第九話「集う正義」①
……それから十分後。
市場で、氷の浮かんだタライでキンキンに冷やされた革袋入の井戸水を買い、ようやっと戻ってきたソルヴァは思わず、呆然としていた。
「店主……アスカは……さっきの子供はどこ行った?」
誰もいない石のベンチ。
石畳の上には、彼女が脱いだままのサンダルだけがぽつねんと残されていた。
「どこって……そこに……って、いねぇえええっ! す、すまん! ちょっと、まとめて客が来てて忙しくて、つい目を離しちまった! でも、目を離してたのも、ほんの一瞬だったんだ! い、一体どこへっ!」
……少しくらいなら大丈夫だろうと、すっかり油断していたが。
アスカは狙われない方がおかしいくらいには、目立つ存在だった。
だからこそ、ソルヴァも一瞬たりとも気を抜かなかったし、周囲もよく観察していたのだが……。
ソルヴァ達の事情を知らぬ赤の他人の屋台の主人にそこまで期待するのは酷な話だった。
好奇心の赴くままに一人で、ふらふらとうろついている可能性。
それは低いと考えられた。
彼女は、見た目以上に聡明で意外と慎重なところもあり、警戒心も強いように見えた。
だからこそ、独断で右も左も解らないまま、そこらをウロウロするとは考えにくかったし、なにより、アスカがサンダルを忘れて、そこらを歩き回るとは思えなかった。
彼女は、ソルヴァがその辺りの木のつると動物の革から作った、この手創りサンダルをいたく気に入っていたのだ。
ソルヴァとしては、履物もないのではかわいそうだと思って、即席で作ったいい加減な代物だったのだが。
彼女の価値観では手作りというのは、大変な贅沢品だとかで、大喜びしていたのだ。
もっとも、ソルヴァに言わせれば、手作り以外のサンダルなどどこの世界にあるのだ? と思っていたし、アスカは万事が万事、そんな調子だった。
サンダルを放置したままベンチに座っていたのも、水路の水で汚れた足を通したくないのだろうと思っていたし、そもそも、これを置いたまま勝手に何処かにいくのは、短い付き合いながらも彼女の性格をなんとなく解ってきたソルヴァでも考えにくいと思っていた。
そうなると……。
誘拐された可能性が濃厚だった。
……店主は何も見ていないようだったが、他の者なら或いは……。
そう気づくなりのソルヴァの行動は早かった。
「おい! そこのお前! 何か見てなかったか! そこにいた……子供はどこへ行った!」
屋台の側で買ったばかりの串焼き肉を美味そうに頬張っていた冒険者風の若者達の一人の襟首を掴みながら、鬼の形相で迫るソルヴァ。
「ひぃっ! えっ? ソ、ソルヴァさん? え、えっと……な、何の話です? よく解んないんですけど、多分、俺は関係ないですよっ!」
ソルヴァはそれなりに顔も知られていて、この街ではそれなりの有名人だった。
特に冒険者ならば、その名と顔を知らないものは居ないほどだった。
その有名人が血相変えて、襟首つかんで殴りかからんばかりの勢いで迫るのだからビビるのは当然だった。
「関係なくはねぇだろ! なぁ、さっきまでそこのベンチに子供が座ってただろ? 何処へ行ったか見なかったか? ああっ! 何度も言わすんじゃねーぞ! こんちくしょうがっ!」
……若者にとっては、はた迷惑な話だったのだが。
ソルヴァとて必死なのだ、もはや手段なぞ選ぶつもりはなかった。
「こ、子供? そ、そんなのいたっけ……なぁ、何か知らねぇかっ!」
「あ、そ……その子供? 俺も見てないです……けど……。あ、でも! そう言えば、変な麻袋を背負ってあっちへ向かって走っていくやつは見ましたよ」
隣りにいた、もう一人の魔法師風の若者が怯えた様子で答える。
襟首を掴んでいた若者を無造作に投げ捨てるように解放すると、今度は魔法師風の若者へとズンズンと迫るソルヴァ。
「……どれくらいの大きさの袋で、ソイツはどこへ向かった? 若いの……隠すと、あまり為にならんぞ? ああっ?」
……なんで怒ってるのかすら、よく解らなかったが、鬼気迫るとは、まさにこのことだった。
その魔法師風の若者も勢いよく頷くと自分が見たままを話すことにした。
「えっと! ……結構デカい麻袋でしたよ。確かに子供一人くらい入ってそうな大きさで……」
そう言いながら、袋の大きさをジェスチャーで示す。
若者も通りの端っこを、やけに大きな袋を背負って走っている大男を見て、不審には思っていたのだ。
「どこだ? 何処へ向かった? さっさと白状せんかっ!」
「えっと……。だから、あっち……広場の方へ走っていきました。そういや、身なりも妙に小汚かったし、ありゃスラムの奴かも……」
そこまで聞いて、ソルヴァもピンと来るものがあった。
……子供を問答無用で麻袋に突っ込んで、白昼堂々と攫う。
スラムのならず者の常套手段だった。
街に入って、ものの一時間足らず。
ほんの十分程度目を離しだけで、いきなり誘拐されるとは……。
ソルヴァも保護者を自認しておきながら、何たる不覚! と思わず天を仰ぐ。
だが、こうなると為すべきことはただ一つ!
アスカは一見、子供のエルフにしか見えないのだが。
その身体能力の時点で、軽く人間離れしていた。
ジャンプ一つで、軽く屋根の上の高さまであるような木の枝に飛び乗り、尋常ならざる速度で走り回り、ソルヴァの重剣ですら、余裕で振り回していた。
しかも、剣術など嗜んでいる様子など全く無かったのに、剣を持たせると無駄のない洗練された動きで、むしろハンマーなどに近いと言われるような重剣にも関わらず、それに振り回される様子もなく、軽々と扱って、なかなかいい剣ではないかと一言。
実際、初めて会った時も、来ると告げてから、ものの30分程度で空から降ってくるように現れたのだ。
神樹と現場の距離を考えると、軽く半日はかかる距離で、どう考えても計算が合わなかったのだが。
身体から蔓を出して、木から木へ飛び移り、地面に降りたら降りたで、凄まじい速度で走り回れるうえに、そのスタミナは無尽蔵……と言うのを知って、そこら辺は納得した。
……もとより、人族では、束になっても相手にもならない程には高い戦闘力を持っているようだった。
そんなアスカが自らに受けた仕打ちに、怒り狂って本気を出して暴れる。
恐らく、それはもう悪夢と言えた。
あの盗賊団のように、片っ端から縛り首……或いは撲殺か。
スラムは地獄絵図と化すだろう。
……こうなれば、騒ぎになる前に、誘拐犯のところに殴り込んで救出する。
その方がよほど、誘拐犯にとっても幸せな結末になるだろう。
いや、これはもう……ソルヴァにとっては、成すべき義務と言えた。
ソルヴァもアスカが自分に正義の味方と言う役柄を期待しているというのは、薄々解っていたし、ある種の憧れのような感情で自分を見ていることに気付いていた。
まぁ、その感情は恐らく、正義の味方に憧れる子供のようなもののようなのだが。
だからこそ、子守などと言う役柄を自ら率先して引き受けたし、保護者役を買って出たのだ。
そして、ソルヴァも自分が憧れながらも、忘れかけていた正義の心を呼び戻してくれた事に深く感謝していた。
(であればこそ、ここで尻込みするなど正義失格であろうっ! やるしか……あるまいっ!)
だが、ソルヴァは慎重な男でもあった。
いずれにせよ、まずは戦力がいる。
だが、頼もしき仲間たちはしばらく合流できそうもない。
この状況で一人で動くのは得策ではない……武器や魔法の取り扱いに長けたそんな者達。
冒険者にでも、協力させるのが一番だった。
そう言う事なら……いるではないか、目の前に。




