4話 子供の名前は……
ドアを開けてくれた女性の名前はシスター・ハンナと言うそうだ。
彼女は私に見習い修道女の制服。シャンドリー卿には、下働きの男性が着るような服を渡した。
それから娘のために暖かいお湯が入ったタライを準備し、体を綺麗に洗ってくれた。とても手慣れていて、娘は気持ち良いのか、お湯の中で寝てしまった。
現在は手持ちの揺り篭に入って眠っている。
娘のお尻は赤くなっていた。
本来は清潔で肌触りの良いオムツを使用しなければならないのに、替えのオムツが無いため、私の寝間着を少しずつ裂いて代用する他なかった。
地面に倒れて土がついてしまっていても、排せつ物が付着した物よりはましと思ったが、娘の赤くなったお尻にやるせない気持ちになった。
「大丈夫よ。清潔な状態を保てば、赤ん坊のお尻はスベスベに戻るわ。そんなに落ち込まないで」
シスター・ハンナは何て事はないと笑っている。
「さっ、今度は貴方の傷の手当てね」
シスター・ハンナは慣れた手つきでシャンドリー卿の傷に薬を塗ったり、包帯を巻いていった。
足の手当てをしている最中、彼女の手が止まり、険しい顔をした。
「はぁ……。よく平気な顔をしてられたね」
「……見た目ほど痛みはないですから」
シャンドリー卿の左ふくらはぎを見ると、紫色に脹れており、明らかに右足より太くなっていた。
「折れてはいません。おそらく打撲だと思います」
シスター・ハンナと思わず顔を見合わせた。
「さすがに私では判断出来ないから、明日、どうにかしましょう。ただ、傷が熱を持つかもしれないから注意が必要ね」
左ふくらはぎに湿布と板を当て、一緒に包帯で巻いていく。
「これで良いでしょう。リリーシア様は子供たちがいる建物へ、シャンドリー様は教会の二階へ案内するわ」
「子供たち?」
「えぇ。教会の隣に孤児院があるの。みんな良い子だし、お嬢ちゃんと年の近い子もいるわ。そういえば、お嬢ちゃんの名前は?」
シスター・ハンナに娘の名前を聞かれ、私は視線を合わせられなかった。
胸が……ずきずきする。
「まだ……ありません」
本当……バカよね。
子供の名前はエドワードに決めて欲しくて、まだ名付けていなかったなんて。
出産前に彼と名前について話した事がある。
『名前は何が良いかしら?』
『あぁ……。産まれたときの顔を見て決めたらどうかな?』
『それは良いわね。フフッ、名前って、親が初めて子供に贈るプレゼントでしょ?私ね、エドから贈って欲しいと思っているの!』
『あぁ、わかったよ。考えておくね』
『ありがとう!あっ、蹴ったわ!この子も楽しみにしているって言ってるみたい』
彼と庭園で穏やかなティータイムを過ごしていたのに、こんなことになるなんて……夢にも思わなかったわ。
本当、馬鹿よね。
「そう……。何か考えていた名前はあるの?」
「……」
子供の名付けの本を読んだり、可愛い名前や、響きが素敵な名前など、あれこれ考えはした。でも、エドワードが決めてくれると深くは考えていなかった。
パッと思い付く名前なんてない……。
「……リリーシアって名前は、誰が名付けたか聞いたことはある?」
「亡くなった母が付けたと聞いています。ユリの花が好きで、私に清楚で上品な、周りにいる人を惹き付ける凛とした女性に育って欲しいと言っていたそうです」
「素敵なお母様ね」
「ありがとうございます……」
母は私が8歳の時に亡くなった。
心臓病だと聞いている。
母がベッドで優しく微笑んでいた姿を覚えている。ときどき絵本を読んでももらった。
もう……声は思い出せないが、大好きだった。
「貴女はお嬢ちゃんに、どんな子になって欲しい?どんな人生を送って欲しい?」
どんな子になって欲しいか……。
すぐには思い付かない。
ただ――。
「……笑っていて欲しい……。幸せであって欲しい。あっ……愛する人と笑って、手を取り合って、愛し愛され……穏やかに歳を重ねて……」
言っていて……涙が溢れた。
私が思いついた幸せは……エドワードと手を取り合って、娘と笑い合い、穏やかに……生きていたかったという幻影だった。
「リリーシア様……」
シスター・ハンナに手を握られた。
その手はとても温かかった。
「神は、私たち一人一人を愛しています。その意味がわかりますか?人は誰でも、幸せになれるのです。今は辛く、苦しく、涙を流してしまうでしょう。良いのです。たくさん泣いて、たくさん嘆いて、立ち止まって涙を流して良いのです。大事なのは、その後どう行動するか。自分と向き合い、自分の幸せを見つめ直し、自らを幸せにしていきましょう。幸せはひとつじゃない。貴女が努力し続ければ、今は思い付かないような幸せが見つかるわ」
シスター・ハンナの声はまるで魔法のように、私の心を温かくしてくれた。
エドワードと分かち合うはずだった幸せが全てではない。違う幸せがある。それを見つけるために努力すれば、必ず幸せになれる。
今は見つけられなくても……必ず……。
「はい……。はいっ……」
私はシスター・ハンナの手を握り返した。
頑張りますと、言葉の代わりに。
◇◇◇
あの後、シスター・ハンナに抱き締められ、まるで子供のように泣いてしまった。
恥ずかしい……。
落ち着いた頃、夕飯の残り物だけどと言いながらスープとパンをもらった。屋敷を追い出されたのはお昼前だったから、朝食後は何も食べてなかった。
空腹は感じていなかったが、食べ物を口にするとスープを掬う手を止められなかった。一気に食べてしまったわ。
子供の名前は、もう少し落ち着いてから決めることになった。
孤児院に案内されると個室に通された。
シングルベッドと簡易的な机が置いてある狭い部屋だ。伯爵家で使用していた衣装部屋より小さいだろう。
「大丈夫?」
「問題ありません」
高位の貴族令嬢は、こういう狭い部屋に嫌悪感を感じるだろうが、私はそういったことを気にしないので問題ない。
「シーツは清潔な物だから安心して」
「ありがとうございます」
「普段、朝食は朝6時だけど、明日は好きな時間に起きてきて構わないわ。疲れているでしょ?今はゆっくり休むことが大切よ。母親の元気がないと赤ちゃんも元気に育たないからね」
シスター・ハンナは可愛くウインクした。
お父様よりも年上の女性なのに、無垢な少女を連想させる笑顔だ。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まると、彼女が遠ざかって行く足音に耳を澄ませている自分がいた。
シスター・ハンナが居なくなると、まるで明かりを失ったような喪失感、いや、単に不安が胸をざわつかせていた。
ダメね。
しっかりしなくちゃ……。
揺り篭の中で、気持ち良さそうに寝る娘を見た。自分の親指を舐めながら寝ている。
愛らしい。
ほっぺに触ると、柔らかくて、スベスベしていて、温かい。
触りすぎると起こしてしまうわね。
ごめんね。
この子には幸せになって欲しい。
笑っていて欲しい。
そのためには……強くならなきゃ。
この子には私しか居ない。
私が守らなきゃ……。
「弱いママでごめんね。強くなるわ。貴女と一緒なら、ママは……笑えるの」
微笑んだのに、私の頬は……何故か濡れていた。