美麗な婚約者レオニル、その裏の顔
「レ、レオニル殿下……?」
瞳孔は開き鼻の穴は膨らみ、見目麗しい完璧王子の面影はどこか遠くへ消え去っている。ふぅふぅと肩で息をしながら、レオニルは完全に我を失っていた。
「ずっとずっと思っていたんだ。ふっくらした頬と柔らかそうな手、可愛らしい唇から紡がれる声はまるで小鳥の囀りで、永遠に聞いていたくなる。満開の花のような笑顔は、見ているだけでその場の人間を幸せにする。晴天の空に良く似た瞳は澄んでいて、もしも見つめられたら体が浄化して溶けてしまうのではと……」
「お、お待ちください殿下!」
止めなければ止まりそうにないので、リリアンナは慌てて彼の言葉を遮った。まさか自分とそっくりの人間がいるなど想像もしておらず、驚きと共に「私ってこんな風に見えていたのね」と、思わず己を顧みて反省した。
「お気持ちは痛いほどよく分かります」
「あ、ああ。ありがとう……」
「ですが、まずは深呼吸を。私の大切な弟妹が非常に困惑しておりますので」
リリアンナに指摘され始めて、ケイティベルの瞳が怯えたように揺れていることに気が付く。レオニルはその場に膝を突き、がっくりと肩を落として項垂れた。
「本当に申し訳ない。十近く歳が上の男に好意を持たれるなど、気味が悪い以外の何者でもないだろうに」
「あ、あの。私は別に……」
「望むなら、今すぐこの場で腹を斬ってケジメをつけても……」
「そ、それは結構です!」
瞳孔の開いた彼の視線が壁に掛かった剣に向いていたのに気付いたリリアンナが、慌てて止めに入る。どうやらレオニルは自分とまったく同じ人種であると、非常に信じ難い事実に戸惑いを隠せない。
こんなにも長い間婚約者として過ごしてきたのに、互いについて何も知らなかったのだと、改めてそう思う。リリアンナが命よりも弟妹を大切に思っていることも、レオニルがケイティベルを可愛いと思っていることも、本人以外は誰も気付かなかった。
どちらも鉄仮面の下に拗らせた愛情を隠している、少々危ない人物である。
「か、確認したいのですが」
リリアンナが神妙な面持ちで、ごくりと唾を飲んだ。
「殿下は、私の妹ケイティベルのことを、とても愛おしく感じているという解釈でまちがいないでしょうか?」
半ば無意識だが、彼女は「私の」という部分を強調した。それに気付かないレオニルは、滑らかできめ細やかな肌をたちまち紅く染める。
「い、いや……。私は……」
「申し訳ありませんが、さすがに言い訳は通用しないかと」
「……ああ、そうだな。こうなったら白状しよう」
降参するように溜息を吐いた彼は、美しい碧眼を伏せる。永遠に気持ちを伝える気などなかったのに、突然素直になったリリアンナを前にして思わず本音が漏れ出てしまったと、頭を抱えたくなる。
自分より随分年上で、しかも姉の婚約者。そんな男から好意を持たれても気持ち悪いだけで、ケイティベルを困らせてしまうのは火を見るより明らか。恥ずかしさからロクに言葉を交わしたこともなかったが、彼女が自分を怖がっていると分かっていたレオニルは、これでとうとう完全に嫌われてしまうのかと考えると、思わず瞳が潤んでしまうのだった。
「決して邪な感情ではないと理解してほしいが、それも無理な話だろう。リリアンナの婚約者としての務めを全うしたいという気持ちに嘘はないが、それは愛というより友情に近い」
「はい、理解しております」
むしろずっと嫌われていると思っていたリリアンナは、特段傷付くこともなく冷静に頷く。自分自身もレオニルに恋愛感情はなく、結婚を申し訳ないとすら感じていた。
「上手い表現が思いつかないのだが、ケイティベルを見ていると、可愛くてたまらないという感情が奥底から湧いてくるんだ。存在そのものが愛らしく、同じ時代に生きているというだけで神に感謝しているくらいだ」
「ええ、ええ。殿下のそのお気持ち大変よく分かります」
ほとんどリリアンナと同じ台詞を口にしているレオニルに対し、彼女は何度も何度も頷いた。まさか、こんなにも身近に同志がいたなんてと、喜びすら感じる。と同時に、やはりケイティベルの可愛さはとどまることを知らないと、胸を張りたい気分になった。
「不快にさせてしまい、本当に申し訳ない」
深々と陳謝するレオニルに、三人は恐縮することしか出来ない。彼が第二王子であるという事実もそうだが、何より誰も不快になどなっていないからだ。
リリアンナは喜んでいるし、ルシフォードは驚いているし、当のケイティベルはただただ困惑している。そして何より、二人が体験した『あの件』について辻褄が合ってしまったことが、何より信じられない。
――レオニルはリリアンナとの婚約を円満解消し、代わりにケイティベルと婚約を結び直した。
ずっと感じていた疑問が、ここに来て晴れた。リリアンナが婚約の解消を申し出たのは、外国への輿入れを嫌がるケイティベルの為。そんな彼女の気持ちに気付いていたかどうかまでは分からないが、少なくともレオニルに不利益はなかった。それどころか、心の中ではきっと狂喜乱舞したことだろう。まさかケイティベルと婚約出来る日が来るなんて、と。
「わ、私はなんて言えばいいのか分からない」
「ベルが戸惑うのも無理はないよ」
ルシフォードが、彼女の背中をぽんと叩く。姉が自分を好きだと知った時は嬉しかったけれど、その婚約者に好かれていたというのは正直に言って複雑だ。気持ちが悪いとは思わないが、ずっと怖いと感じていた相手を急に意識しろというのは無理な話である。
「君が望むなら、今すぐに目の前から消えても構わない」
「そ、それは止めてください!」
本当に実行しそうな勢いのレオニルを、ケイティベルが慌てて止める。それに不快感を示したリリアンナは、妹を庇うように抱き締めながら厳しい姿勢を彼に向けた。
「そういう言い方はこの子を傷付けてしまうので、控えてください」
「す、すまない。気を付けよう」
しゅんと眉を下げながら素直にこくこくと頷く様子は、普段の凛々しい姿とはまったく違う。どうやら嘘を吐いているわけではなさそうだと、リリアンナはほっと胸を撫で下ろした。二人が体験した通り婚約者が変わったとしても、今のレオニルなら妹を大切にしてくれるだろうと。
予想外の展開にはなったが、とりあえずこれで謎がひとつ解けた。と同時に、三人が死ぬという未来が現実味を増したのも事実。最初から弟妹を信じているリリアンナだが、これはいよいよ深刻な状況だと、人知れず眉宇を引き締める。何があっても絶対に二人を死なせたりしない、たとえ自身の命を投げ打ってでも。
「お姉様、これからどうするの?」
「殿下は悪い人じゃないみたいだけど……」
項垂れているレオニルを他所に、三人はひそひそと身を寄せ合い会議を行う。むにむにの頬に両サイドから挟まれ、リリアンナは鼻血を吹きそうになるのを必死に堪えた。
「そうね。黒幕ではなさそうだし、殿下は味方と考えていいのではないかしら。婚約者入れ替えの件についてついは一旦保留にして、帰ってからよく話し合いましょう」
彼女はきりりとした顔付きで、二人を安心させるようにはきはきと喋る。
「そうね、お姉様に任せておけば安心よね!」
「さすが、僕達の大好きなお姉様!」
「う……っ、だめ我慢出来ないわ……っ!」
必死に鼻を押さえていたリリアンナだがとうとう限界に達してしまったらしく、白目を剥いてふらりと倒れる。指の間からたらりと血が垂れ、ルシフォードとケイティベルは悲鳴を上げた。
その後レオニルが冷静な判断で医師を呼び事なきを得たが、彼が双子に心配される婚約者を至極羨ましげに見つめていたのは、きっとその場の誰も気付いていないだろう。
リリアンナとレオニルは恋愛関係に至らなかったが、同じ思考の持ち主だった。屋敷に戻ったぽっちゃり双子は目を見合わせながら、ほとんど同時に思った。
――みんなから愛されるのも、なかなか楽じゃないな。
と。
怒涛の急展開を迎えた次の日。自室にてきっちりと姿勢を正しているリリアンナは、目の前に座る愛する弟妹に改めて謝罪をした。姉でありながら白目に鼻血というあるまじき姿を晒してしまったことを、彼女は夢にうなされるほどに恥じている。
「そんな顔をしないで、お姉様」
「そうだよ、僕達何も気にしてないから」
日毎に愛らしさを更新していくルシフォードとケイティベルに、リリアンナはもう降参状態。ロイヤルブルーの瞳をうるうると揺らしながらこちらを見つめるその様子に、二人は顔を見合わせて苦笑いをする。以前の姉とは大違いだと思いながらも、今の方が断然好きだからなんの問題もない。
「本当?嫌いになったりしていないかしら……」
「まさか、そんなはずないよ!」
「私達、お姉様が大好きだから安心して!」
屈託のない微笑みはまるで干したての布団のように温かで柔らかく、リリアンナは思わずぽっと頬を染める。大好きだと言われたことでまた鼻血を吹きそうになってしまったが、同じ轍は踏むものかと気合いで止血した。
彼女は緩くカールしたアッシュブラウンの髪をふわりとかき上げ、いま一度背筋を正す。そして二人に向き直ると、現在の状況を整理しながら説明していった。
「最初から殿下を疑っていたわけではないけれど、昨日で彼が犯人である可能性は限りなく薄れたわ」
「あれだけケイティベルが好きなら、殺したりはしなさそうだしね」
「ちょ、ちょっと止めてよルーシー!」
いまだに困惑中のケイティベルは、姉の前で余計なことを言う弟をきっと睨みつける。リリアンナは気にしていないと分かっているが、それでも気不味い状況であるのは確かだ。
「となると次は、エドモンド殿下と話す必要がありそうね。なぜ婚約者の入れ替え話を了承したのか、なんの思惑があってのことなのか」
ちなみにレオニルには、大した思惑はなかった。ただケイティベルが大好きなだけの、少々残念な人という立ち位置。
「そんなの簡単よ!」
ケイティベルが立ち上がり、得意げな表情でぴんと人差し指を上に向ける。
「エドモンド殿下は、きっとお姉様に一目惚れしたんだわ!」
「ええ……っ?」
そんな風に考えていなかったリリアンナは、思わず頓狂な声を上げる。
「まさか、あり得ないわ」
「どうして?」
「だって、私なんかよりケイティベルの方がよっぽど可愛くて愛らしくて魅力的ですもの」
美しい顔をして何を言い出すのやら、謙遜ではなくこれが彼女の素である。弟妹至上主義のリリアンナは、鏡を見ても自分がじゃがいもくらいにしか見えない。
柔らかくふっくらした頬に、温かみを感じる手、思わず抱きついてしまいたくなるぽっちゃりボディは、魅力がたっぷりと詰まっている。
二人の姉としてこの世界に生きられるだけで、どんな仕打ちも耐えられる。たとえ両親に愛されずとも、悪役令嬢だと噂されようとも、リリアンナの心はこれ以上ないほどに満たされていた。
「お姉様はじゅうぶん素敵なんだから、そんな風に言っちゃだめ!」
「そうだよ!顔はほんのちょっと怖いかもしれないけど、本当はすごく優しい人だって分かってるから」
「ちょっとルーシー!貴方ってば一言余計よ!」
ぷりぷりと怒るケイティベルと、しまったという表情をするルシフォード。ちらりとリリアンナの顔色を伺うが、もちろん怒ってなどいない。
それどころかぽろぽろと涙を流して泣いているから、さすがに二人は驚いて目を見開いた。
「ご、ごめんなさいお姉様!」
「悲しまないで!」
おろおろと慌てふためいて、とっさに掌で姉の涙を拭おうとする。そんな姿を心底愛おしく感じながら、リリアンナはそっと双子を抱き締めた。
「違うの、これは嬉し涙よ。貴方達とこんな風に過ごせる日が来るなんて、思ってもいなかったから」
「お姉様……」
もっと早くに素直になればよかったと後悔してももう遅いが、これからはその分も含め全力で双子を守り抜こうと誓う。自分を曝け出すことに怯え仮面を被っていた彼女は、愛する者の為に躊躇なくそれを脱ぎ捨てた。
「次はエドモンド殿下に会いましょう。彼がどんな人物かを、しっかりと見極めなければならないわ」
リリアンナの言葉に、二人は大きく頷く。最初は自分達が死ぬ運命を変えたいという気持ちが強かったが、今は三人で幸せになりたい。姉に勇気をもらい、なんでも出来る気がしていた。
「絶対に犯人を突き止めて、懲らしめてやるんだから!」
「まだまだみんなで、楽しいこともいっぱいしたいしね!」
空色の瞳をきらきらと輝かせるルシフォードとケイティベルを優しい眼差しで見つめながら、リリアンナは自身の目尻をそっと拭ったのだった。