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軍神と呼ばれた少年皇帝の戦後~戦うことだけを求められ続けた少年が、自らつかみとった戦争の後の世界で最愛を胸に抱くまで~

作者: 初春餅

 大人たちに促され、少年皇帝はアラウダ神殿の正門を潜った。


 よわい十二歳。褐色の髪は短く、手袋に覆われた指はやや長め。午後の柔らかな日差しが彼に降り注ぎ、白を基調とした儀礼用の軍服を清らかに照らした。


 敷地内に彼の一行が入ると、中で待っていた神官長が恭しくこうべを垂れる。神官長が先に立って歩き出し、一行も粛々と続いた。


 偉大なるアラウダは帝国の守護女神である。少年皇帝が本日、女神のもとを訪れたのは、隣国への総攻撃を前に、必勝を祈願する為だった。


 帝国の内紛に乗じ、ここぞとばかりに攻め入ってきた隣国は、一時、帝国の奥深くまで蹂躙した。押し返したのは少年皇帝の力である。彼には女神の加護があった。加護とは常人が持ちえぬ力全般を指し、彼に与えられた加護は、戦場にて真価を発揮する類のものだった。


 主聖殿への道すがら、少年皇帝は敷地内の森へ視線を向けた。


 ――どうされました。

 ――いや、何も。


 側近が小声で尋ねるくらいには長い時間だった。だが本人にも理由が分からない。神殿独特の雰囲気とでもいうのだろうか。何となく空気の流れが心地よい。特にあの森の辺りが。


 ――悪くない。


 少年皇帝は密やかに微笑んだ。


 主聖殿に到着すると、あらかじめ教えられていた文言通りに祈りを捧げる。本日最も重要な公務を滞りなく終わらせ、彼は神官長に尋ねた。


「あの森の辺りを散策してみてもよいか」

「ええ、どうぞ」


 予定にない行動だった。普段の彼らしくもない振る舞いに、側近たちがおやと眉を上げる。


「供を」

「一人でいい」


 五月蝿うるさいのがついてこようとするのを断り、彼は口で外した手袋と、次いで軍帽を無造作に投げた。側近たちが泡を食って受け止めようとしている間に当の本人はさっと行ってしまう。


 煙るような早春の午後、少年皇帝は軍人らしい軽快な足取りで、森の中へ吸い込まれていった。


 しばらく行くと、大樹の根元に納まるように座っている人影があった。少女だ。彼と同じ年頃の。神官たちと同じ、フード付きの質素なローブをまとっている。書見台よろしく根に大判の書物を預け、一心に読みふけっていた。髪の上半分を後ろで一つに結び、そこだけ見ればまるで快活な子犬の尾のようなのに、文字を追う眼差しはやけに大人びていて真剣だった。


 少女は随分と書物に集中していて、彼の近づく足音などまったく耳に入っていない。無防備なその横顔を呼吸も忘れて見つめていると、彼女の頭に木の実がぽとりと落ちた。


 ――気づかないのか。


 どれほど集中しているのかと呆れる皇帝の目の前で、木の実に続いてリスが落ちてくる。


「危ない!」


 咄嗟に彼女の体を覆い、リスを背で受けた。リスは小さな鳴き声を上げて地面に転がり、慌てたように逃げていく。手のひらで覆った頬は存外に柔らかく、驚いたように彼を見つめる瞳は、陽光降り注ぐ川面よりもきらめいていた。


「あ……ありがとう」


 どうしたことか、声まで心地よい。だが、その後がいけない。少女は生まれてこの方、誰とも争ったことがないような呑気さで、ほんわりと微笑んだのだ。


「わぁ、子供だ……? 可愛いね……?」


 ――お前だって子供のくせに。


 先程までの真剣な表情はどこかに消え失せ、まるで別人のようだった。


「どうしたの? 迷子? あ、そう言えば、今日は皇帝陛下がいらっしゃるって聞いた。君はもしかして、陛下のお付きの――」

「舐めるな。どこであろうと俺が来た道を戻れないなんてことはない」


 彼は屈辱に打ち震えながら迷子疑惑を否定した。


「そう。じゃあね」

「待て!」


 書物を抱え、あっさりと立ち上がる彼女を慌てて呼び止めると、彼女は眉を寄せてしかつめらしい顔を彼に向けた。


「困っているなら助けるけど、そうじゃないのなら、私は外の世界の人にあまり触れてはいけないの」


 ――巫女だ。


 神殿のことには疎い彼も、それくらいの知識はあった。この世界には、外の世界の人間がおいそれと穢してはならない存在がいる。


「……こ……困っている」

「……困ってるの?」

「俺はまだ、皆のところに戻りたくない。でも……一人でいたくない」


 自分でも何を言っているのか分からず、少年皇帝は頭を抱えそうになった。


「そう」


 巫女は木の根元に座り直し、隣をぽんぽんと叩いた。


「おいでよ」


 いいのか? 外の世界の俺と触れて――と、思わなくもなかったが、向こうがいいと言っているので大人しく従う。大樹の根元に二人ですっぽりと納まり、少年皇帝は尋ねた。


「何を読んでいた?」

「歴史書」


 彼女がページを広げ、二人で肩を寄せ合って覗き込む。紙面を流麗に彩る文字はところどころ赤や青や金で装飾されており、宝石のように美しい。


「アーギア大帝の頃だよ」

「帝国が最も栄えた時期だな」

「さすが。よく知っているね」


 皇帝のお付きの少年だとすっかり思い込んでいるようだった。この扱いが妙に気楽で、彼は正体を明かす気になれない。


「ここを見て」


 彼女がページの中ほどにある、アーギア大帝の挿絵を指した。偉大なる皇帝と、彼の肩に乗る小さな白い猿。アーギア大帝はこの猿とともに描かれることが多かった。数百年前の人物のこととて、今更知りようもないが、恐らく存命中に可愛がっていた猿なのだろう。大帝のような人物でさえ、ささやかな日常のことまではいちいち記録に残されていない。


「この猿はね、本当は人間で、大帝の側近だった人じゃないかと思うんだ」

「どうしてそう思う」

「大帝には有能な家臣がたくさんいた。でも、中には出自も名前も記録されていない人がいる。この人も」


 少女の細い指が紙の上の白い猿をなぞる。


「本当は大帝の大事な家臣だったけど、事情があって記録に残せなかった。多分だけど、帝国とはあまり仲が良くなかった、小さな国の出身の人。だからきっと当時は色々あったんだと思う。だけど、大帝は彼がいたことをどうにかして残しておきたくて、そうと分からない形で残した」

「何故そう思った」

「その小さな国は、白い猿を聖獣としていたんだよ」


 へぇ、と彼は目を瞬いた。書物をそんな風に読む人間と出くわしたのは初めてだ。


「お前は歴史書が好きなのか」

「うーん……? そうだね……臓物の解説書とか、文法の手引きよりは好きかなぁ……」


 緩い返事に少年は噴き出した。


「何だそれは。神殿の図書館にはどんな種類の書物もあると聞くが、そんなものまであるのか」

「何でもあるよ。一生かかっても読み切れない」

「へぇ……」

「皇帝陛下は好きに入っていいらしいから、君もお願いして来るといいよ。興味があるなら」

「そうだな。その時はお前に案内してもらおう」

「ふふ。いいよ。困っているなら助けてあげる」


 そうだった。神殿の巫女と触れ合いたくば、困っていないといけないのだ。


「あなたたちは――と言うか、陛下は何をしにきたの?」

「知らないのか。戦勝祈願だ」

「戦勝……?」


 彼女がきょとんと首を傾げた。


 この反応はもしや、国を挙げての戦が始まることを知らないのだろうか。本当に? ああそうか、賢そうだが、俗世のことには疎いのだろう――と彼が納得しかけた時だった。


「あははっ」


 少女が弾けるように笑い出した。予想外の反応で、彼は呆気に取られて尋ねる。


「何が可笑しい」

「だって、知恵と平和の女神アラウダに戦勝祈願だなんて」


 ぐうの音もでない正論だった。だがそれなら一体誰に祈れと言うのか。帝国の守護女神であり、帝国民から絶大な人気を誇る女神アラウダを差し置いて。


 少年皇帝は年に似合わぬ大人びた笑みを漏らした。


「外の世界には、お前のようなことを言う者はいない」


 これが茶番だということを、彼自身よく分かっていた。彼が今日ここを訪れたのは、恐らくは激戦となるであろう、隣国への総攻撃を前に民の心を一つにし、皆でこの難局を乗り切ろうという機運を作る為。彼とて何も本気で神頼みをしにきた訳ではない。大切なのは、女神の加護を与えられし皇帝自らが、女神に戦勝を祈願したというその事実だった。


「ごめんなさい。外の世界には色々しがらみってやつがあるんだよね」

「いい。お前まで外の奴らと同じことを言うようではつまらない」


 それは心からの言葉だった。この者ともっと話をしてみたい。この笑い声をもう少し聞いていたい。


「お前、名は何という」

「え。ないよ。ただの巫女」

「ないだと?」


 彼は驚いて尋ね返した。巫女とは皆そうなのだろうか。だが呼びつけるにせよ会話をするにせよ、この者に名がないのは大変不便である。


「では俺が名付けてやろう」

「えっ? いいよ、そんなの」


 それまでのんびりとした空気を醸し出していた巫女が、何故か急に慌て始める。


「遠慮は無用だ。そうだな……」

「いやいや待って。君、人の話を……」

「――ソフィア」


 心にすとんと落ちてきた名で、少年は彼女を呼んだ。


「お前の名は、ソフィアだ」


 彼は会心の笑みを浮かべる。我ながら何と良い名だろう。叡智ソフィア――これほど彼女に相応しい名はあるまい。


「う……う……。分かった。だけど、このことは秘密だよ。人前で呼んでは駄目だからね」


 何を赤くなっているのか不思議だったが、何か言うかと思って待っていても、彼女は一人でもじもじするばかりで何も言わない。


 そのうち、根負けしたように、ほんわりと甘い微苦笑を浮かべた。


「あ。そうだ……。君は何ていう名前なの?」

「アルセイ」


 彼女の動きがぴたりと止まる。少年の顔をまじまじと見つめ、はてと首を傾げる。


「……皇帝陛下と同じ名前だね?」

皇帝の名(ソレ)は知っているんだな」

「え?」


 この後のソフィアの顔は本当に傑作だった。


「えっ、どうして? えっ? えっ⁉」


 アルセイは弾けるように笑い出す。実にいい。悪戯が成功した気分。この顔を眺めにまた来よう。またすぐに。近いうちに。








 アルセイは先帝の庶子だった。


 先帝が遠征に赴いた折、とある都市で献上された、見目の良い女の一人が母である。その女を伴い先帝は更に進軍した。


 遠征は足かけ十三年にも及び、その間に生まれたアルセイが帝国の土を踏んだのは、十歳を過ぎてからのことだった。母とは戦闘のどさくさではぐれ、もう死んだものと思えと言い渡されている。


 華々しい凱旋の夜、先帝は急死した。


 毒殺の兆候が見られたが、公には病死とされた。彼の死の直後、嫡出子たちの間で熾烈な後継者争いが始まり、真相究明どころではなくなったのだ。どのみち彼らのうちの誰かが手を下したことは明白だった。


 骨肉の争いが繰り広げられている間、帝国は隣国クィラエの侵攻を許した。二国間で結ばれていた不可侵条約を突然破棄された上での不意打ちだった。


 瞬く間に国境が侵され、都市が次々に陥落してゆく。十年をともに過ごした兵士たちを引き連れ、アルセイは迎撃に向かった。


 僅か十歳の子供。だが彼はただの子供ではなかった。敵のどこを攻めればいいか、空気がアルセイに教える。どう布陣し、どこに伏兵を置けば効果的か、誰に教えを乞わずとも、すべて手に取るように見える。アラウダの加護と呼ばれる特別な力だった。


 乱戦になっても無敵だった。考えるより先に体が動く。荒れ狂う殺戮の渦の中、どうすればいいかすべて体が知っていた。


 いつの頃からか、彼は軍神と呼ばれるようになった。


 アルセイはクィラエの兵を蹴散らし、深追いすることなく帝都に戻った。その頃には、生きている嫡出子は異母姉テイヤだけとなっていた。


 アルセイは庶子といえど、歴とした先帝の子である。その上、女神アラウダの加護を持ち、クィラエを撃退した最大の立役者でもあった。軍と一部重臣が彼を担ぎ、彼自身も異母姉テイヤとは殺るか殺られるかしかない間柄だと分かっていた。


 敗北を悟ったテイヤが塔から身を投げ、内紛は終結した。


 だが、戦いはまだ終わらない。クィラエへの報復は確定事項である。さすがに昨日の今日という訳にはいかず、傷ついた諸々の復旧が先だったが。


 その間を縫い、慌ただしい即位と詰め込みの帝王教育が行われた。勘も覚えもよいアルセイは特に苦労もなく、大人たちから教えられることを淡々と吸収した。戦場育ちとはとても思えぬ落ち着きがあり、聞き分けもよい少年皇帝。今日も大人たちに求められるがまま、アラウダ神殿へ。


 城に戻ると、アルセイは腹心のヴェリだけを残してようやく人心地ついた。椅子の上で伸びをするアルセイに、ヴェリが香り高いお茶を差し出す。


 ヴェリは遠征の途中でアルセイが拾った戦争孤児である。


 正確には、飢えた兵に鍋の具として切り刻まれそうになっていたところをアルセイが助けた。年は恐らくアルセイの二つか三つ上。自分が何歳なのか本人も知らないらしい。アルセイの遊び相手兼世話係として引き取られ、以来ともに過ごしてきた。ヴェリの同行さえ断っての単独行動など、今日の今日までアルセイはしたことがなかった。


「神殿の巫女について知りたい。詳しい者を」


 ヴェリが頷き、「典礼部の者を」と部屋の外に声をかける。


 担当者はすぐにやってきた。煩雑さを嫌うアルセイの性格はよく知られていたから、彼も余計なことは言わず、さっさと本題に入った。


 彼曰く、神殿の巫女とは女神アラウダに供物や舞を捧げる少女たちのことである。年は大体十から十六、七歳。女神の導きで、それと啓示された少女たちが巡礼者によって連れてこられるのだという。不思議なことに、彼女たちの人数は常に多過ぎず少な過ぎず、計ったようにほどよいのだとか。


「民に代わって女神に仕える巫女たちは、人の身でありながら神聖な存在です。彼女たちにとって最大の禁忌は、外の世界の穢れに触れること」

「それは外の世界の人間と接触してはならないということか」


 アルセイは思わず尋ねた。俺と接触したことで、あの迂闊そうな巫女がうっかり禁忌を犯していたらどうしよう。


「いえいえ、それほど厳しいものではありません。女神の懐たる神殿の中であれば、普通に交流する分には問題ありませんし、困っている者を助けることも、当然穢れとは呼びません。ですが、神殿の外に出ることだけは禁忌です」


 一歩外に出てしまえば、二度と巫女に戻ることは出来ないのだという。


「そうか……」


 ――連れ出すことは駄目なんだな。覚えておこう……。


「巫女には名がない者もいると聞いたが」

「稀におります。よくご存知で」


 名無しとして連れてこられた少女には、何も訊かぬのが決まりだった。亡国の王女か、罪人の娘か、本当に記憶を失っているのか、あるいは天から遣わされたのか。それは決して暴かれることはない。


 アルセイは慎重に尋ねた。


「名無しに名をつけることも、もしかして禁忌なのか」

「いいえ。名は伴侶となる者が与えます」

「はん、りょ」

「ええ、役目を終えた巫女たちは、そのまま神殿に留まって別の形で女神に仕えるか、外の世界の男と所帯を持つかします。その折に」


 カップを持つアルセイの手が小刻みに震えていた。彼の脳裏に浮かんでいるのは、彼がソフィアと名付けた時にソフィアが見せた、何とも言えないあの微苦笑である。


 あいつめ……。


 ――そっかそっかぁー、君は子供だから知らないんだよね……。しょうがないよね。うんうん……。


 とか何とか思っていたに違いない……!


 担当者の言葉など、もうアルセイの耳に入ってこなかった。彼が説明を終え、アルセイはうわの空で退出を許す。担当者は一礼して出ていった。


「……伴侶が出来たみたいですね」

「知らなかったんだ」


 ヴェリにぼそりと言われ、アルセイは顔を隠すように頭を抱えた。


 かと言って、一度付けた名を取り下げる気にもなれない。だって名前がないと不便ではないか。それに、アルセイの中では、ソフィアはもうソフィアだった。








 次にソフィアと会ったのは、それから八か月後のことだった。


 開戦早々、国境付近の要塞を落とし、一気にクィラエ北部に侵入したところまでは良かったが、そこから膠着状態となったのだ。国土を侵される側の粘りは、アルセイの予想を超えて凄まじかった。


 互いに攻めあぐね、停戦のような状態で無為に数か月。忘れた頃に突然の攻撃。互いにそんなことを繰り返しているうち、先方から和議の申し入れがあった。もう少し先へ進めたい気持ちもあったが、アルセイは一旦本国に持ち帰り、大人たちの協議を待った。


 待っている間は特にすることもなかったから、彼の足は自然と神殿に向いた。


 応接室に案内され、出されたお茶を飲んでいると、神官長が汗を拭き拭き現れた。女神と彼らの食卓で分かち合う聖なる恵みの世話――物は言いようだが、つまりは畑仕事をしていたらしい。


「本日はどのようなご用向きで」

「ソフィアを呼べ」

「……誰でしょう?」

「巫女の一人だ。名がないと言っていたから、俺が付けてやった」


 アルセイは澄ました顔で言ってやった。あの時ちゃんと説明しなかったソフィアが悪いのだ。


 神官長は目を見開き、「お待ちを」と言って応接室を出た。


 俺をこんなに待たせるのか、とアルセイが思うほど長い時間が経った後、神官長がようやく戻ってきた。


 戻るなり、青い顔で跪く。


「大変な不敬があったようですが、外の世界を知らぬが故のこと。どうかあの子をお許しください。罰なら私がお受けいたします」


 扉がバンと開いて八か月ぶりのソフィアが入ってくる。


「神官長様! 駄目です、悪いのは私なんです!」

「久しいな、ソフィア。罰とは何のことだ。それより図書館を案内しろ。約束だっただろう。場所が分からなくて困っている」


 待ちかねていたアルセイが立ち上がり、呆気に取られる面々に笑顔を向けた。


「お前たちはゆっくりしているといい」


 言外に「ついてくるな」と言い捨てて、アルセイは部屋を出た。


「あの、その、陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「堅苦しいのはいい。元気だったか」

「あ、はい……」


 それならいい。アルセイはさりげなくソフィアを観察した。しばらく会わないうちに、雰囲気が少し大人びたようだ。それが何となく面白くなかった。もうあんな風に笑ったりしないのだろうか。背も少し伸びたようだが、アルセイはもっと伸びたので目線の高さは前よりも差がついた。


 ソフィアに連れられて図書館を回り、本の修復室や写字室まで、丁寧に案内される。


「相変わらず歴史書ばかり読んでいるのか」

「ええと、最近は臓物の本も読みます」

「どうしてまた」


 その類の本は、あまり好んで読まないのではなかったのか。どういう心境の変化だろう。


「体の仕組みや臓物のことを知っていれば、適切な手当や投薬が出来ます」


 へぇ、とアルセイは目を細めた。たった八か月会わなかっただけで。


 大人になるのは自然の摂理で、もうどうしようもないことだったが、アルセイは今この時だけ、八か月前に戻りたかった。


「何か本を選んでくれ。あの木の根元でまた一緒に読もう」


 ソフィアが足を止め、怪訝な眼差しでアルセイを見た。何しに来たんだろう、と思っているのがありありと分かる。


 今言っただろう。お前と本を読みにきたんだ――。


「早く」


 アルセイはじれて、ソフィアの手首をぐっとつかんだ。


「痛っ」


 思いの外痛がられ、アルセイは戸惑った。


「そんなに強くしていない」


 そう言いながらも、気になってソフィアの袖口をはぐと、手首の辺りがうっすらと赤くなっている。


「何だこれは。手枷でもはめられたようになっている」


 ソフィアは被っていた猫を脱ぎ捨てた。


「男の子の『そんなに強く』は、女の子には十分強いんです」

「おん、なのこ?」

「女の子ですよ。知らないの?」

「し、知っている」


 自分がつけた痕を見つめ、アルセイはうろたえた。


「けど、こんなに脆いものだとは、知らなかった」


 消え入りそうな声で呟き、ソフィアの指先だけを今度はそっと握り直す。ソフィアがぱっと赤くなった。


「歩けるか。医務室に行くぞ」

「え? 大丈夫ですよ。このくらい自然に……」

「駄目だ」


 アルセイは有無を言わせなかった。医務室ではソフィアの隣に陣取り、ソフィアの手首に軟膏が塗られるのをつぶさに見守る。アルセイの指示により、ソフィアの手首にぐるぐると幾重にも包帯が巻かれる。


「養生しろ」


 指示通りに処置が施されるのを見届けてから、アルセイは帰っていった。








 隣国クィラエとの和議については、主戦派と和睦派がどちらも折れず、帝国内で未だ結論に達していなかった。


「ソフィア! ソフィア!」

「ま、また来たぁー……」


 アルセイは暇を持て余し、遊び友達のところへ行く感覚で足繫く神殿に通った。


 ソフィアは最初のうちこそ警戒していたが、アルセイに不敬の仕返しをする気配がないのと、彼なりに荒っぽい仕草を自重しているらしいのを見て取り、徐々に素を見せるようになった。


 彼女はアルセイの為に本を選んだ。


 民話を聞き書きしたものや、とある外国の貴族の手記、国境を越えて友誼を結んだ神官同士の往復書簡集など。


 あの木の根元に体がすっぽり納まっていたのはもう八か月も前のことで、今となっては少々手狭だったから、二人で書物を覗き込むのは専ら庭の四阿あずまやだった。


 殺伐とした世界しか知らない心は娯楽に飢えていて、ソフィアと二人で読むだけでは飽き足らず、アルセイは借りた書物を自室の寝台の上で夢中になって読んだ。


 事実を書き記した真面目な手記かと思いきや、読み進むうちに出鱈目な展開となり、まったくの創作だったと途中で気づかされて唸る。


 してやったりとほくそ笑んでいるソフィアの顔が目に浮かぶようで、アルセイは「やってくれたな」と心の中で毒づくのだった。


 足繁く通っているうち、二人で過ごす四阿の周囲に色とりどりの花が植えられた。


「綺麗だな」

「庭を手入れしている神官が、あなたの為にと」


 ソフィアが花の一つのようにほんわりと笑う。アルセイは眩しげに目を逸らした。


「そうか。礼を言っておいてくれ。……花を見て綺麗だと思ったのは初めてだ」

「昨日、植え替えたばかりなんです。私も一緒に」


 ソフィアは得意げに胸を張った後、少し残念そうに続けた。


「今日来ると分かっていたら、一日待って一緒に植え替えが出来たのに」

「俺の為の花を、俺が一緒に植え替えるのか」


 ソフィアが「変かな」と呟き、アルセイは「別に変じゃない」と答える。


 きっと、楽しかっただろう。


 ――今日来ると分かっていたら。


 ソフィアにとって、アルセイの訪れはもうすっかり日常の一部に組み込まれている。そのように認識されているのは悪くなかった。


 今日もソフィアに選んでもらった本を抱え、さあ帰ろうとした矢先、アルセイは神官長に呼び止められた。


「明日もいらっしゃいますか? もしよろしければ、明日は夜もこちらでお過ごしください。お泊りいただいても構いませんよ」

「あ、うん……」


 普段は日が陰る前には辞しているが、そこまで言うのなら。


 丁度、明日も来るつもりだった。


 にこにこと笑みを浮かべる神官長に見送られ、アルセイは面映ゆそうに帰っていった。


 ソフィアだけでなく、アルセイの訪れは神殿の皆にとってもいつしか日常となっていた。








 かがり火が明々と夜を照らす。


 屋外に組まれた祭壇には、秋の恵みがたっぷりと載っている。


「今宵は収穫祭なのです」


 祭壇のそばの上座にアルセイの席が設けられ、彼は神官長らと卓についた。この日の晩餐は、香辛料を効かせた薄い冷製肉に、色鮮やかな野菜を閉じ込めたジュレ、香草を練り込んだパンと数種のチーズ。食後には飴色に輝く焼き林檎と木の実のパイ。女神アラウダの食卓は、味だけでなく見た目も洒落ている。


 アルセイにとってはこれが送別の宴となった。この日の合議で戦争の続行が正式決定されたのだ。クィラエによる国土蹂躙の記憶は未だ生々しく、主戦派が遂に和睦派を押し切った。


 アルセイの出立は明日の日の出前と定められ、せっかくのお誘いだったというのに外泊はお預けとなった。何だかんだで来るのが遅くなり、今日はまだソフィアとも会えていない。


「神官長、今年の出来栄えも素晴らしいですなぁ!」

「ええ、まったく」


 アルセイと同じ卓で、神官長らの杯がぐいぐい進んでいた。アルセイに供されているのはただの果実水である。彼らと同じく初物の葡萄酒で良かったのだが、「子供の飲酒は女神がお許しになりません」と、そこは妙にきっちりしていた。


 そのうち、楽器を持った神官たちがぞろぞろと一つ所に集まり、思い思いに音を調節し始める。長く心地よい音の上に別の音が重なり、一瞬の後、それは陽気な調べとなる。燃え盛る炎と溢れ出る音楽。そこへ弾むような足取りで巫女たちが現れる。


 ソフィアもいた。


 いつもの素っ気ない装いではなく、白くてひらひらした衣をまとっている。動く度、燃え盛るかがり火の明かりに照らされる度、衣の中の体の線が微かに実体を持った。しなやかな影絵が舞っているようで、アルセイは目を奪われる。羽を撫でるような手の動き。弾けるような笑み。なんて楽しそうに踊るのだ、あの巫女は。


「華やかだな」


 アルセイがぽつりと漏らすと、神官長は「いえいえ」と笑顔で大きくかぶりを振った。


「本物の収穫祭はこんなものではありませんよ」

「本物?」

「ええ。本来であれば、毎年この時期には帝国内のあらゆる都市で収穫祭が行なわれます。中でも帝都の広場で行われるものは本当に圧巻で」


 神官長は夜空を照らすかがり火に目をやった。


「この三倍はあろうかという大きなかがり火が焚かれ、老いも若きも、男も女も、音楽に合わせて火の周りで輪になって踊ります。皆食べては飲み、歌っては踊り、疲れたら休憩し、また踊りの輪の中に入る。祭りは夜通し続き、そうやって秋の収穫を皆で賑やかに祝うのです」

「そんなの、俺は見たことがない」

「そうですね……。戦時下は行われませんので」

「そうか」


 ここ数年は血で血を洗う内紛に、クィラエからの侵攻。そして今、侵攻に対する報復として帝国がクィラエに攻め入っている。戦争という非日常がいつの間にか日常となり、それまでの平穏な日常を暗い色で塗り潰している。


 かがり火の向こうに消えていたソフィアがようやくアルセイの前に戻ってきた。衣の裾をちょいと持ち上げ、軽やかに回る。いつものスタイルで結ばれた髪が快活な子犬の尾のように揺れる。相変わらずのいい笑顔である。


「女神アラウダは人々に知恵と平和を授け、楽しみを求める心をお許しになりました」


 楽しみを求める心――それは例えば、書物が導く見知らぬ世界に没頭すること。かけがえのない友と過ごすこと。色とりどりの花を愛でること。慎ましく暮らす者たちが、年に一度、皆で陽気に浮かれ騒ぐこと。そうしたいと願う自然な気持ち。それまでのアルセイが持っていなかったもの。


「戦争は人の世の美しい営みを途切れさせる。だからこうして神殿が記憶するのです。後の世につないでいく為に」


 踊り終えたソフィアが同輩たちと火の周りに座り、屈託なく笑っている。受け取った杯を飲み干し、ぷはぁ、と息を吐く。


「まさか?」

「いえいえ。杯の中身は果実水です。顔が火照っているのは火のそばで踊っていたからで、一息に飲み干したのは喉が渇いていたからでしょう」

「ああ……」

「ソフィアしか見ておりませんね。先程からずっと」

「当然だろう? あの中に俺の知り合いはあいつだけだ」


 アルセイが視線を戻しもせずそう答える。神官長が目を見開き、同じく目を見開いているヴェリと合わせ鏡のように目を合わせる。もしやご自覚がない? そのようですね、さすがにびっくりです。ソフィアしか見ていないアルセイは、目だけで交わされた二人の会話に気づかない。


「神官長、俺は戦を終わらせるぞ」


 軍神と呼ばれた少年皇帝がぽつりと言った。彼の瞳の中には、再び踊り出したソフィアがいる。


「帝国の民が皆、あいつのように呑気なツラで毎年踊る未来は――悪くない」


 ヴェリが眉を上げる。それは、ずっと大人たちの言いなりだったアルセイが、はっきりと自分の意思を持った瞬間だった。


 ソフィアが聞いていれば、怒り出しそうな物言いだったが。








 二年経っても三年経っても戦は終わらなかった。


 国境付近の要塞を占領後、そこからクィラエの穀倉地帯である豊かな北部へ侵入し制圧、敵が戦意を喪失したところで一気に首都まで侵攻――それが当初のシナリオだった。


 だが、要塞は予定通り落としたものの、その先をアルセイはどうにも攻めあぐねた。


 何かがおかしい。


 いくら探っても隙がない。


 向こうが仕掛けてきてくれればまだやりようもあったのだが、数度の戦闘で学習したのか敵は守りに徹し切っていた。持久戦に持ち込み、帝国が根負けして引くのを待つ算段である。


「――しぶといな」


 アルセイは嘆息した。


 膠着状態が続いた初期の段階で気づくべきだったのだろう。


 クィラエにも加護持ちがいる、と。


 無知な子供であることを止めたアルセイはもう知っていた。加護持ちというのは、時折、運命の気まぐれで生まれ落ちる、ただ感覚が鋭敏なだけの異常個体に過ぎないと。


 アラウダの加護だの何だのと持てはやされるアルセイの力は、その実、女神に与えられた恩寵でも何でもなかった。アラウダを崇めぬ土地にも加護持ちは生まれ、それぞれが信仰するそれぞれの神の名を冠した呼び名で呼ばれている。


 大体、神殿にしてからが、加護と呼ばれる力とアラウダのつながりを公式に認めたことなど一度もなかった。常人が持ちえぬ力を勝手に女神と紐づけて、ご大層なものにしているのは俗世の人間である。


 戦況は今日も動かなかった。もはや泥沼で見る悪夢である。クィラエ側の認識も、アルセイとそう変わらないだろう。こんなはずではなかった。一体どうしてこんなことに。俺たちは何をやっている?


 ――すぐ終わると思っていた。


 ――戦は始めるより終わらせる方が、ずっと難しいのです。


 ――書物にそう書いてあったか。


 ――歴史がそう物語っています。


 直接会うことは出来ずとも、ソフィアといくつもの文を交わした。


 アルセイの字もソフィアの字も、当初は子供らしく奔放だったのが、月日を重ねるごとにそれなりに流麗になっていった。


 会いたい。何度もそう願った。


 アルセイはもう長いことあの笑顔を見ていなかった。


 ――あいつはのんびりしているから、こうやって文を交わしていないと俺のことを忘れるかもしれない。


 それは見くびり過ぎというものであり、杞憂でもあった。


 ――四阿の周りが寂しくなってきたので、また花を植え足しました。


 次の文で、ソフィアはアルセイと過ごした四阿の周囲に花を足したことを伝えてきた。


 アルセイの顔が勝手に赤くなる。


 こんなもの。アルセイの帰りを待っていると言っているようなものではないか。


 文にはまた、少し前に、研究者肌の神官が暑さに強い穀物の品種を開発した、ということも記されていた。あそこは相変わらず、畑仕事という聖なる労働を中心に回っている。


 ――皆、元気でやっているだろうか。


 すぐ目を見開く神官長や、陽気で穏やかで、一部酒好きな神官たち。


 神殿の庭の手入れをしている、あの優しげな神官は、今日も黙々と花の世話をしているのだろうか。


 アルセイは彼の姿を遠くから見かけたことがあった。


 麦わら帽子がよく似合う、背の丸い小柄な老神官。


 アルセイの胸を苦い後悔がかすめた。


 こんなに長く会えなくなるなら、どうしてあの時、彼に声をかけなかったのだろう。


 俺の為に花をありがとう、と――。








 互いに思い合っているのでもなければ、説明のつかない頻度で文が交わされた。


「陛下の士気にかかわる」とヴェリに言い含められ、アルセイの文は可及的速やかにソフィアのもとへ届けられる仕組みが整っていた。ソフィアも受け取ればすぐに返事を書く。


 ――ソフィア、俺は困っている。


 アルセイからの素っ気ない文は、まるでそう言っているようで。


 ――困っていると言えば、お前は助けてくれるのだろう?


 ソフィアはアルセイの問い掛けに答え、他愛のない雑談や近況報告を綴り、毎回「お体大切に」と結んだ。


 加護持ちである故か、彼は彼我を問わず、人の体の脆さというものを気にかけないところがある。彼がソフィアの意を汲んで、自身を大切にしているかどうかは分からなかったが、ソフィアは毎回お守りのようにそう記した。


 ――四阿の花を、お前と見たい。


 この日受け取った文は、そう締めくくられていた。


 油断していたソフィアは、もう……と顔を赤らめる。


 植え足しました、という報告への返事である。アルセイに深い意味などなくて、そう思ったからそう書いただけだろう。彼はいつだってこの調子なのだ。


 ――こ……困っている。

 ――困ってるの?


 初めて出会った時から、彼は随分と素直で、甘え上手で。


 まだあどけない顔立ちの、とても清らかな空気をまとった少年だった。


 彼の可愛いほっぺたを、あの時つついたりしなくて本当に良かったと思う。


 彼が皇帝陛下その人だなんて、ソフィアは思いもしなかったのだ。書物の挿絵で見る皇帝は、大抵髭の生えたおじさんだった。


 アルセイのまっすぐな言葉を消化し切れず、ソフィアがひんやりと涼しい柱の陰で頬をあおいでいると、神官長に見つかった。ソフィアの手にあるのはアルセイからの文である。


 神官長は文に目を留めて微笑んだ。


「あの方をお慕いしているのか」

「そっ、そっ、そんなことある訳ありませんでしょう!」


 ソフィアが即座に否定し、神官長は驚いたように目を見開く。


「みっ、身分が違いすぎます。あの方はこの国の皇帝で、そんなの、思うことすら許されません。あの方にも困ったものです、いつまでも私をソフィアと呼んで!」

「ソフィア、ちょっと落ち着きなさい?」

「そっ、そろそろ本当のことを説明して、ソフィアと呼ぶのを止めてもらわないといけませんね。では私はこれで!」


 ソフィアは逃げるように立ち去った。


 勝手に潤んでしまう目と、胸を締めつけるこの思いをどうしたらいいか分からなかった。


 彼は強引で、せっかちで、ソフィアの前ではいつだって子供のよう。けれどもソフィアに触れる時だけは、とても恐る恐る、そうっと触れる。彼に触れられたことなど、数えるほどしかなかったけれど。


 神官長様、あの方が悪いのです。


 ――ソフィア。


 まるで私のことが好きみたいに、私をじっと見つめるから。


 ――お前の名は、ソフィアだ。


 それの意味するところも知らず、私に名を与えたから。








「あいつの加護は、防御だな」


 アルセイの言葉にヴェリが薄く笑う。アルセイが何か企んでいる時は、大抵、阿吽の呼吸で乗ってくる。


「だから――引きずり出すしかない」


 この日から、帝国軍は無作為に局地戦を仕掛けては損害が出る前に引く、という行為をひたすら繰り返した。襲撃は昼夜を問わず、また、今までの動きのなさも効いて、クィラエの固い防衛線にじわじわと小さな擦り傷を作っていく。意図の読めない動きにクィラエ側は却って翻弄されていた。


 その裏で帝国軍は少しずつ北へ移動し始めていた。敵の主力部隊を避け、大きく迂回するルートである。


「……やっと気づいたな」


 あの無目的な攻撃が、本隊の移動の目くらましだと思い込んでくれれば上出来だった。機動力のある帝国軍が北から迂回し、クィラエ軍を側面から叩くか、或いは横に長く展開された防衛線を素通りし、一気に首都まで攻め入るか。どちらかを企んでいるに違いないと、これで向こうは確信しただろう。


「随分手の込んだことを」

「これくらいしないと掛からない」


 敵の布陣は更に伸び、彼らと接触したくない帝国軍は狭い山道へ自然と誘導された。上手い。勿論、山道にはクィラエの伏兵が既に潜んでいる。


 そうでなければ困るところだった。そうするよう仕向けたのだから。


 帝国軍の精鋭が、何事もなく隘路あいろを続々と駆け抜ける。アルセイが先に仕込んでいた伏兵により、クィラエ側の伏兵は既に全滅している。


 数刻後、突破を知らせる狼煙が上がった。


「……よし」


 アルセイはやっと安堵の吐息を吐いた。まるで自分の指先のように兵を動かす繊細な指揮が必要で、ここまで一時も気が抜けなかった。


 山道を抜けてしまえば遮るものがない。クィラエは薄く長い守りが仇となり、山道の出口側に兵を回す余力も時間もないとアルセイは読んでいた。


 地から湧いたような大隊の出現を認め、クィラエ軍は速やかに撤退したという急報が入る。いい判断だ。下げることを余儀なくされた防衛線を、彼は今度こそ死守するだろう。


 アルセイは山道に回した部隊に追加の部隊を投入した。彼らにクィラエ本隊を牽制させつつ、自身は残り半分を率いて北部最大の城塞へ向かう。


 総力戦なのだ。


 意図的に隠していたが、クィラエの読みの三倍は動員していた。


 クィラエ全土の攻略は、既にアルセイの目的ではなかった。だが何の戦果もなく撤収することは出来なかったから、豊かな北部の奪取は必須だった。


 アルセイは三年前からそのつもりで、目端の利く少年を城塞に潜り込ませている。夜陰に紛れて落ち合った彼は、結果として長く勤めていることと、卒のない仕事ぶりで城塞側にすっかり信頼されていた。


 アルセイとヴェリは彼の案内で城塞の火薬庫に忍び込んだ。


「いい品揃えですね」

「感心している場合か」


 さっさとやれ、とアルセイが急かす。ここから先はヴェリの仕事である。彼は手先が器用で火器の取り扱いにも長けている。


「派手に」

「御意」


 頭の中で瞬時に計算を終えたヴェリが砲弾の配置を少し変え、導火線を床に這わせる。


 後は先端に点火し、逃げるだけだった。


「――こっちだ」


 走って逃げている最中に見回りの兵の気配を感じ、アルセイが別の通路に誘導する。敵に侵入された時に備え、大抵の城塞はあえて迷路のように造られている。が、アルセイにとってはどこも同じ、勝手知ったる彼の中庭である。


「ずっと潜入してる俺より分かってんだもんなぁ……」


 後ろで案内役の少年がぼやく。螺旋階段を跳ぶように駆け降りる。火薬庫のある塔から外へ出た瞬間、雷鳴のような爆音が鳴り響いた。





 



 城塞は見るも無残な姿を晒していた。


 火薬庫のあった塔は瓦礫と化し、その周囲の建物は、夜通し集中砲火を受けたかのように崩れている。朝焼けの光が照らす中、アルセイ率いる帝国軍が城塞を取り囲んでいた。


 城塞内の砲弾も戦意もとうに尽きている。アルセイはただ待っていればよかった。


 やがて城門がゆっくりと開き、威風堂々たる壮年の将官が、たった一人で泰然と姿を現す。


 彼はアルセイに歩み寄り、降伏の意を告げた。名乗られた家名はクィラエ王家に連なるもので、城塞の総責任者である。首を差し出す覚悟で来たのだろう。迷いのない目をしていた。


「俺の使者となり、尋ねてこい。和議を結ぶ気はあるか、と」


 馬上のアルセイがそう言うと、彼は驚いたようだった。


「早く行け」


 せっかちなアルセイが急かす。形式に則ってしたためられた親書が彼に手渡される。


「待て」


 急かしておきながら、アルセイは彼を呼び止めた。


「あれは誰だ」


 アルセイはずっと対峙していたクィラエ主軍の指揮官の名を尋ねた。彼についての情報がなく、ずっと気になっていたのだ。聞き出した家名が目の前の将官と同じだったから、アルセイはおやと目を丸くした。


「……愚息にございます」

「そうか。ご子息の奮闘と采配に敬意を表する」


 思いがけない言葉だったのだろう。その時、将官は一瞬、城塞の総責任者ではなく、クィラエの将としてでもなく、ただの父親の顔を見せた。アルセイ自身は父の情など知らないが、家庭に戻れば父である兵たちが、子のことを語る時の眼差しなら知っている。


 将官は深々と一礼し、去っていった。


「交渉の得意な奴を呼べ。出来る限り早くまとめろ。俺は最後だけ顔を出す」


 クィラエ兵の粛然とした撤退を見届けながら、アルセイは欠伸をした。涙を溜めた目で半壊した城塞を見やる。あれの居住可能部分がこれからしばらく仮の住まいとなる。


「――和睦などありえませぬ!」


 アルセイが呼び寄せたのは「交渉の得意な奴」だったのに、そうでないのも来た。


 穴の開いた壁から涼しい風が入る一室で、アルセイは帝国一の主戦派に詰め寄られていた。


 四年にもわたる戦争を経、帝国内の意識も大きく和睦に傾いていたが、主戦派という時に頑迷な生き物は、最後の一人になっても戦うという見上げた気概と、声の大きさで誰にも負けぬものらしい。


「陛下は先の侵略の屈辱をお忘れか」

「別に忘れていないが。クィラエはその代償として、五年近く国土を荒らされ、豊かな北部を俺たちに割譲する羽目になった。さすがにもう懲りただろう」

「いいえ、到底足りませぬ。あの時殺された帝国民の無念、この機に晴らさでおくべきか。帝国にはまだ余力があるのですから、とことんまでやるべきです」


 アルセイはふうとため息を吐いた。余力があるうちでないと、有利な条件で和議など結べない。国を導く立場にありながら、そんなことも分からぬほど目先の恨みに囚われているのか。


「過ぎたる報復は、更なる報復を生む」


 それがソフィアの受け売りだとはとても思えぬ威厳をもって、アルセイは彼に告げた。


 いくつも交わした文の逢瀬。まるで小さな図書館のように、ソフィアの言葉はアルセイの中にあった。


「争いには切りがない。今は俺がいるからお前たちも強気だろうが、俺が老いさらばえた時、俺たちが好き放題踏みにじった場所に若い加護持ちが現れたらどうする? その時、復讐の名のもとに、切り刻まれるのはお前ではなくお前の孫娘だ」


 相手はぐっと言葉に詰まる。


 アルセイは独り言のように続けた。


「侵略だの屈辱だの。長い歴史の中で、辛酸を舐めたのは帝国だけだとでも言うつもりか」


 アルセイは戦しか出来ないが、戦が好きな訳ではない。


 だからこそ思うのだ。先帝の遠征にしたところで、どれほどの大義があったのかと。


 侵攻される側にとっては、あれは紛れもない蹂躙だった。


「……俺の為に、花を植えてくれた人がいる」


 戦争の影などない、まったき平穏の中で、愛する人たちに暮らしてほしい。軍神と呼ばれたアルセイが、そう願ってはいけないだろうか。血に汚れた手で皆の平和を守るなど、今更何を戯れ言をとそしられるだろうか。それでも。


「俺はその人が生きているうちに戦を終わらせたい。……駄目か?」


 普段はどこか達観した様子の、感情の乏しい少年皇帝から不安げな上目遣いで尋ねられ、彼は駄目と言えなかった。


 帝国の総意は和睦でまとまり、後に到着したクィラエ側も、どれほどの対価を払わされるのかと冷や汗をかきつつ、前向きな姿勢で交渉のテーブルについた。


 アルセイは「北部さえ取れればそれでよい」と言って、後のことは皆に任せた。


 昔のように、何でも大人たち任せという態度ではなく、アルセイの同席が必要な時は、無論同席して睨みを利かせた。


 城塞滞在中、アルセイは思わぬ邂逅を果たした。


 ヴェリを連れて中庭を歩いていた時、クィラエ側の随員と見られる軍人たちが、木のそばで手持ち無沙汰に立っているのに出くわしたのだ。


 中の一人とふいに目が合った。


 ――お前か。


 すぐに分かった。


 年は二十代半ば辺りだろうか。長い金髪を後ろで一つに編み込み、軍人というより楽師といった趣きの優男だった。目元にあの将官の面影がある。


 向こうも気づいたらしく、ぐっと息をのんでアルセイを見た。


 ――ふうん。


 戦場生まれ戦場育ちのアルセイにとっては、彼など昨日今日初陣を果たしたばかりのひよっこに過ぎない。


 すれ違いざま、アルセイはふっと笑ってやった。


 アルセイの背後で彼がどんな表情を浮かべたかは知らない。


 あんなに何年も睨み合っていたというのに、実際の邂逅はほんの一瞬というのが、思えば不思議なものだった。


「――帰るぞ」


 講和条約に続き、改めての二国間不可侵条約も締結され、アルセイはようやく帰国の途に就いた。


 頭の中は既にソフィアのことで一杯だった。


「俺のこの気持ちは、やっぱりそういうことだと思うか」

「それはご自分が一番よくお分かりでしょう」


 ヴェリに軽くあしらわれ、アルセイは頭を抱えた。








 女神アラウダへの戦勝報告という、これ以上ない大義名分を引っさげて、アルセイは神殿を訪れた。


 神官長を始め、皆が「大きくなって」と目を潤ませながらアルセイを出迎えた。


「お帰りなさい」

「うん……」


 アルセイは彼ら一人一人を丁寧に抱擁した。


 神殿の庭を預かる老神官もいて、アルセイはようやく彼に「花をありがとう」と言える。


 老神官はほっほっと笑い、「お気に召したなら、何よりですなぁ」とアルセイを優しく抱き返した。


 主聖殿での戦勝報告の後、応接室に案内されたアルセイがぼそぼそと要求した。


「……ソフィアを呼んでくれ」


 しばらくすると、びっくりするくらい綺麗になったソフィアがお茶を持って現れた。アルセイは一瞬呼吸を忘れたが、平静を装って自分に言い聞かせる。だ、大丈夫、髪型は昔のままだし、粗相をしないよう気を張っているのも分かる。何故か綺麗になっているが、こいつの中身はちゃんとソフィアだ。


 ソフィアがお淑やかに一礼し、アルセイの前にお茶を置いた。


 ヴェリがすっと部屋を出ていき、応接室に二人だけが残された。


「あー……元気、だったか」

「はい、お陰様で」


 ソフィアがほんわりと笑った。


「ご無事のお帰りを、毎日お祈りしておりました」

「そうか」


 アルセイは夢でも見ているような心地だった。


「……ずっと文を交わしていたから、久しぶりという気がしない」

「はい」


 相槌でしかない「はい」の後、ソフィアが怪訝そうに首を傾げる。


「飲まないんですか?」


 お茶のことである。


 ――何だ、お前。俺はそれどころじゃないというのに。


 アルセイは立ち上がり、ソフィアの手から盆を取って卓に置いた。ソフィアが嫌がっていないことを慎重に確かめながら、ソフィアの体に腕を回す。


「陛下……?」


 戦場育ちの荒っぽいアルセイでは、力加減が分からず、痛めてしまうかもしれない。だからアルセイは出来得る限り、そうっとそうっとソフィアを抱いた。


「いっ……嫌じゃなければ、抱き返せ……」

「あ、はい」


 ソフィアの手がアルセイの背に触れる。嫌ではないということだ。アルセイは勇気を振り絞った。


「おっ……お前、もう少ししたら、巫女の務めが終わるだろう」

「はい」

「そ、そ、その後だが」

「はい」

「後、だが」

「は、はい」


 アルセイの緊張がソフィアに伝染する。


「お前、宮廷に来ないか」

「……え?」


 腕の中でソフィアの体が明らかに強張るのが分かった。


「い、嫌か」

「無理です。私にはとても務まりません」

「え、務まるだろ」

「そんな訳ないでしょう!」


 あまりにもきっぱり言い切られ、アルセイは動揺した。確かにアルセイの妻ともなれば皇后ということになるのだろうが、アルセイ自身が所詮は庶出の、戦うしか能がない皇帝である。そんなに尻込みするようなことでもないと思うが、何か理由が、務まる理由が要るのか。


「私は書物と神殿の中の世界しか知りません」

「それを言うなら俺は戦の世界しか知らない」


 ――「しか」って何だ。お前は俺よりよっぽどいろんなことを知ってるじゃないか。


 アルセイはソフィアを抱く手に少しだけ力をこめた。


「書物も神殿も、どちらもこの世の叡智が保存されている場所だ。戦争の後の世界には、お前のような者が必要だ、と、俺は、思う」


 それはアルセイの本心だった。これから始まる新しい時代には、ソフィアのような者こそが相応しい。


 ソフィアは頑なに首を振った。


「ですが、そういうのは、ちゃんと訓練を受けた頭のいい人たちがなるものでしょう」

「待て。お前は何の話を」


 訓練。人たち――人たち(・・)って何だ?


「え? 仕官のお話ですよ、勿論。宮廷で雇っていただけるなんて、ありがたいお話だとは思いますが……」

「……」


 仕官……そうか、成程。ソフィアはアルセイの「結婚しないか」をそう解釈したということか。


 ――こういうところだ。この世間知らず。


 どこの世界に好きな女を抱きしめながら「俺の文官にならないか」と勧誘する男がいるのか。


「くっ……」


 とりあえずソフィアが多大な勘違いをしていることは分かったが、経験値の低いアルセイには、ここから挽回する方法が分からない。頭の中は既に真っ白だった。


「――出直す」


 アルセイは低い声で言い捨てて、逃げるように応接室を出ていった。








 アルセイが戦勝報告をしにきてから、あっという間に半月が経った。


 ソフィアは自室でぼんやりと頬杖をつき、あれ以来一度も会っていない彼のことを考えていた。


 ――元気、だったか。


 四年と数か月ぶりに再会した彼は、見違えるほど大人になっていて。


 いつの間にか伸びていた背も、すっと引き締まった頬も、聞き慣れない低い声も、まるで別人のようだった。


 ――ずっと文を交わしていたから、久しぶりという気がしない。


 この人があの男の子……? と感慨に浸っていたソフィアは思わず「はい」と言ってしまった。


 そこから包み込むように優しく抱きしめられた時は更に驚いた。


 それで何を言うかと思えば、「仕官しないか」である。


 まったくもう……。


 仕官は子供のお遊びではないのだから、彼のような立場の人が気軽にそんなことを言っていいはずがなかった。彼も多少は口ごもっていたから、少しは分かっていたのだろうが、年頃のソフィアの体をためらいもなく抱いたことといい、外見と違って中身は子供のままのようだ。


 後から聞いたところによると、彼は出迎えた神官たち一人一人を丁寧に抱擁したという。彼にとってあの抱擁は、帰還の挨拶程度の意味しかなかったということだ。勝手にどぎまぎして損してしまった。


「怒ってたなぁ……」


 ――出直す。


 不愉快を滲ませた声でそう言って、彼は部屋を出ていった。あれ以来彼の訪れはない。彼の方から来てくれなければ、会うことも出来ない関係なのだと初めて気づいた。


 もう、会えないんだろうな……。


 皇帝直々のお誘いなど身に余る光栄であり、お受けする以外の選択肢などあってはならなかったのだろう。


「……ちょっと断ったくらいで来なくなるなんて」


 口ではそう言ってみたものの、違う、彼はそんな人ではないと心がすぐに否定する。


 だが、それなら彼は何故急に来なくなったのだろう。


 もしかして皇帝の仕事が溜まっている、とか……?


 ――陛下、お留守中の五年分のお仕事でございます。


 書類の山の前で、嫌そうにしつつも淡々とペンを走らせるアルセイの姿が目に浮かぶ。ソフィアは「ハハ、まさかね……」と首を振った。


 体でも壊したのだろうか。


 ――五年分の疲れが一気に出たようですな。


 ソフィアの頭の中で、強制的に寝かされたアルセイが「ずっと寝てばかりで退屈だ」と文句を垂れる。


 本でも持って見舞いに来いと言いそうな勢いだった。


「やっぱり、私に愛想を尽かしただけかなぁ……」


 人の心なんて分からない。ましてや元々身分がとんでもなく違うのだ。この関係がずっと続くと考える方がおかしかった。


 ソフィアはアルセイからの文を胸に抱いた。


 ――四阿の花を、お前と見たい。


 結局、見てもらえずじまいだった。


 うる、とソフィアの目が潤みかけた時、「ソフィア、神官長様がお呼びよ。応接室に来なさいって」と部屋の外から声がかかった。


 涙を拭って応接室に行くと、中には神官長とアルセイのお付きのヴェリがいた。やはりアルセイの姿はない。しゅんとするソフィアにヴェリは沈痛な面持ちで告げた。


「陛下が暴漢に襲われ、重傷を負いました」

「え……」


 ソフィアはその場に崩れ落ちそうになった。


「ど、どうし……陛下は加護持ちでは……」


 うろたえるソフィアの声はかすれ、うまく言葉にならなかった。


「加護持ちといえど人間です。疲れていれば隙も出来ますし、傷が深ければ死ぬ」


 公務で訪れた商会からアルセイが出てきた瞬間、雑踏の中から刃物を持った男が彼にぶつかってきたのだという。


 先のクィラエの侵略で、妻と子を失った男だった。


 男は取り押さえられている間中ずっと、クィラエと和議を結んだアルセイを許さないとわめき続けていた。


「普段なら、難なくかわしていたと思うのですが……」


 ヴェリが疲れたように言う。


「最近は陛下も少々落ち込んでいましたから。――あなたに求婚を断られて」

「求婚? 何の話ですか?」


 ソフィアが驚いて尋ねると、ヴェリが神官長のように目を見開く。後ろで神官長も目を見開いている。


「え、もしかしてあれが? いいえ、まさか。あれは仕官のお誘いで……」

「仕官の、お誘い?」


 首を捻っているソフィアの前で、ヴェリと神官長はそこから更に目を見開いた。


「言った方も言われた方も、どちらも問題がありそうです――ソフィア」

「はい」


 普段は飄々としているヴェリが、今まで見たことがないほど切羽詰まった顔をしていた。


「無理を承知でお願いします。どうか私と一緒に陛下のもとへ――」

「行きます」


 ヴェリが皆まで言い終わらぬうちに、ソフィアはそう答えていた。ずっと険しい顔をしていたヴェリが、思わずといった様子で目を瞬く。


「いいのですか? 一度神殿を出てしまうと、あなたはもう――」


 女神アラウダの巫女にとって、神殿の外に出ることは最大の禁忌である。一歩外に出てしまえば、ソフィアはもう巫女には戻れない。


 ソフィアは大きく頷いた。


 ソフィアの目から涙がぽろぽろと流れ、まるで彼女の方から「連れていって」と懇願しているようだった。


 ヴェリが頷き、ちらりと神官長を見やる。神官長は「本人がそう決めたなら」と静観する構えを見せる。


 ヴェリがソフィアに向き直って告げた。


「では参りましょう。支度は不要。そのままで。すぐにでも」








 ソフィアが駆けつけた時、アルセイは豪奢な寝台の上で眠っていた。


 青白い顔をして、眠りながら苦しげに眉を寄せている。


 ヴェリに促され、ソフィアが寝台に近づいていくと、控えていた女官が装飾品のような腰掛け椅子を寝台のそばに置いた。


 気後れするようなそれに座り、ソフィアは眠っているアルセイに小声で尋ねた。


「痛いですか……?」


 その瞬間、アルセイがぱちりと目を開けた。ソフィアに視線を移し、驚愕の表情を浮かべる。


「おま、え」

「すみません、起こすつもりは」


 たまらなくなって尋ねてしまっただけで、彼の眠りを邪魔するつもりは本当になかった。


 アルセイはため息を吐き、ソフィアに手を伸ばした。


「何て、顔だ。お前が……刺された訳でもないのに……」

「だって」


 頬に触れるアルセイの手に、ソフィアが自分の手を重ねた。


「し、死なないでください」

「死なない……。避け切れなかったが、急所は外した」

「は……」


 アルセイがくっと小さく笑った。


「さては、ヴェリだな。今夜が峠だとでも言われたか」

「……」


 そんなことは言われなかった。ただ、彼の声音や表情から、ソフィアが早合点してしまっただけで。


 アルセイの目がとろりと細められた。


「何にせよ……俺はもう、お前を手放してやれない……」

「ずっとおそばにいさせてくれるということですか」


 ソフィアの言葉が予想外だったのか、アルセイは「お前」と言ったきり、しばらく絶句した。


 ややあって、内緒話でもするように小声で尋ねる。


「俺の妻になるか……?」

「いいですよ。あなたも私の夫になりますか」


 アルセイが目をぱちくりさせ、ふっと息を漏らすように笑った。


 何がおかしかったのだろう。女神の前で誓う時、夫となる者も妻となる者も、どちらもそれぞれ申告するではないか。片方だけの意思を確認する婚姻なんて聞いたことがない。


 とろけるような甘い声で、アルセイは殊勝なことを言った。


「お前が許してくれるなら……」

「いいですよ。元気で長生きしてくださいね」

「分かった」


 アルセイの手から力が抜け、満足そうに目を閉じた。もう思い残すことはないと言うような、安らかな寝顔である。まさか、とソフィアは青ざめた。


 控えていた医師が彼の様子を見ようと近づいてきた時、彼がはっと目を開けた。


「――ソフィア」

「え? はい」


 アルセイがソフィアを見据えながら、それほど大きくはないが、いかにも皇帝といった、圧のある低い声で告げた。


「お前を、ソフィアと名付ける」


 それきりアルセイは再び意識を失う。医師が恭しく彼に近づき、彼の呼吸と脈を確認する。


「眠っているだけです。ご安心を」


 ソフィアが胸を撫で下ろす。


 ヴェリはおもむろに部屋の扉を開け、外に控えている者たちに告げた。


「――陛下は名無しの巫女に名をお与えになりました」








 翌朝、一夜明けて冷静さを取り戻したアルセイが「まあ、俺のせいだから……」と気遣う様子を見せた。


「……平気か」

「はい、思っていたよりは」


 ずっと神殿で守られていた巫女にとって、神殿の外に出ることは未知の体験である。通常であれば、誰かに付き添われながら少しずつ慣らしていくものだが、ソフィアはその行程をすっ飛ばしてしまった。気が動転していてそれどころではなかったのだ。


「でも、まだ少し怖いです……」


 森で放し飼いにされていた動物が、いきなり人の世界の喧騒に放り込まれたようなものである。鋭敏なアルセイはソフィアの気持ちが感覚で理解出来るようだった。


「しばらくは俺と一緒にこの部屋で暮らすといい。丁度俺も動けないから、ずっとそばにいてやれる。気が向いたら少しずつ露台に出てみたり、部屋の外を散策してみたりすればいい」

「あ、はい……」


 元気なソフィアが重傷者に気遣われている。ソフィアは気まずいものがあったが、アルセイは特に疑問を感じていないようだった。


「巫女の務めは後どれほど残っていた」

「えーと、多分、あと半年ほど……」


 眉間に皺を寄せてうつむくアルセイに、「あの、別にそんな」とソフィアは慌てて首を横に振る。


 こうなったことは残念だったが、アルセイの死に目より巫女の務めを優先するなど人としてあり得ない。結果的に勘違いだったが、ソフィアはあの時の決断を後悔していなかった。


 だがアルセイの尋問はこれで終わらない。


「務めを終えた後はどうするつもりだった」

「えーと……どこかの診療所のお手伝いをしながら、お休みの日は本を読んだり、美味しいものを食べにいきたいなって」

「……」


 これはいつまで続くのだろう。庶民のソフィアにどれほどの人生設計がある訳でもない。アルセイの気遣いがかえって申し訳ないくらいである。


 神殿の中の世界しか知らない巫女たちは、務めを終えた後も神殿で暮らすことを望む者も多い。だが、ソフィアには外の世界への憧れがあった。


 神殿の外に広がる、ささやかだけれど小さなワクワクに満ちた新しい暮らし。


 慌ただしい毎日に紛れ、淡い初恋もいずれ思い出となっていくのだろう――と、ソフィアは思っていた。彼の伴侶となる未来など、頭をかすめもしなかったのだ。


「では、俺の話し相手を務めろ。休みの日は俺と本を読んだり、美味いものを食いにいけばいい」


 人に命じることに慣れている態度で、アルセイがさっさとそう決めた。


「言っただろう。戦争の後の世界には、ソフィア、お前のような者が必要なんだ」

「戦争の、後の世界」

「そうだ。ようやく手に入れた」


 アルセイはぽつりとそう言って、ふいにソフィアを抱きしめた。


「陛下……?」


 その抱擁には、幼子が縋りついてくるような、無防備ないとけなさがあった。


「――勝っても勝っても終わらなかった。誰も終わっていいと言わなくて、また次が始まるだけだった。終わらせていい、終わらせる為の努力をしろと、俺に教えたのはお前だけだ」

「え、教えたかな……」

「教えた。だからお前は、お前が作った新しい世界をこれから守っていく義務があるんだ。――俺のそばで」


 アルセイは子供のようにそう言い張った。


「ふふ、そうですか……」


 彼の腕の中で、ソフィアは何とも言えない微苦笑を浮かべた。


 ――新しい世界を作ったのは、誰よりあなたではないですか……。


「おい。今、俺のことを子供扱いしただろう」

「し、してませんよ。とんだ濡れ衣……」

「した。絶対にした」


 ソフィアの前ではまるで子供のようなのに、子供扱いはものすごく嫌がる。


 面倒な男だった。


 この年の秋、帝国各地で数年ぶりの収穫祭が大々的に行われた。


 すっかり傷の癒えた少年皇帝と、外の世界にようやく慣れてきた元巫女は、広場を一望出来る鐘楼から祭りの様子を眺めていた。


 木の根元に二人ですっぽりと納まった時のように、浅浮き彫りの欄干の間に腰掛けてくつろいでいる。


「初めて見た」

「私もです。こんなに人がたくさん……」


 明々と夜を染めるかがり火と、陽気な踊りの輪を、ソフィアは目を輝かせて見つめる。


 アルセイは眼下の光景などそっちのけでソフィアの横顔ばかり見ていた。


 彼の視線に気づいたソフィアが彼に笑いかけ、アルセイは彼女の肩を引き寄せた。


「……寒くないか」


 続いた言葉は肩を抱く口実でしかない。


 ソフィアの耳元でアルセイが囁いた。


「ソフィア、俺が生きている限り、この国には戦後しかない」


 炎が小気味よく爆ぜる音がして、喧騒が遠くに聞こえた。


 今宵は収穫祭――皆が収穫と平和を享受する夜。


「俺が生きている限り、次の戦は始まらないとお前に誓う」

「ぷっ……あははっ」


 ソフィアが可笑しそうに笑う。


「……何が可笑しい」

「だって、誓う相手が民ではなく私だなんて」

「悪いか」


 拗ねたような顔をしているが、ソフィアの肩に置かれた手が離れる気配はない。


 アルセイの鼻先がソフィアの頬にすり寄せられ、次いで少しかさついた唇がかすめる。


 ――次の戦は始まらないとお前に誓う。


 彼が終生その誓いを守り通したこと、数多の歴史書の語る通り。




(完)


ちょっとした後日談:


「俺たちは婚約したし、いずれ夫婦になる訳だから、二人の時はもう敬語はなしだ」

「ふーん、分かった」

「あ、もう行けるのか?」

「行けるよ」

「よし。呼び方も陛下じゃなくてアルセイだからな」

「あ、そっか……。分かった」

「よっ……呼んでみろ」

「え、理由もなく呼べない」

「そうか……」


※アルセイ考え中


「よし、俺の名を呼んで、何かねだれ。そしたら叶えてやる」

「え……」

「何でもいいぞ」


※ソフィア考え中


「思いついた」

「来い」

「アルセイと手をつなぎたい」

「……!」


むぎゅー


「え? アルセイ、手を……」

「うるさい!(///)」

「えええ~?」


みたいなん、よくないですか(,,>᎑<,,)

出会った時の、敬語じゃない二人の距離感いいな~って



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― 新着の感想 ―
[良い点] 素直に「理由」を考える所がかわいいですね。そして、「おねだり」もかわいい。 [気になる点] え、年頃の皇帝陛下、だいじょうぶ? だいじょうぶじゃないだろうけど、こんな可愛いの、目の前にして…
[良い点]  「俺が生きている限り、この国には戦後しかない」――、とてもいいフレーズでした。アルセイにそう言わせたソフィアは、やっぱり生まれながらの巫女だったのですね。出会うべくして出会った二人の未来…
[良い点] 「出直す」・・・出直すんだ!? 笑いました。 勝っても、次、と。誰も「終わり」を~ ← ええ、ほんとに! 笑い、ほっこり、切なさ、シリアスとてんこ盛りで、なんてお得な物語! [気になる点]…
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