第二十五話「四面楚歌」①
思わず、歓喜の雄叫びすら上げそうになっていたのだが、顔面蒼白で耳のあったところを必死で撫で回しながら顔半分が血まみれになったホドロイを見ると、さすがに素直に喜べず、立ち上がると敢えて生真面目な顔をつくると、努めて冷静に声をかける。
「子爵殿……もう何も言わないでください……。もう、次はないでしょう。耳だけで済んでむしろ、幸運だったとお思いください……。今のは、敵のお情けで見逃されただけに過ぎません。奴らがその気なら、すぐにでも殺されていた……それが事実です。ここは潔く退きます! 早く乗ってください!」
「だが、血が……血が止まらんのだぁ……。早くなんとかしてくれ……頼むっ!」
ホドロイ子爵の怪我については、少なくとも致命傷は負っておらず、死に至るほどではないと判断していた。
ひとまず、布切れを手渡すと、傷口に強く押し付けるように指示を出すと、ホドロイ子爵も黙って言うことを聞くことにしたようだった。
「その程度では、人間、死にませんし、どのみち私では、これ以上はどうすることも出来ません。ですが、もう十分にお解りになったでしょう。ここは退きます。まだ進むつもりなら、もう止めません。勝手に死んでください!」
そこまで言われては、さすがのホロドイ子爵も自分が死地にいると理解したようで、青ざめた顔でドゥークの言葉に黙って従いほうほうの体で、ドゥークの馬に這い上がる。
「ソルヴァ殿、すまぬな……。我々はこれにて引き上げさせて頂くし、撤退については確実に執り行うとする……。子爵殿の怪我の件も、当然ながらそちらに責があるようなものではないので、不問とさせてもらう」
「ああ、そうかい。せいぜい、気をつけて帰ってくれ……。つか、コイルガンの矢を避けるなんて、マジで大した勘してやがるなぁ。ぜってぇ今の当たると思ってたんだがな……。子爵様も結局、無事だったみてえだし、獲物を取り逃がすなんて、俺ら大失敗じゃねぇかよ。まったく、有能な敵ってのはやりにくくていかんなぁ……そうなると、今夜は帰れそうもねぇって事だな。ああ、ホントめんどくせぇなぁ……。アスカ様も国境を越えて敵を殲滅せよって言ってくれれば話もはぇえんだがなぁ」
そんなソルヴァの言葉に改めて、向こうは相手が誰であろうが、有言実行で殺すつもりだということを思い知った。
そして、ソルヴァの言葉を真に受けるのであれば、彼らを留めているのは彼らの主君からの国境を越えるなと言う命令だけなのだろう。
手加減無用の用に見えて、彼らは十分手加減していたし、国境を越えないというルールを当たり前のように守っているだけ、こちらよりよほど、紳士的と言えた。
そして、ドゥークは改めて、自分の幸運……いや、神樹の加護に感謝したいと思った。
それと同時に奇妙な違和感にも気付く。
自分はいつから、神樹様の加護への感謝の祈りを怠っていたのかと。
そもそも、神樹の精霊ともなれば、神樹様の御使いであり、神樹教徒にとっては、本来ならば全てを投げ出して馳せ参じてもいいくらいの存在だった。
実際、そんな話はいくつも聞いていて、現在進行系で各地の神樹教徒達が教会の神官に導かれながら、神樹帝国を目指していた。
ドゥークも住民がまとめて神樹帝国へ移住した農村で、残った年寄がそんな話をしていたのを直接聞いていた。
もっとも、ドゥークはドゥークで、長旅が出来ないから残ったと言っていて、見せしめとして処刑するように命じられていたその年寄を教会にこっそり託したりもしていたし、お忍びで教会の礼拝に混ざることも度々あった。
本来、ドゥークはその程度には敬虔な神樹教徒であり、元はと言えば孤児だったところを神樹教会に拾われて、育てられた事でヴィルカインの姓も与えられていたほどだったのだ……。
何故、自分はここにいて、神樹の御使いへ仇なしているのか?
貴族達のプライドと利権を守るためと言う正義も何もない戦いに加担していたのか。
自分のすべてが崩れ去っていくような思いと共に、この場から全軍を引き上げさせる。
それこそが自分の果たすべき役目だと、固く信じることで、その違和感を拭い去った。
無言のままドゥークも子爵ともども、野営地に引き上げてくると、ホドロイの怪我の治療を支援部隊の医療兵と従軍神官へ託すとそのまま、総員起こしをかけて、全員を整列させた。
すでに従兵隊と支援隊も合流しており、それぞれ装具を解いたり、食事の準備を始めたりしていたようだが、そんな場合ではないと悟り、後ろの方に固まって列を作っていた。
とにかく、一刻も早くここから退き上げるのが最優先だとドゥークも判断しており、現状取りうる選択肢は即時撤退……それ以外はありえないと断じており、こうやって整列させている時間すら惜しいと感じていた。
「オーカス装甲騎士団、並びに従兵隊、支援隊の諸君に告ぐ、現時刻を持って我々は総撤退とする! これより、速やかに撤退準備を開始し、野営地も引き払い、夜のうちに出立するっ! 一刻も早くここから離れねばならん。撤退開始は一時間後、準備が間に合わないのであれば、装備類はすべてこの場に投棄していけ! これは騎士団長命令である……異論は許さんので、そのつもりでいろっ!」
たった一言、総撤退と言うシンプルな命令。
だが、その一言は衝撃を持って受け止められた。
「馬鹿な! ここまで来て、敵を目前に総撤退とは、どう言うことなのだ! 俺は納得いかんぞっ! 我ら装甲騎士団が敵と一戦も交えず退くなどありえん……せめて、納得の行く説明をさせていただいても、よろしいですかな? ドゥーク団長」
副団長のバフォッドが真っ先に抗議すると、そうだ、そうだと他の騎士達も騒ぎ立てる。
黙れこのバカどもが! と怒鳴りそうになるのだが、それはすんでのところで堪える。
激昂して怒鳴りあったところで、事態は全く好転しないし、その時間すら惜しい。
なにせ、この様子では当初予定していたシュバリエ市の奇襲包囲など論外で、進軍するにしても、あんな狭い街道であの化け物共と戦わねばならないのだ。
すでに先遣隊が全滅したことで、初めから50名足らずしかいなかった従兵隊は30名弱しか残っていない。
装甲騎士も5人もの戦死者を出したことで、すでにその一割を失い、しかもその5人は装甲騎士団でも指折りの精鋭だったのだ。
この時点で、すでにニ割の損害で、そもそも20名もの先遣隊が一人残らず皆殺しにあうと言うのは、この世界の軍事的には、ありえないほどの大損害であり、元々数の少なかった従兵、それも精鋭が15人も消えてしまったのは、あまりに痛すぎた。
ドゥークも自らの軽率さを呪いたいほどだったが、今更だった。
装甲騎士の損害は、まだ許容範囲ではあるのだが、こんな手狭な街道では装甲騎士など、いくらいても持て余すだけだった。
装甲騎士がその戦力を発揮できる平原となると、この先、シュバリエ市周辺にしか無かった……だからこそ、迅速なる戦略移動で、敵の対応速度を上回り、平原での決戦に持ち込むというのがドゥークの描いた戦略構想だったのだが。
敵はドゥークの想定すらも上回るスピードで展開し、ソルヴァのような最強戦力を惜しみなく足止めに投入し、今頃は街道沿いに十重二十重の迎撃網を作って待ち構えているに違いなかった。
ドゥークはそんな風に思っていたのだが。
実際は、アスカ達もかなり無理をしていたのだ。
本来、3日はかかる道程を僅か一日半で踏破。
さらに、その日のうちに国境を越えて先遣隊を送り込もうとしていたのだから、ドゥーク達の進軍速度はアスカ達にとっても驚愕に値した。
もっとも、状況を聞き、アスカの命を受けたソルヴァは取るものもとりあえずと言った調子で、部隊編成すら行わず、自ら単身出撃し、通常3日の距離を僅か一日で走り抜けたのは良かったのだが。
ソルヴァ達も当初は10名ほどで迎撃に向かっていたのだが、無事に国境ラインまで、たどり着けたのは、ソルヴァとモヒートだけで、他は道に迷ったり、道中で体力を使い果たしたりで、全く追従できていなかったのだ。
この辺りはシンプルに不慣れだっただけ。
人外の能力を与えられたと言っても、その体力には限度があるし、街道を昼夜を問わず最短距離で進むと言っても、簡単なはずもなかった。
先遣隊との戦いも当初は、ソルヴァとモヒート達がかろうじて先遣隊が国境を越える寸前で間に合っただけで、後追いでエイルが出撃させたエルフ弓兵隊が森の中の最短コースでギリギリ追いついたことで、なんとか返り討ちには出来たものの、降伏勧告やら手加減の余裕などソルヴァ達にもまったくなく、結果として皆殺しにしてしまったのだった。
ソルヴァ達がドゥーク達と遭遇した時点でも、その後ろには平原まで足止めの部隊一つまともに展開出来ておらず、割りと崖っぷちの状況ではあったのだが。
その報告を受けたアスカは、先遣隊を仕留めて、平原への敵の進出を阻止した時点でこの戦いは制したも同然と考えていた。
この迅速なる兵力展開と言うのは、アスカとドゥークの双方が揃って重視したもので、どちらも可能な限り早く対応した結果がこれだった。
アスカとドゥークは、先遣隊とソルヴァ達の戦いという形でしか、戦っていなかったが。
イニシアチブの争奪戦ということで、人知れず激戦を繰り広げていたのだ。
アスカも空からの索敵でドゥーク達の動向を掴んでいたものの、その進軍の速さには舌を巻き、オーカス装甲騎士団が平原に入り込まれる前に、なんとしてでも撃破すべく無理に無理を重ねる事となったのだが。
当然のようにアスカも、ドゥークの用兵を絶賛しており、それ故ソルヴァにも可能な限り生かして、出来ればスカウトを持ちかけるように命じていたのだ。
その程度には、ドゥークは将帥として、最善の仕事をしており、ソルヴァ達の展開が一歩遅かったら、苦戦の可能性もあったし、損害に構わずソルヴァに挑んで居たら勝利の可能性もあったのだが。
ドゥーク自身は危うく死ぬような思いをし、彼我の実力差を認識したことで、必要以上にソルヴァ達の脅威を認識していた。
だが、それは必ずしも非難されるような事ではなかった。
アスカも言っていたが、戦争において、敵を過大評価するくらいで、本来ちょうどいいのだ。
そもそも、伯爵のプラン自体が楽観想定の連続で、現実的なものとはとても言えなかったし、それ自体が軍事の専門家である軍人が制定したのではなく、伯爵が地図を眺めながら、想像を交えながら、素人なりに考えた程度のプランなのだ。
要は、こんな感じで制圧できたら良いな程度の願望を語った程度の段階で、軍事戦略としては本来、検討段階にすらない……そんな程度の話だったのだ。
そんな状況にもかかわらず、ホドロイはユーバッハの仇討ちに燃えていたこともあって、大言壮語を伯爵に語り全軍を動かすこととし、伯爵は伯爵で後のことは任せろと軽騎兵を後方支援として派遣する程度で、様子見。
他の領主も準備が整っていないと言う事で、揃って様子見。
要ははしごを外された格好で、情報も何もない中、敵地へ向かった。
ドゥーク達はそう言う状況でもあったのだ。
(何故、私はこんな体の良い捨て駒でしか無い戦いに賛同したのだ? 何故、私は今になってこんなにも冷静なのだ? そもそも、何故私はヴィルカインの名を与えられた事を忘れていたのだ?)
ドゥークの中では疑問ばかりが募っていた。
だが、ここに居るのがそもそも間違い。
その事だけは理解出来ており、なりふり構わず、この場を引き上げる。
それこそが最善であると断定していた。
「……この先には、化け物がいる。先遣隊はたった二人を相手にして全滅していた。奴らがその気になれば、ここにいる総員で掛かっても、恐らく皆殺しにされる。だが、奴らは話が解る奴らのようで、国境線を越えるつもりもないらしく、今すぐにここから引き上げれば、見逃してくれるそうだ。だからこの場は潔く退く……ホドロイ子爵殿もそれでよろしいですな?」
反発は承知だったが、議論している時間も惜しかった。
今も周囲の暗がりに、エルフ達が潜んでいて、皆を狙い撃ちをしている可能性もあるのだ。
そして、こちらが交戦の意思を示した瞬間にも撃ってくる可能性もある。
敵には、その能力があり、そうするだけの理由もあった。
だからこそ、その可能性はゼロとは言い切れない。
ドゥークはもはや、そんな事を思うほどに心理的に追い詰められていた。




