「メフィストフェレス」
状況は、恐らく悪化した。いや、明らかにだ。
ニーズヘッグとフレズベルグ。この大悪魔2体が出てきたところでネアは怖気づいたりなどしない。むしろ、怒りが殺意に変わるほど、その憤怒を逆なでしてしまっている。
そもそも、2体もネアがこれでおとなしくなるとなど思っていない。この半魔はその程度で止まる輩ではない。最悪なことに、大悪魔に挑めるほどの力量も持ち合わせている。厄介な存在であることは確かだ。
「……どうすんよフレズベルグ。再会は喜びたいが、あの電気女のせいでできもしねー」
「なんのために出てきたんだ愚か者。それよりも早くアレを回収したい。……これ以上関わらせるのはこちらにとっても面倒だ」
メフィストフェレス。その名を聞くだけでニーズヘッグたちは嫌な思い出を蘇らせてしまう。いい思い出など一つもなかった。明確な嫌悪から、その大悪魔の名は存在諸共抹消したくある。それをネアが持っているのだ。そして渡さないときている。
「おとなしく渡さねーとマジで焼くぞ電気女。あとウチの主あんまいじめないでくださいー。俺が最後に愚痴菊はめになんだからなっ!」
「知らないわよクソ蛇! あと悪いけど、簡単に渡せれないのよねー。だって私、――メフィ様ともう契約しちゃってるし!」
勝ち誇った顔でネアがとんでもないことを言い放った。
「……なっ。異端者。貴様いったい何をその悪魔に願った」
驚愕の事実に、言葉を詰まらせてしまう。
いや、なんとなくわかってはいたことだ。ネアはこの街を造るためにメフィストフェレスに協力してもらっている。それはすなわち、直にメフィストフェレスと会っているとうこと。魔武器の中にいる悪魔と対話できるのは、契約時か契約後。そして、ネアだけでなくカーナやアキネも悪魔と会っていた話もある。ネアが契約をしてしまっているなど、確実なものでしかなかった。
しかし、それでも、それはあってほしくないという気持ちが一同にはあったのだ。
半魔であるネアが、悪魔と契約し更に力を付けるなど……。クロトたちだけでなく、ニーズヘッグたちにとっても寒気を帯びるものだ。
フレズベルグの問いに、ネアは少し照れくさそうな顔で答えだす。
「え~、そんなに聞きたいわけ~? 私とメフィ様の~、すーっごいロマンチックな出会い~」
嬉恥ずかしと髪を指でいじりだす。可愛らしさもない。あるのは不快感漂うものだ。
2体は黙って、その経緯を耐えながら聞く。
「あれは、しばらく前の……。そう、月が綺麗だった日の夜ね」
ネアの回想。彼女がメフィストフェレスと出会ったのは、とある日の夜の事だった。
丁度里に戻るところ、川で流れてきた麻袋を拾う。最初はゴミかと思っていたが、中身は見覚えのある大きな鋏が入っていた。直に、ゆっくりと眺めるその鋏は、そんじょそこらの武器にはない魅力があった。
鏡のように研ぎ澄まされた鋭利な刃。幾多もの血を浴びてきたとはとても思えない。まだ何も殺さず、まだその姿が何のために使われるかも知らない、正に無垢なままの状態だ。そこには美しささえあった。
だが、ネアはこの武器がどういうもので、どうしてきたモノなのかを知っている。だからこそ、その穢れない様に戸惑うがあった。
その空白に忍び寄ってきたのは、誘う声だった。
『そこのお主』
声をかけられ、ネアはハッとして硬直する。
『其方の【願い】はなんぞや? 妾に教えておくれ』
ゆっくりと、なまめかしい言葉の羅列。自分に纏わりつく声には危機感すら覚えるものがあった。
……が、同時に声が女性である事からか、若干の警戒心が解けてしまう。
「…………【願い】?」
『うむ。妾は今、何者かの【願い】を聞きたいのだ。そうでなくては、困るところがあってのぉ……。妾の頼みと思って、其方の【願い】を教えておくれ。【願い】とは欲。すなわち、妾はお主の欲が知りたい』
「……私の……欲」
これ以上はダメだ。【願い】を言う事はこの魔武器の悪魔と契約を意味している。甘い誘惑に惑わされるな。そういうものにはひっかかぬ様に生きてきたネア。それが今すぐ目の前にある。いざ自分が目の当たりにしてしまえば、これほどまでに抗えないものなのかと苦悩が纏わりつく。
騙されるな。堪えろ。これは自分も知る魔女の作り出した魔武器。それと同等のものと契約してきた者たちをよく知っている。
ならば……ならば……っ。
――あ。なんとかなるかも……。
と。頭の中が途端に吹っ切れてしまった。
例をあげた人物が特に難なく過ごせているのだ。なら自分も大丈夫だと、ネアはこの甘い誘惑の波に乗る事とした。
そうと決まれば、何を願おうかと悩みだす。
今一番に求めているもの。…………それは。
「……なんでもいいの?」
『うむ。この様な姿ではあるが、それなりの【願い】は叶えられるはず』
「うん。……じゃあ、――【お金】」
ネアは、淡とそう【願い】を告げる。
直後、やたら【願い】を聞いてきた悪魔は言葉を失い、しばし沈黙してしまう。
『…………ふむ。金とな? また古典的なものが出てきたものだ。なんというか、つまらぬ【願い】よのぉ。他には何もないのか? 永遠の命や、巨万の富も夢ではあるまいというのに』
少々白けた様子で、悪魔がガッカリとしている。考え直す様に諭すも、ネアは何度でも同じことを言う。
「それでいいの。私に今一番必要なのは、それだけで十分だから」
『んん?』
「私ね、受け入れてくれた皆のためにお金を稼いでるの。皆が安心して暮らせる場所を造るために」
『ならば、その場所を【願い】で造ればよかろうに……』
「それはちょっと違うかしら。私が貴方にお願いするのはあくまで場所を造るための資金だけなの。だって、そうでしょ? 全部全部任せて、ただ譲ってもらうだけでできた楽園に、なんの価値があるの? お金があれば、皆で相談して皆で造り上げていって……、そうしてみんなで造った楽園こそが、私の求める場所なの。楽だけの楽園なんて、すぐ崩れちゃうから……。これは私だけじゃない。皆のためなの。私の大好きな皆のための、最高の楽園なんだから。……ね?」
…………。
『……ふっ。アハハッ。なるほど、それがお主の欲か……。欲とは、多くがモノを欲するものなのだがのぉ。人、金、酒、命すらのぉ。お主が欲するのはただ一つ、他者の安寧。真っ直ぐ見据えた様な、純粋な獣の目の様……。気に入ったぞ、我が主よ。お主の【願い】と欲……、この【強欲獣のメフィストフェレス】が叶えてやろうではないか』
……と。ネアは当時の事を美化しつつ語り終えた。
それは当時の会話すら覆すようなメフィストフェレスを持ち上げ崇拝するかの如く。
「で! メフィ様は私の【願い】を叶えてくださったわけよ! おかげで私はこの楽園を築き上げることができた! メフィ様に感謝以外何をすればいいというのよ!」
これでもかと瞳を輝かせるネア。
聞き終えたニーズヘッグとフレズベルグなど、ネアの感動が耳障りな言葉でしかなく。ほいほいと大悪魔と契約してしまったネアに、呆れ、哀れみ、蔑みたくもなる。
「……え~、マジかよこの電気女。なんつーか、なぁ?」
「言いたい事はわかるぞニーズヘッグ。私もおそらくお前と同じ意見だ」
すー……。
2体は一区切りとして静かに空気を吸い込み、一緒になって心酔しきったネアをビシッと指差し、こう言い放つ。
「「――くっだらねぇ【願い】すんなよッ!!」」
突然の切り捨てに、ネアは目を丸くさせるが、悪魔2体の追い打ちが飛ぶ。
「お前そんなんでそいつと契約したのかよ!? こっちの迷惑とか考えろよ電気女!!」
「まさか魔女の魔武器に対して金銭を要求したとは……。ああ、頭が痛くなってきたではないか愚か者」
「だいたいその魔武器が眼鏡やらなんやらに狙われてるってことくらい知ってるだろうが!? なに簡単に契約して所有者になってんだよ!? アホかお前は!? アホだろ!!?」
「いやいやニーズヘッグ。あの異端者ならば他の契約者らに負けはしないとも思えて来はしないか? ……まあ、【願い】に関しては言うまでもなく愚行の極みだがな」
「あー、それもそうだなー……。って、言ってる場合か!? 今すぐその魔武器を渡しやがれ電気女!! 没収だ!!」
「我らの様な【願い】の受理はある意味貴重なのだぞ? それを無駄に使いおって愚かな異端者が。お前の【願い】はマジでありえんな、ドン引きだぞ」
怒鳴り騒ぐ大悪魔たち。
魔女の作った魔武器。その悪魔の叶える【願い】に限度があるかもわからないほど。そうだというのに、ネアが願ったのは【金銭】というものだ。もっと有効活用できる【願い】はなかったのか。その一心でニーズヘッグたちはネアの【願い】を侮辱してゆく。
呆気に取られていたネアは黙っていた後に、足元に紫電を走らせる。それは周囲にへと広がり、雷鳴を轟かせた。
「……くだらない? そんな事……?」
「……っ。い、いや、そうだろ。普通なら魂の契約みてーな事に、金なんか要求すんのはお門違いで――」
――バチィン!!!!
ネアは地を踏み鳴らす。その度に雷が地を焼き威圧を放ってくる。
「私のこの【願い】が……くだらないですって? 私はねー、アンタたちみたいにお気楽じゃないのよっ。私は皆のためにねぇ、一生懸命なのよッ!!!」
……地雷を踏んだ。
正当な発言と今でも思っているが、明らかにネアの地雷をニーズヘッグたちは踏んでしまっている。
元々戦うつもりではいたが、今のネアならいつぞやの【魔力解放】をし圧倒的な神速と強さを出す事だろう。それを相手にするのは骨が折れるが、現状大悪魔が2体相手する事となる。半魔相手にこれは大人気ないかもしれないが、今はそんな事を言っている場合でもない。
「おうおう、やんのか電気女!! かかってこいやー!!」
「こちらも貴様に不満が一切ないと思っているのか?」
「こんの~っ、クソ野郎どもがぁああ!!」
激情したネア。挑発に乗ろうと前へ出だした。……が。
『我が主よ。少々妾と代わってはくれぬかのぉ? そこの悪魔どもとは昔縁があってのぉ。久しぶりの再会で、話がしたいのだ』
「――はいメフィ様ぁ♪ 喜んで♪」
と。一瞬にして怒りの炎は鎮火。感情の切り替えまでもが早すぎる。
ネアは空を摘まみ、腕を勢いよく振り払った。動きに合わせ、煌びやかな布地がネアの手に現れ、流れのままに彼女の身を包み込み隠す。はらりはらりと、緩やかに舞う衣が地にふわりと降り立てば、そこにネアの姿はない。あるのは、一風変わった異国に存在する着物を纏う女性の姿があった。
漆黒の長髪を簪でまとめ、同色の獣の耳に尻尾。額には二本の角を生やす大悪魔。加えていた煙管をひと吹きし、黄昏色の目がニーズヘッグたちを捉える。
「久しぶりよのぉ、ニーズヘッグ。そしてフレズベルグ。お主らにまた会えて、妾は嬉しいぞ。その皮衣と翼をもう一度拝めたことに、我が主には感謝せねばなぁ」
ついに世に姿を現した、魔武器に封じ込められていた大悪魔の1体――【強欲獣のメフィストフェレス】。
彼女は煙管を回しながら外の空気を堪能しつつ、妖艶な笑みを向けてくる。着崩れした着物から露出する肌はまるで周囲を誘惑する様にも思える。なまめかしい口の動きがそれを相まって際立たせてもいた。
……が。獣が姿を現すなり、ニーズヘッグとフレズベルグは顔色を蒼白とさせてしかめっ面だ。
「マジかよー、出てきやがったよコイツ……」
「奴に指名されるように出てこられると気分が悪くなる……」
「ほほっ。相変わらず仲の良い男どもよのぉ~。……そして、相も変わらず良いものも持っておる」
ニーズヘッグの炎蛇の皮衣。フレズベルグの七色を宿した翼。それらを見るなり、メフィストフェレスは物欲しそうと遠くから手を差し出し撫でる素振りを繰り返す。
「その皮衣。翼。間を開けた分ますます欲しくなるのぉ。再会の記念に、お主らの宝を妾に献上するがよい」
「「――まだ諦めてなかったのか、このクソ獣女が!!」」
両者とも、取られてたまるかと己の宝を庇う。
「いい加減にしろよ! 俺の相棒は非売品なんだよ! テメーの命なんか塵程度な差があんだよ!!」
「私の翼も同様だ。寝言は寝てから言うものだぞ愚か者め!」
「そう拒むでない。拒めば拒むほど、それは何物にも代えがたい宝。ならば、その唯一無二の宝を欲するのは、この強欲獣たる妾の生き様。それこそが、妾の根源たる欲なのでな」
「コイツマジで頭ん中一切変わってねーぞ! そのせいでどんだけ迷惑したか」
「主らが魅力的なモノを持ち歩いているのが悪い。……それにしても、フレズベルグ。妾が外に出ぬよう魔武器を海に沈めるなり埋めようと考慮していたとは、妾は悲しいぞ? 本当に一生出れなくなったらどうするつもりなのだ?」
「……今でも後悔している。さっさと処分してしまえばよかったと」
「今からでも埋めちまおうぜフレズベルグっ。掘り起こされねーくらい地の底にな! なんら魔界でいい火山を紹介して止んぞ」
「やめろニーズヘッグ。魔武器のままなら早々焼却も腐敗も劣化もしないだろうし、こんな奴の魔力が周囲に影響及ぼしてみろ……。捨てる所に困ってるんだ」
フレズベルグが苦悩した様子で瞬時に遠い目をする。任せてはいたが、相当苦労して捨てる場所を探していたのだろう。
枷のゆるくなった今なら、確かに魔武器に宿る悪魔の魔力が周囲に影響を及ぼす事がある。特にこのメフィストフェレスは現状把握できている悪魔の中で最も面倒な部類だと、炎蛇たちも認識している。欲によって増すこの獣の魔力は何処までが限界か計り知れないからだ。
昔、2体はこの悪魔に遭遇し嫌な想いをした。遊ばれている様で、執念深くしつこい。それに加え、決して本気を出している様子がなかったこと。それはまるで、欲しいものを目の前に暇つぶしの時間を過ごすかの様。
「あーもういい! 前の事含めてぶっ飛ばしてやる! そんで負かして無理にでも言う事きかしてやらー!!」
炎蛇の皮衣に炎を纏わせ、ニーズヘッグは威嚇する。
メフィストフェレスは微笑し臆する事もないが……。
「面倒な汗はかかない主義でな。久方の挨拶もできたことだし、その件に関しては我が主に頼むとしよう」
獣は布を翻す。すぐさまネアに体を返して退散したのだ。
「お前は戦かわねーのかよ!!」
「……まあ、アイツは動かない奴だからな」
入れ替わったネアは、状況についてメフィストフェレスに問いかける。
すると、獣は甘ったるくねだる声で囁く。
『我が主よ。妾はあの皮衣と翼が欲しいのだ。頼まれてくれるかのぉ?』
悪魔だろうと人間だろうと、女性の頼みを断れるネアではない。
「まっかせて下さいメフィ様! すぐあの野郎どもぶっ飛ばすんで!!」
……と。大張り切りだ。
分割された大鋏を左右の手でそれぞれ持ち、それを双剣の様にして構えた。
「そういうわけだから。メフィ様のためにそれいただくわよ!」




