試し期間必要じゃないの? だって会ってからまだ三分も立ってないよ」
「別にいいよ、そんなの」
「えぇーっ」
いちいちうるさい奴だ。相性なんて試してみたところでわからないから実践してみないとしょうがない。
「本当にコンビ組んでくれんの? こんな急展開予想してなかったからビックリだよ。いや嬉しいんだけど」
「ならいいだろ」
「でもでも、心の準備ってものが」
「うるせぇな」
我慢出来なくて突っ込んでしまった。すると、北川は殊の外嬉しそうに頬を染めた。
「お、良かったじゃん。お見合い成立」
神藤が自分の手柄とばかりに胸を張った。
「ありがとー」
北川は大げさに手を合わせて、仲介役の彼らを拝む。
また急にアクセルを踏んでしまった。峯村は極端な行動を取る己の性分に後悔はしないけれど、不安はいっぱいだった。
コンビ名はあっさり決まった。北川が「俺そういうセンス全くないから峯村さん決めていーよー」というので、昔から考えていたいくつかの名前から呼びやすいものを選んだ。
「昔からコンビ名考えてたの?」
と、北川は聞いた。
「コンビ名ってわけじゃなくて、バンド名とかダンスチームとか、いつか使うときのために考えてたから」
「峯村さん楽器とかダンスできるの?」
「出来ないけど」
「何それ! 変なの!」
北川は肩を揺らして笑った。
「峯村さんて一見普通そうに見えて中身変だよね。周りの人気づいてないでしょ」
「普通そのくらいの妄想するだろ」
「しないよー。俺しないもん」
「じゃあお前が変わってるんだよ」
授業は基本的に二人で課題に取り組むので、必然的に他の時間も一緒にいることが多くなった。離れるのは寝る時とバイトと、パチンコを打ってる時。刷込された雛のように、北川は峯村の後をついてまわる。峯村よりも背丈は大きいので、ボディガードを連れてあるいている気分だった。
ある日教室に行くと、いきなり思いつめた顔をした北川に隅っこに連れて行かれ、小声でたずねられた。
「峯村さんてバイトよりパチンコやってる時間長いよね。俺ギャンブルやんないからわかんないけど、お金足りてなくない? もしかして借金しちゃってるの?」
「いや。今のとこ大丈夫」
「なんで?」
「バイト代が足りなくなったら子供の頃の貯金があるから。養成所の入学金もそこから払ったし」
「峯村さんちってお金持ちなの?」
北川はぽかんと呆れた。養成所には天涯孤独の人間もいれば親から仕送りを貰っている人間もいるけれど、峯村はそこまで甘えていない。
「今はもらってねーよ。昔使わないで貯めてたんだからいいだろ」
しかし北川は馬鹿にしたように言う。
「そういえばどっかお坊ちゃんぽいもんね」
「ねーよ」
「あるよー。育ちの良さが滲み出てるよ。ほら、食べ方きれいじゃん。箸の使い方とか」
「そのくらい普通だろーが」
「普通ってのは俺んちみたいなこと言うんだよ。都会の普通と全国の普通は違うんだから。うちは俺も弟も公立だし、母親もパート出てたし。あ、また自分のことばっかり喋っちゃった。峯村さんのお母さんって専業主婦だっけ?」
事あるごとに北川は質問攻めを始める。峯村に関することは何でも聞こうとする。彼曰く、「峯村さんのことは何でも知りたい! そして俺のことも知って欲しい!」だそうだ。
「だってコンビってそういうもんでしょ」と主張して止まない。
しかし、普通コンビといえば、舞台上で新鮮なトークや空気を作るために普段は接しないようにするものだ。
「それって仕事のあるコンビのことでしょ? 俺達まだ卵の分際で、舞台上でトークする機会もないじゃん。今はお互いのことをよく知って、方向性を探っていく期間だと思うんだ。かっこつけてる場合じゃないでしょ」
正論だった。
それでもうっとおしいことこの上ない。垂れ流される情報で北川について詳しくなっている自分も気色悪い。
「もう授業始まるから戻れよ」
「じゃあ終わったらね。俺いいこと思いついちゃった。後でね」
北川の「いいこと」なんて、いやな予感しかしなかった。結局その日の夕方、開店時間早々の居酒屋に連れていかれた。オーダーもそこそこに話しだす。
「あのさ、お互いのことを分かり合うのに一番良い方法は、秘密の共有だと思うんだよ」
「は?」
峯村は怪訝な顔をして北川を見上げた。
「だから、俺の秘密を話すから、峯村さんの秘密も教えて」
「何言ってんのお前」
「真面目に話してるんだよ!」
「なお悪いだろ。お前さ、前から言おうと思ってたけど……あ、ども」
運ばれてきたビールを一口飲んで、峯村は北川を真正面から見据えた。
「お前ちょこちょこ気持ち悪いぞ。女っぽいっていうか、女だってそんなこと言わねーってこと言うだろ」
「……そうかなぁ」
「言動がベタベタしてるっつうか、うざいっつうか、なんなんだよいったい」
「え、それって俺のこと嫌いってこと?」
「そういうとこ! その聞き方!」
「じゃあどうしたらいいんだよ。怒らないでよ!」
「怒ってねーよ!」
峯村は言葉を止めて、もう一口ビールを飲んだ。黙って北川と睨み合う。
「……こんなの怒ってるうちに入んねーだろ。あと嫌いにもなってねーよ」
そんな了見の狭い男じゃない。止めなきゃ暴走する一方だから止めるのだ。だいたい峯村は滅多に起こらない。年に一回も怒らない。自分の思い通りに行くことなんてないと諦めているから腹が立たない。世を拗ねすぎて一回転してしまっている。
「だいたい、秘密なんかねーよ」
峯村は言った。
「えーっ」
「お前はあんの?」
「秘密?」
「実は殺人犯だとか、スパイだとか」
「そんなわけないじゃん。非現実的なこと言わないでよ」
「じゃあ何があるんだよ」
「えっとねぇ、高校時代にサッカー部のめちゃくちゃ厳しい監督に嘘ついてサボったこととか」
「それのどこが秘密なんだよ」
峯村は呆れた。
予想しなかった返しに、北川は慌てる。
「あれ、ちょっと待って。初めての彼女と初チューする前に、つきあってない女の子とノリでチューしたことあるとか、お腹がすいたときスパゲティの乾麺そのまま齧ったことあるとか」
「だから、どこが秘密なんだって」
「あれー? おっかしいなぁ」
本気で北川は困っているようで、武ウッチは阿呆らしくなって笑ってしまった。
「この年になって男同士で言えないような秘密って大してないんだよ。俺だって昔女装してたことも隠してねーもん」
「ほゃ?」
北川が変な声を発した。
「今どっから声出したんだ」
「じょじょ、女装って何? 峯村さん女の子の格好してたってこと?」
「そうだよ。高一の時だからもっと細くてゴツゴツしてなかったから、すげーキモくなかったと思うぞ」
堂々と言った。
「な、なんで? オカマだったの?」
北川は目を白黒させている。
「ちげーよ。俺、服オタだったんだよ。女の子の服って同じブランドでもメンズラインよりおしゃれだろ。ヴィヴィアンとかロンソンとか、俺もレディースのほうが着たかったんだよ。今考えるとオタクすぎてこじらせてたんだと思う」
おかしいのは重々わかっている。ただその頃は一人で閉じこもっていたので客観的な思考がまるでなかったのだ。一度こうしたいと思ったら止まらなくなって加速度がついてしまう孤独の怖さ。今思えば、たまに登校する際の戦闘服だったんじゃないかと自分を振り返る。親しくない同級生に奇異の視線を向けられるのも快感だった。おまえらとは違うんだ特別なんだと誇らしかった。実際、色白で華奢な手足にレディースのカジュアルブランドは似合っていたと今でも思う。ボーイッシュなモデルの女の子とたいして変わらないように思えた。服装のせいで苛められることはなく、むしろ男女共に受け入れられていた。女子は服の情報を聞いてきた。男子は馴れ馴れしく触ってくることが多かった。高一の冬から高二の終わり頃まで女装癖は続いた。
「はぁ……確かに、峯村さん服おしゃれだよね。顔が地味でわかりにくいけど、今来てるのも有名ショップのTシャツだよね」
「顔が地味で悪かったな。まぁ、今は昔ほどこだわってない」
「それ、みんな知ってるの? 神藤ちゃんとあーちゃんも?」
「言って……ないかな、まだ。でも隠してないし、いつでも言える」
「でもまだ言ってないんでしょ? 俺しか知らないの? それ秘密でしょ!」
「秘密じゃねーって」
「今のところは秘密でしょー! あっ、卵焼き来た。いただきまーす」
満足して食事に手を付ける。釈然としないのは峯村のほうだ。結局北川のペースに乗せられてしまったようで悔しい。ビールを一気にあおる。
「すいません、ビールも一杯ください」
ちらりと北川を見ると、勝ち誇ったように卵焼きを頬張っていた。
こいつ本当は危険なんじゃないのかと、さらに不安が増大した。
帰り際、北川はぽつりと呟いた。
「バイト変えようかなぁ」
「ん? こないだ研修期間終わったばかりじゃなかったか?」
「そうなんだけどー。うー、人間関係がさぁ」
もどかしげに唇を噛む。
「峯村さんところは時給いいよねぇ」
「おまえ……紹介しないからな」
峯村は先手を打った。
「何で」
「バイトまで一緒にやれるかよ」
「いーじゃーん。楽しそうだよ」
「やだよ。じゃあな」
峯村はそのバイト先に向かった。駅の目の前にあるレンタルビデオ店のバイトだった。場所の便利さと、それほど愛想を必要としないところが良い。
芸人を目指していることは周囲に言っていない。メディア系の専門学校に通っていると言うことにしている。なんとなくそれで納得されるからすごい。
北川は今はピザ屋のバイトをしていると言っていた。女の子がたくさんいると喜んでいたのに、やめたいのは何故だろう。
「峯村くん、新規入会の手続きお願い」
「あ、はい」
連休前のビデオ店は忙しくて、考え事が出来る暇は無かった。
翌日からも暫く、北川の様子はおかしかった。落ち着きがなく、携帯電話を頻繁に確認していた。
「昼飯行くか」
憂鬱なダンスの授業が終わったので晴れ晴れとした気持ちで峯村は北川に声をかけた。
「うん、外? それとも買ってくる?」
「カレー食べに行こうよ、割引券持ってる」
「オッケー」
少し離れたところのうどん屋まで歩く。同じようにランチに出る人の群れと行き交う。北川がしみじみと言う。
「東京の女の子ってみんなかわいくてびっくりするねー」
「そうかぁ?」
峯村は首を傾げた。
「そうだよ。平均値が違うんだよ。こっちのほう出身の人は有り難みをわかってない」
「そんなに言うなら彼女作れば?」
峯村は言った。
北川は一年程つきあっていた女の子がいたそうだが、少し前に別れたそうだ。だから現在彼女はいない。けれど女友達は沢山いるようだ。よくケータイメールで熱心にやり取りしている。
北川は「んーっ」と呻いて、空を仰いだ。
「でもなぁ。俺、恋愛って向いてない気がするんだ」
「なんだそりゃ。前の彼女とは何が原因で別れたんだ?」
「ふられたんだよ」
「へぇ」
「ついていかれないって」
「わかる」
「わかるなよ! わからないでしょ!」
北川は力いっぱい否定した。
「峯村さんは、誰かと付き合わないの?」
「今はいい」
あっさり言い切ったのは、余計なことをごちゃごちゃ言われたくないからだ。言うのはいいけれど言われるのはいやだ。
「つきあったことあるの?」
「なんだよその質問」
峯村は憤慨した。しかし北川はまじまじと峯村を見つめている。
「だってさぁ、峯村さんてそういう匂いしないもん」
「そういう?」
「雄っぽい匂い」
「悪かったな」
北川は立ち止まり、峯村のシャツを引っ張って引き止める。
「わっ」
「くんくん。いー匂い。石鹸の匂いしかしないよ」
「やめろよ」
「変な女に引っかからないで欲しいなぁ」
「さっきから上から目線の発言ばっかしやがって。やめろ、触ん、な」
峯村は両手を振って避ける。北川はますます強い力で峯村を体ごと引き寄せる。
「やめ」
「ねぇ、俺の後ろに女の子いるでしょ」
「え?」
「いない?」
北川の肩ごしに女の子が立っていた。峯村と目が合うとさっと反らせたが、その場を動かずにうろうろしている。
「いる」
北川は短くため息をついた。
「やっぱり」
「知り合い?」
「声かけないでね。そのまま知らんぷりしててよ」
「なんで」
「しつこいんだ。バイトが一緒の大学生。しょっちゅうポエムみたいなメールを送ってくるから我慢出来なくて昨日着信拒否にしたら、朝から着いて来てる」
「ストーカー?」
「そこまでじゃないと思うけど」
北川は忌々しげに舌打ちをした。
「ただ俺としてはイライラする」
「…………」
だからバイトを変えたいと言っていたのか。
でも、どっちかな。
峯村は内心疑った。女の子が思いつめることもあるだろうし、北川が酷く冷たくした可能性もある。いつもグニャグニャしてるくせに、こういう時はすごく気の強さが前面に表れる。
「いいや、ごはん食べよう」
早足でカレー屋に入った。混んでいたので店の中で十分くらい待った後、カウンターに座れた。
「ここのカツカレー最高だよねぇ」
機嫌が元に戻ったように、北川はよく喋りながらカツカレーを平らげた。峯村はどれだけダンスの授業がくだらないか生卵入りのカレーをぐちゃぐちゃ混ぜながら語った。
「ごちそーさま!」
満腹になって満足して店を出た。
「あ」
さっきの女の子が店の前にいた。
「やばくないか」
峯村は北川を振り返った。
「無視しよう」
北川はそう言って歩き始めた。峯村も黙って着いていく。
また彼女は着いてくるのだろうか。怖くて振り返れない。北川は黙って歩いていく。
が、舌打ちが聞こえたかと思うと、急に後ろを振り返った。
「お前っ、いい加減にしろよっ!」
聞いたこともない声で怒鳴り、傍らに置いてあった自転者を力任せに蹴飛ばした。すごい音を立てて倒れたので、遠くの人まで振り向いた。
やはり後ろを着いてきていた彼女は怯えたような表情でしばらく固まっていたが、はっと我に帰ると泣きそうな顔で逃げ出した。
「……びっくりした」
彼女ほどではないが、峯村も驚いた。これだけやれば二度と彼女も近づかないだろう。百年の恋も冷めさせる北川の凶暴さ。
「あの子すげー怖がってたな。ありゃ泣くわ。お前女相手に容赦ないな」
重い空気を混ぜっ返したつもりだった。ところが、当の北川は真っ青な顔色をして手のひらを口元に当てていた。
「……前にも……」
北川は搾り出すような声で言った。
「え?」
「前と同じだ。あいつと」
「誰?」
「前の彼女。怒ったらすごく怖がって、こんな人だと思わなかったって言って、すごくすごく嫌われて、別れた」
「……ふぅん」
峯村は肩を竦めた。想像はつく。普段の北川が好きで、安心してつきあっていた子だったらショックだろう。
「まぁ、いきなりキレないように気を付けたほうがいいんじゃねーの」
「うん」
「今回のはもうしょうがないだろ」
「うん」
「次から気をつけろよ」
「嫌いになった?」
「え?」
「峯村さんも嫌いになった?」
「何でだよ」
「ごめん。本当にごめん。ごめんなさい。もうしないから。嫌いにならないで」
「何言ってんの。俺は関係ないじゃん」
「ほんと? 大丈夫?」
「お、おう」
「良かったぁ」
いつもの北川に戻った。緩んだ笑顔を浮かべる。
「あっ、自転車直さないと」
焦って倒れた自転車を元に戻すと、ほっとした様子で歩き始めた。
「…………」
峯村は後ろを歩きながら考える。一体どちらが彼の本性なのだろうか、と。
知りあってから今までの短い間だが、近くで見てきた限り、たぶんどちらも北川なのだ。両方共、彼の中に混在している。
峯村には、最初に会った時から分かっていたような気がする。
さっきの子も、前の彼女も、彼を好きな女の子たちは、好きなあまり見抜けなかったのかもしれない。だから幻滅したのだろうけれど、峯村は違った。
峯村は彼を恐れなかった。
2
それから三年、周囲の心配をよそに彼らコンビは順調に養成所を卒業し、芸人としての道のりを歩き始めた。初舞台は渋谷の小さな劇場で、四分のコントを演じた。北川の目立ち方は芸人として得をする。とにかく最初はどんなことをしてもいいから目立ちたい。彼が前に一歩出て打たれている間に後ろで峯村が空気を読んで適切な言葉を考えてからフォローを引き受ける。そのやり方でフリースタイルは切り抜けられるようになっていた。
「だから、北川は空気読まなくていいよ。場をかき回してくれれば」
「さっすが。峯村さん頼りになるー!」
北川は未だにさん付けで峯村を呼んでいた。出会った頃と変わらない、一定の距離感を保ったままだ。
ある日のライブの帰り、劇場から出てきたところで声をかけられた。
「峯村?」
長身の、爽やかな男。てっきり知り合いか、客の一人だと思った。
「峯村だよな。三中の」
「え」
「覚えてるか?」
「…………飯田?」
全身が鳥肌立った。
中学の同級生だった、飯田明彦が十年ぶりに目の前に現れた。
「覚えてたな」
飯田は自信たっぷりに笑っていた。
「お前ここで何やってんの? これ何? なんか有名人いるの?」
まさか芸人をやっているとは言えない。想像もしないだろう。大人しくて、いつもオドオドしていた峯村が人前に出る仕事をしているなどとは。
「さぁ、俺も通りがかっただけだから……飯田こそ、何やってんの」
「俺はふつーに買い物。彼女と待ち合わせてるんだけどまだ時間あるから飯でも食う?」
「え、いや」
何でこんなふうに気軽に誘うのかわからなかった。最後に会ったのはいつだっけ。無理やり出席させられた卒業式で見かけた。視線が合っただけで挨拶はしなかった。
「峯村さん!」
後から出てきた北川に肩を叩かれて、びくっと飛び跳ねそうになった。
「どうしたの? 誰? 知り合い?」
「お、あ、う、うん。昔の」
「そうなんだ。こんにちは」
北川は礼儀正しく笑顔を向ける。
「どうも。何だ、連れがいたのか。じゃあ無理だな。元気にやってるの見て安心したよ。そのうち連絡するわ」
彼はあっさり去ってしまった。
峯村は動揺を抑えられない。連絡って、実家しか連絡先をしらないくせにどこまで本気で言ってるんだ? 安心したって何なんだ。
「どうしたの? 呼吸変だよ」
「な、何でもない」
不思議がる北川を置いて、峯村は駅の方向へ歩き出す。
「ちょっと待ってよ。この後ネタ作りするっていってたじゃん」
「そうだっけ。そうだ」
思い出して立ち止まる。
「ほんと変だよ?」
「大丈夫」
冷静を装って、いつもネタ作りに使うファミレスへ行った。ドリンクバーで朝まで粘ることも多い。
「さっきの人、なんだったの?」
「いいだろ、そんなこと」
「言えないような人なの?」
北川は挑発して聞き出そうとする。
「ただの、同級生だよ」
「中学の? 高校の?」
「両方」
「両方なんだ。じゃあ仲良しだったの?」
「全然」
峯村はメロンソーダに差したストローを齧る。
「言ったろ、不登校だったって」
「でも高校は行ってたんでしょ?」
「まぁ、何とか……」
「あ、もしかしてあいつがイジメっ子だったとか」
「あ」
「そうなんだ!」
答える前に北川は一人で頷いた。
「えーっ、だったら仕返しすればよかったのに! 何で言ってくれなかったの? 俺殴ってやったのに」
彼は怒りを顕にした。
「あーもーくやしい! 今からでも追いかけて連れてこようか」
「どっか行ったよ。探せるわけないだろ」
冷静に峯村は言った。
「何でそんな落ち着いてるの? 俺は悔しいよ。あいつ、峯村さんを苛めた奴なんだよ!」
「う、ん……」
当の本人が冷静では、北川も黙るしかない。
「いったい苛めって何されたの? えぐい?」
「それなりに」
「俺はサッカー部で上下関係厳しくて、先輩から理不尽にしごかれることもあったけど、そういうのとは違ってただの同級生だったわけでしょ? 下に見られる理由ないよね。わけわかんない。陰湿だよ。中学生だからって許されるわけじゃないと思う」
「はは、お前のそういう真っ直ぐなとこ羨ましいな」
「だって、だって」
北川のほうが泣き出しそうな表情をしていた。峯村のほうはそんな単純なことではない。悔しいとか復讐したいとかの負の感情は芸人を目指す時に箱に入れて捨てたはずだった。その一番奥にしまったはずのものが、突然目の前に現れたのだ。
昔と全く変わっていないように見えた。彼は、自信に溢れていて、堂々としている。同級生でも対等になれない場合もあるのだ。
正直、北川はあっち側の人間だと峯村は思った。その力を使うか使わないかの違いだ。
十年前も彼の前で峯村は無力だった。
家から近いところにある市立中学は、閉塞感に満ちていた。きっかけはたしか、誰かがふざけ半分でわざと机を引っくり返されたことだった。大きな音にびっくりして床にしゃがみこんでしまい、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらぶちまけられた教科書やノートを片付けていた。それがいけなかった。
悪ふざけはエスカレートして、姑息にダメージの大きい嫌がらせをされた。男同士の関係はさっぱりしているなんてまったくの嘘だ。女子からは同情され、たまに助けてもらった。それが余計火に油を注いだ。
飯田はいつでもクラスの中心にいるような性格だったので、末端の生徒苛めにいつも関わっているわけじゃなかったが、時々その輪に加わって笑うことがあった。それが苛めっ子たちを勇気づけた。
水をかけられて蹴飛ばされて転がされた峯村を見て、彼が言ったのをよく覚えている。
「峯村のその顔おもしれぇな」
飯田はニヤニヤしながら見ていた。
「俺ももっと見たい」
彼の発言によって、苛めを誘発するのは自分の容姿や態度なのだと思い知らされて、峯村は絶望の底に突き落とされた気がした。その翌日から、朝制服を着て家を出ようと思っても、足が震えて歩けなくなった。吐き気がしてトイレに篭った。
今になってみれば、何一つ自分のせいじゃないとわかる。歪んだ集団生活に必要な生贄の役回りを引いてしまっただけだ。でも当時は本当に自分の問題だと思い込んでいて苦しかった。
親は無理に行けとは言わなかったので、家にいる限り平穏な生活だった。以前北川に指摘されたとおり確かに経済的に余裕のある家庭だった。母親が近所の女子大生に頼んで家庭教師をしてもらったので勉強も出来た。
高校は少し離れた私立の男子高に入れたので、新しい環境だった。ところが、ひとりだけ知った顔がいた。それが飯田だった。
けれども彼は峯村の過去に触れなかった。おかげでまともな学校生活を送れた。偏差値の高い男子校というのは驚くほど平和で、変わり者も多かった。峯村も休み癖と女装癖のある生徒として自然に受け入れられていた。
あの日までは……。
「峯村さん、大丈夫?」
北川の声で我に返った。記憶の波に飲まれるところだった。
「あ、大丈夫。なんだっけ、……三分ネタ、作らなきゃ」
「そうだね。アリネタ改変する?」
「どれ? コンビニ? だったら出だしの細かいとこ端折って。ちょっと待って、ノート出すから」
鞄からネタを整理しているノートを取り出して、いつも通り仕事の話を続けた。北川は普通に喋りながら、時々ちらちらと峯村の様子を気遣っていた。
心配しなくとも二度と飯田と会うことはないだろう。今日のことは単なる偶然。大丈夫。
体に悪そうな色のメロンソーダをちびちび飲みながら峯村は、自分のことのように怒ってくれる北川に心の中でこっそり感謝した。
そんなことがあったせいか、その日から峯村は落ち込む出来事が続いた。
客が一桁しか入らないライブくらいではへこまないが、既に収録済みのTV番組の出演部分がお蔵入りになってしまったのは地味にショックを受けた。
また、別のTV番組のオーディションに呼ばれ、プロデューサーやらディレクターやらの前でギャグや特技を披露するも思い切りすべった。
続けて、前説が悪いと、ひと癖ある先輩芸人に楽屋で叱られた。特に虫の居所が悪かったようで、大勢のいる前でコンビ揃って、面白くない奴はさっさと辞めろと言われた。その場にいた他の先輩芸人たちが間に入ってくれたのでなんとかその場はおさまったが、今度からあの先輩がいる時はできるだけ隠れるしかなさそうだった。
さらに、携帯電話を電車の中に落としてしまい、仕方なく新しい機種を買った。失ったメモリーはまだ全て戻しきれていない。
自分が不甲斐なくてうんざりした。芸人とはいえ人間なので、どうしてもやる気が出ない時がある。
夕方から始まるMCを努めるライブのため、集合時間の二時よりも早く楽屋に入って、一人でぼうっとしていた。
「旅に出たい……」
思わずつぶやいたところへ、リュックを背負った北川が飛び込んできた。
「峯村さぁーん!」
「あ?」
「聞いてよ、俺のブログにひどいコメントばっかり書き込まれるの!」
「騒ぐほどのことじゃないだろ」
苛立って峯村は一蹴した。
「騒ぐよー。わざわざ気持ち悪いとか消えてとか書き込む人ってなんなんだろう。欲求不満なのかなぁ」
「俺が知るわけないだろ。本人に聞け」
「聞きたいよ! でもメールアドレスもないしさ、どうせ本名じゃないんでしょ、ずるいよねぇこういうの。俺直接話し合いたいよ。俺のどこが気持ち悪いの? 何で消えてほしいの?って」
「わかったわかった。落ち着け」
仕方なく峯村は慰める。峯村同様、彼もここのところの試練に参っているのだろう。項垂れて峯村の隣に座り込んだ。
「もー……、つらい、ね。芸人やってるのも」
「……うん」
素直に峯村は肯く。二人で床を見つめた。
沈黙を破ったのは北川のほうだった。
「あれ。もしかして峯村さん、やめたいなんて考えちゃってたりして」
峯村は即座に否定する。
「ねーよ。お前こそ」
「俺もないって。良かったぁ」
彼は一抹の不安を笑い飛ばしたものの、両手で髪を掻きむしった。
「うわぁぁぁ、早く売れたいよぉぉ」
「うん」
「お金持ちになりたいよぉぉぉ」
「うん」
「…………」
ひと仕切り叫んですっきりしたらしい。ため息をつき、うつろな目で天井を見上げた。
「峯村さぁん。がんばろうねぇ」
「がんばってるよ、俺ら」
峯村は心から答えた。毎日不安と戦って、毎日他人と立ち向かっている。普通の会社員とは違う種類の苦しみ。もしこの職業が本当に気楽だとしたら、こんなに辞めて行く仲間はいないだろう。養成所の同期は殆どみんな辞めてしまった。
まるで、チキンレースのような人生だと思う。あと少し、あと少しだけ前に進めば売れるかもしれない。けれど崖から真っ逆さまに落ちることを考えたら足ががくがく震える。もうやめたほうがいいんじゃないか、これ以上は無理なんじゃないかと、みんなリタイアしてしまうのだ。
峯村に特別度胸があるわけじゃない。何でこんなことやらなきゃならないんだという仕事ばかりで、子供からも見下される。それでも続けているのは、人を笑わせている間は楽しくて仕方がないからだ。
苛められて引きこもっていた自分が、人の感情を引き出すこと。ファンから届く手紙は、どれだけ日々の励みになるか、救われるかを一生懸命伝えてくれる。そんな偉そうなことをしているつもりはないけれど、喜んでくれるのが嬉しい。人に必要とされるのが嬉しい。
想いは同じなのか、近頃残っている同期の連帯感を感じるようになった。特にプライベートで一緒にいることの多い芸人同士でユニットコントライブをしたいという企画を事務所に提案した。同調してくれた作家もいたおかげで、企画はすんなり通った。
メンバーは阿川神藤と、兄弟漫才コンビのパンプキン、物真似が得意なピン芸人の片平行成、そして彼らティースプーンだった。
もちろん他の仕事もがんばっていたが、そのライブには思い入れがあった。8本のコントとブリッジのVTR。お互いスケジュールがバラバラなので、隙間を縫って打ち合わせと稽古をした。嬉しいことにチケットの売れ行きは好調で、チケットを直接捌く心配はしなくて良さそうだった。
「それってさー、俺ら五組の中で誰目当てに売れてんだろね」
稽古の終りに神藤が下衆なことを言い出す。
「何それ。自分たちって言いたいんかよ」
片平が言った。神藤はソロでライブをやってもチケットが売れる。どうしてそこまで人気があるのかわからないがとにかく人気だ。
たまにルックスが良い奴は人気があると思い込んでいる後輩芸人もいるが、そんな甘いわけがない。モデルみたいな容姿をしていたって人気の無い奴がいる。逆に、容姿は並かそれ以下でも以上に女性ファンが多い神藤のような奴がいるのだ。
神藤はへらへら笑う。
「そんな滅相もない。ウチらなんて全然人気ないっすから」
「やらしー言い方すんな」
相方が諌める。
「普通に相乗効果ってヤツだろ。まとめ売りのお得感があるんだろ」
「お得感って、スーパーの特売みてーに言うなよなぁ」
気心の知れた奴らと時間を過ごすのは楽しい。学生の時に文化祭などの行事を楽しめなかった分、今になって埋め合わせしているようなものだ。
騒いでいる横で、丸々と太った片平がトドのように転がった。
「あー眠い。家まで帰るのめんどくせー。ここに泊まっちゃおうかなぁ」
パンプキンの弟の方、秋久が言う。すると既に帰り支度を終えた兄の春雄が提案した。
「俺んち方面のやつ、俺がバイク乗せてってやるよ。もちろん一人だけな」
「えっ、そこは弟を優遇しないの?」
「しねーよ、ほら、じゃーんけーん」
ジャンケン大会が始まったのを尻目に、峯村は一足先に稽古場を出た。
「お先」
その後を阿川がついてきた。
「ちょっと待てよ。俺も一緒に帰る」
「あー? オレ金ないから歩いて帰るんだぞ」
「いいよ」
阿川と峯村は最寄り駅が隣だった。何度も近所の商店街で遭遇したことがある。彼はつきあっている彼女と同棲している。彼女はかなり稼ぎのあるキャバクラ嬢だそうだ。
「最近、ごはん作ってあげられないから彼女怒っちゃってさぁ」
彼は尽くすタイプようで、嬉しそうに惚気話をする。峯村は適当に聞き流しながら歩いていた。
深夜に都心を歩くのはけっこう面白い。違う世界に迷い込んだような感覚に陥る。一人でいる時は空想が広がるが、こうして誰かと歩いているいる時は、つい深い話に発展してしまったりもする。
「そういえばさぁ」
阿川は話題を変えた。
「神藤のやつ、今日の朝一番最初のライブ遅刻したんだよ」
「えー、またかよ」
「師匠クラスもいるのにさー、しんどかったよ」
「相方が気まずいよな、そういう時。あいつ寝てたの?」
「そう。電話出てても出なくて。結局四十分遅れで来たんだけど、なんで電話出ないんだよって聞いたらどうせ電話したって遅れるのは変わんないんだから、その分早く着いた方がいいだろって開き直ってんの。むかつくわ」
「うわ、目に浮かぶ。素直じゃないんだよな」
「その点お前らは問題ないよな。きっちりしてるし」
「そのかわり、確認メールがじゃんじゃん来る。どんだけ自信ないんだよってくらい」
「まじで。それもうっとおしいな」
阿川は爆笑した。
「とにかくほんと、神藤むかつく。一度天罰下ったほうがいい」。
それから二人で神藤の悪口を言いながら歩き続けた。笑い声が住宅街に響いた。
「じゃあな」
「お疲れ」
駅前で別れ、峯村は一人になってから、
「がんばろ」
と、自分に言い聞かせるように呟いた。
当日は大きなアクシデントもなく、あっという間に終わってしまった。楽しみなことほどあっけない。しかし本番よりもっと楽しみなことは、打ち上げだった。会場近くの居酒屋に皆揃って雪崩込んだ。
「神ちゃん、こっちグラスちょうだい」
「ほい」
「春ちゃん、乾杯の音頭やれよ」
「俺? いいの?」
「ライブの発起人じゃん」
「そか。では、一部滑りましたが、満員御礼で成功といえるでしょう! お疲れ様でした。かんぱーい!」
「かんぱーい!」
みんなでグラスを合わせた後、神藤が言う。
「なにお前真面目に言ったんだよ。ボケろ」
「真面目に言ったら悪いか」
「げ、開き直った。おもしろくねー!」
くだらないことを隙間なく言い合って止まらない。
「これで深夜稽古がなくなるから、彼女に怒られないで済むんじゃない?」
何気なくした話題に、阿川は暗い表情を浮かべた。
「それが、実はさぁ、俺彼女と別れるかもしんねー」
「えぇっ?」
峯村は驚いた。数日前はあれだけ仲良さそうだったのにどういうことだろう。
「喧嘩したの?」
「うん、というか同じ喧嘩を何度もしてて、もうだめかなって感じ」
「へー、どんなことで?」
「……神藤のこと」
「へっ?」
「しっ!」
違うテーブルで騒いでいる本人に聞かれないよう、阿川は声のトーンを落とした。
「ごめん。なんで神藤のことで喧嘩すんの?」
「それが、彼女がヤキモチ焼くんだよ」
「神藤に? なんで? だってお前らプライベートは一緒にいないじゃん」
「そうなんだけど……俺がつい話題に出しちゃうんだよ」
「なにそれ。話さなきゃいいじゃん」
「そんなの意識してるわけじゃないからわかんねーよ。出来ない」
「えぇえ!」
峯村は本気で驚いた。一緒に遊ぶわけでもなく、悪口もたくさん言っているのに、彼女に神藤のことを喋るなんて信じられない。
「まさかそんなつまらねーことで別れちゃうのか?」
「まだわかんないよ」
阿川は口を尖らせて言い返す。峯村はちらっと神藤の横顔を盗み見ながらたずねる。
「それ、神藤に言った?」
「言う訳ないだろ」
「だよな」
「お前も言うなよ」
「う、うん」
峯村は慌てて肯く。話したことを後悔しているのか、阿川は一人で照れて枝豆を次々食べていた。
「わかんないもんだなぁ」
峯村は呟いた。
「何真面目な話してんの?」
片平が二人の間に割って入ってきた。
「ほら、飲め飲め」
「俺酒飲めないってば」
そう断りつつ、気分が良くて、峯村はいつのまにか大分飲みすぎてしまった。寒気がすると思ったころには、頭が支えられないほど痛くて立てなくなった。
おそらく根本的にアルコールが合わない体質なのだ。たまにそれを忘れて飲みすぎてしまうとこうなる。
「大丈夫か?」
阿川は峯村の顔色に驚いて確かめた。
「うーん……」
「俺らこれから広田のバイト先行って飲むけどどうする? 帰るっつってもお前んち遠いからタクシーじゃ金かかるよな」
「俺んち連れてくよ」
北川が言った。
「こっからなら近い」
「なんだ、北川も帰っちゃうの?」
「だって峯村さんこんなんだもん」
「えらいな、相方の責任取って」
「いつもは逆なんだから、たまには相方孝行しないとなー」
口々にからかわれる。
「うるさいなー。いくら置いてけばいい? さんごー? じゃあふたり分で七千ね、ちょうどあるよ。じゃね、バイバイ」
峯村の腕を引っ張って、北川は店を出た。ふらふらしている峯村を何度も振り返りつつ、空車を捕まえた。峯村が意識を失っている間に北川のアパートに着いた。
「峯村さん、着いたよ。捕まって」
「んー」
抱えられるようにして、部屋の中に運び込まれた。床に積まれた服や小物の類で溢れている。洗剤の良い匂いがして、峯村は床に転がって鼻をひくひく動かしていた。
「そのまま寝るの? シャワーは? ……無理か。はい毛布」
毛布を与えると、峯村は手足を縮めてくるまった。
北川はシャワーを浴びに行く。髪を乾かして寝間着代わりのTシャツを着て戻ると、峯村は同じ姿勢で眠っていた。しばらく立ったまま相方のあどけない寝顔を見下ろしていた。それから傍らにしゃがみこんで頬を叩く。何度か続けるうちに峯村はぴくっと反応した。
「んん? きた、がわ?」
薄く目を開ける。
「俺だよ」
「ここ、どこ」
「俺んち」
「あ、おれ、かえれなくなったのか」
「そうだよ。大丈夫?」
「うん……。あー久しぶりにこんな飲んだ」
「峯村さんさぁ」
「ん?」
「昔、秘密なんかないって言ってたけどさ、嘘ついたでしょ」
「?」
「俺、こないだの飯田ってやつのこと思い出してムカムカするんだよね」
峯村は、酔っているせいか、北川が何を言っているのか理解できなかった。
「あの飯田って奴に、何されたの?」