第十九章「二日酔いの朝と、優しき元カレ」
ああ、頭痛い……溜め息交じりで瞼を開くと、見慣れぬ天井が見えた。えっ……ここどこ? ベッドから起き上がると、ぼんやりとした頭で辺りを見渡した。
明らかに自宅とは違う、清潔感のある広々とした部屋――間違いない、ここはホテルだ……途端に嫌な予感が頭に浮かんできた。
昨日はざんざん降りの雨のなか、傷心の私は元カレに遭遇した。珍しく泣き顔を見せたアラサー女。そんな私をあいつは優しく抱きよせてきた。弱った乙女につけ込むとは、全くもって卑怯な男である。
そのあとは、あいつの行きつけのBARで軽く飲もう、という話しになった。BARのマスターはとても優しく、雨に濡れた私にタオルを貸してくれたのを覚えている。
それでそのあとは、ええと……だめだ、テキーラを一気してからの記憶が全くない。私って女はまた性懲りもなく……。取りあえず、現時点ではこの部屋には私一人のようだ。
だからといって安心はできない。なぜなら、いまの私はあの日と同じように生まれたての姿なのだ。あの状況で泥酔――傷心の私は元カレに優しくされて……もしかして、やっちゃった?
「ああっ、もうっ、なにやってんのよっ!」
頭をかきむしりながら大声で叫んだ。それと同時に胸のムカつきが襲ってくる。ダッシュでバスルームへ直行――危なかった……もう少し遅かったら、完全に間になってなかったわ。取りあえず吐き気のほうは治まってくれた。口をゆすぎながら、私はなにげに鏡に映る自分に目を向けてみた。
最悪だ……っていうか誰これ? そこには醜くメイクが落ちた、アホ面のアラサー女が佇んでいた。取りあえずはクレンジング――程なくして、まっさらなお顔に戻った。部屋に戻ると、手早く散乱していた服に着替える。ふとテーブルに目を向けると、二日酔いのドリンクが置かれていた。
誰が置いていったかは明白。付き合っていた時は、こんなに気を回す男じゃなかったのに……私はそう思いつつ、ドリンクを手に取り一気に煽った。なにげに時計に目を向けると、時刻は10時20分を示している。
完全なる遅刻。明日は課長から、有りがたい叱責を受けることであろう。そう考えると自然とため息がこぼれだしてくる。ちょうどその時だった、ベッド脇に置いてあったスマホが着信を告げてきた。液晶画面に目を向けると、そこには消去したはずの見慣れた番号が映しだされている。
「……もしもし」
「二日酔いのほうはどうだ?」
「おかげさんで、まあなんとか……」
「そりゃ良かった」
全然良くないっつうのよ……ってゆうか奈々、まさかとは思うけど、あんたこいつに余計なことしゃべってないでしょうね? もしそうなら、赤面どころの騒ぎじゃないのよ? それこそ切腹ものの生き恥を、これから一生背負っていくことになるんだから。そこんとこ分ってるわけ? もう一人の私がぐいぐいと責めたててくる。
けどそうはいわれても、覚えていないものは覚えていないのだ。よしっ、ここは一つなに気なく探りを入れてみるか……とはいうものの正直、怖くて聞けない。怖気づいちゃダメ。ファイトよ、奈々っ! 私は相方に勇気づけられると、恐る恐る口を開き始めた。
「あ、あのさ……昨日なんだけど、私ってあんたになんか変なことしゃべらなかった?」
「変なことって?」
「変なことは……変なことよ」
「変なことねえ。そうだなあ……いいや、特に変ったことはいってなかったけど」
「ほ、ほんとにっ?」
「ああ」
良かったあ……どうやら最悪な展開だけは免れたようだ。まあ、いくら記憶がぶっ飛ぶほどに酔っていたとはいえ、流石に私もそこまでバカじゃないわよね。よしっ、取りあえずは第一関門はクリア。続いて第二関門だ。
「私さあ、ちょっと記憶のほうがぶっ飛んでるんだけど……」
「まあ、あれだけ飲めばそうなるだろうな」
「そ、そんなに飲んでた?」
「ああ、マスターも引いてたよ」
それなら黙って見てないで止めなさいよっ! スマホから聞こえてくる冷静な声が、私の苛々に拍車をかける。もういいや、回りくどいのはもうヤメだっ! ここは博多女らしく、潔くズバッと聞こう。
「私いま真っ裸なんだけど、もしかしてあんたとやっちゃった?」
「はははっ、随分と直球だな。少しは恥じらいってもんをだせよ」
「そんな奥ゆかしいもん、私にはもうないのよ。 で、どうなの?」
私は再度、篤志に問いかけた。すると電話の向こうの元カレは暫く黙りこんだ。そして数秒後、溜め息と共に口を開いた。
「まあ、俺はそのつもりだったけど」
「ど、どういう意味よ」
「酔い潰れながらも他の男の名前を口にされたら、こっちだって流石にその気も失せるさ」
”他の男の名前” 青――私はあの子の名前を口にしたんだ。額に手を当てると、小さく溜め息を漏らした。
「……ごめん」
「謝るなよ、余計にへこむだろ」
おどけるように篤志はいった。恐らく電話の向こうでは、自嘲した笑みを浮かべていることだろう。
「あの坊やと、なにかあったのか?」
「相手は子供よ……なにかあるわけないじゃない」
「そっか……」
篤志はそういうと、先程と同じく暫く黙り込んだ。気まずい沈黙が受話器を通して伝わってくる。そんな空気を打ち消すかのように、元カレは静かに口を開いた。
「悪いことはいわない。もうあんな無茶な飲みかたはするな」
「……うん」
「それじゃ、寂しくなったらいつでも連絡をくれ」
「どさくさに紛れて……ほんと、どの口でほざいてんのよ」
「はははっ、そうだな」
でも……ありがとう。私はそう心の中で呟くと、出世欲の塊でしかも利己的な……だけどときには優しい元カレとの通話を終えた。
翌日の空は雲一つない晴天に恵まれた。こんなにもお天道様が出ているというのに、外は嫌がらせのように寒い。どうやらこれが放射冷却現象というやつらしい。
寒がりの私にとっては、まったく迷惑な現象である。いつものようにスヌードに顎を埋めながら、怒り心頭な課長が待つ会社へと私は歩みを進めた。
出社と同時に始まった課長からの粘っこい叱責は、流石に堪えた。だがここ数日のどんよりとした気持ちは、不思議と綺麗さっぱりなくなっていた。どうやらあのどしゃ降りの雨と、記憶が飛ぶほどのヤケ酒が洗い流してくれたようだ。
自分でいうのもなんだが、相変わらず単純である。というわけで、これではれて飯食いアラサー女の復活ということだ。さあてと、今日はなにを食べよっかなあ。私はそう思いつつ、親友と共に社食へと向かった。
「どうやら、ふっ切れたみたいね」
有紀はアジフライに箸を伸ばしながら、私の顔を覗きこんできた。相変わらずこの親友は勘が鋭い。私はそう思いつつ、有紀に視線を合せた。
「因みにどうしてそう思うの?」
「あのねえ、どうもこうもなわよ。あんたこないだとはガラッと変わって、今日はおもいっきりサバ味噌がっついてんじゃないの」
なるほど、この親友が鋭いのではなく、たんに私が分かりやすいだけの話なのだ。
「この度はいろいろと、ご心配をおかけしました」
「ったく本当よ。取りあえず謝罪はいいから、今度なんか奢んなさい」
「へいへい」
数日ぶりの美味しい昼食と親友との会話。やっぱり食事は ”楽しく” じゃなくちゃ。私はそう思いつつ、サバ味噌を豪快に頬張った。
時刻は20時3分。課長から仰せつかった残業がようやく終わった。流石に今日は定時で帰れるとは思っていなかったので、その点については問題ない。ロッカーで着替えを済ますと、私は足早に会社をあとにした。
相変わらず寒い……こんな日は、お鍋が恋しくなる。でもこれから準備をするのは面倒だ。というわけで、こういうときは近所のコンビニおでんにかぎる。私はにんまりとしながら、小走りで駅へと歩みを進めた。
こだわりたまご、味しみ大根、つゆだく白滝、なんこつ入り鶏つくね串、つゆだくがんも。あとは、ええと……ああっ、味しみ牛すじ串は欠かせないわねえ。
今夜のメニュー選びに余念のないアラサー女。あれこれ悩みながら、近道の公園を通り抜けていると、聞きなれた声に呼び止められた。振り返らずとも相手が誰であるかは分かる。
さよならもいわずにいなくなったかと思えば、なんの連絡もなしにいきなり現れるんだから……ったく相変わらず自由奔放なやつだ。私は小さく微笑むと、溜め息を漏らしながら振り返った。




