「大人」
「大人」という概念について考える。「大人になる」というのは何をなすことなのだろうか。
たまに、人と「大人」について話すことがある。「大人」って何だろう、落ち着きがある人?余裕がある人?いつも結論は出ない。よくよく考えれば「大人」はぼんやりとしたイメージでしかない。「大人」なんて言葉を辞書で引いたことなどなかった。そんなことにも気づかないほど、人々の中で共通したイメージがあるのだろう。なら辞書を引いてみよう。どうやら、「考え方や態度が十分に成熟していること、思慮分別があること」だそうだ。私の考える限りでは、30歳を超えたあたりで人は世間から大人だと扱われるだろう。しかし、私はどうしてかそんな大人を見ても、「大人は案外子供だな」と思ってしまうのだろうか。
私は歳を取る度に、自分の憧れていた少し年上の「お兄さん」にはなれなかった。
幼いころの私にとって「お兄さん」は知的で、頼りになり、自由に見えるそういう存在だった。しかし、私が「お兄さん」と同じ年齢になった頃、私には、あの頃憧れていた「お兄さん」になれた自覚はなかった。私には、今の自分と幼い頃の自分との違いが分からなかった。説明できなかった。自分の体が大きくなった、難しい計算ができるようになった、その程度だった。「お兄さん」のように知的で、頼られ、自由になった実感はなかった。ずっとその繰り返しだった。中学から高校に上がった時、高校から大学に上がった時、私はあの頃のままだ、確かにそう思った。私の周りの同じ歳の人間もあの頃のままだ、ならあの頃憧れていた「お兄さん」はどこに消えたんだろうか。人は5年6年では成長できないのだろうか。私がいずれなる「大人」も大して成長していない私なのだろうか。
ふいに、大人が子供に見えたことがあった。微かな口論の中で私の話を聞いてくれないと感じた時、相手の持論を押し付けてきた時、なぜ人の話を最後まで聞かずに分かり合おうとしないのか、これじゃまるで我儘な子供じゃないか、そう思った。私が長年信じてきた「大人」の像はその時に崩れてしまった。そして、その時に気づいた。大人も、私が「お兄さん」になれない事の繰り返しの中にいるように、「大人」になれない事の繰り返しの中にいるのだろう。そこには少しの経験の差があるだけで、「お兄さん」も「大人」も本質は何も変わっていない。
結局、「お兄さん」も「大人」も各々の持つ理想でしかなく、確かな形は存在しない。この世に「大人」の明確なお手本が無いので、みな手探りで「大人」になるしかないのだろう。だから、いつも「大人」とは何かの結論が出ないのである。しかし、1つ分かったことがある。「大人になる」ということは、いかに自身の中にある理想の「大人」を捉えることができるかに賭かっており、常に理想の「大人」を意識し、追い求められるかである。
この世に確かに存在する大人というレッテルに引っ張られた自意識だけが大人なだけの者は、いつまでも「大人」になることはできない。