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第一章 「人生最悪な夜」

「もう嫌……死にたい」

 

 胃から送られてくる酸っぱいヤツと戦いながら、私は自己嫌悪と共にベットに横たわっていた。短大を卒業して要領よく外資系の企業に入社。日々の仕事を適当にこなし、ありきたりだが幸せな生活を謳歌していた、アラサー28歳。


 そんな普通の私がこともあろうか、全裸のまま美少年の前でゲロを吐いてしまいました。しかも彼は嫌な顔一つせずに、私がリバースした物の後始末までしてくれた。そして現在は具合の悪い私の為に、甲斐甲斐しく二日酔いの薬を買いに出てくれている。無理やりこの鬼畜女に喰われたというのに……そう考えると罪の意識が、急激に胸の中で膨らんでゆく。


「責任取ってよ」

 

 あの子はさっきそういっていた。この場合、責任ってどう取れば良いんだろう? 男なら結婚でもするんだろうけど……でも私は女でしかもごく普通のOL。あの子を養うにはちょっと先立つものが……。


「はあ……」


 私は胃酸と共に酸っぱい吐息を漏らした。一体どうしてこんなことに? 考えるまでもない。原因は分りきっている。そうよ、全てはあの野郎のせいだっ! 瞼を閉じると、あのすました憎たらしい顔が浮かんでくる。そう、ことの発端は同期の清水有紀と社食で昼食を摂っている時に起こったのだ。


大好物の海老フライに箸を伸ばそうとした時だった、テーブルに置いていたスマホにLINEのメッセージが届いてきた。相手は飯塚篤志、私の男だ。

 メッセージには ”大事な話がある。今日会えないか? ”とあった。いつもと同じ素っ気ない文章だけど……大事な話? えっ! これってもしかして。

 

 付き合い始めて、もう3年の月日が経つ。女28歳。私もそろそろ結婚適齢期だ。そう考えると……うん、その可能性は十分過ぎるくらいにある。私は少し迷ったが有紀に意見を求めてみた。


「間違いないわね」

 

 有紀から返ってきた答えは、私の予想と同じものだった。というわけでそのあとは ”プロポーズ” の言葉が頭の中を駆けめぐり、全く仕事が手につかなかった。まあ、幸いなことに責任のある仕事は任せられてないので、全く問題はないのだけど……。




 17時30分。本日の業務終了。同僚たちとのお喋りもそこそこに、私はトイレへと直行した。そして入念にメイクを直してゆく。アイシャドウOK。ナチュラル眉OK。

 チークOK。小鼻のテカりなし。潤いたっぷりのぷるるん唇。所要時間10分。よしっ、完璧っ! 私は心の中で呟くと、急ぎ足で待ち合わせのカフェへと向かった。


 さてプロポーズの答えはどうする? やっぱり定番の涙を浮かべながら即OK? いいや、それも芸がないなあ……じゃあ、数日焦らしてから篤志を呼び出して ”これからも、末永くよろしくお願いします” といって慎ましやかにお辞儀でもをする? 

 うーん、ないな。私はそんなキャラじゃない……まあ、どっちにしてもOKはするんだけどね。カフェへと向かう道中、そんなことをあれこれ考えていると、目的地にはすぐに到した。


 店内に入ると、篤志はすでに窓際の席に腰を下ろしていた。いつもより少し緊張気味の顔……表情の乏しい彼には珍しいことだった。やっぱりこれは間違いない。さてと、それではいざ出陣だ。


「お待たせ」

 

 私はなに気なさを装いながら篤志の向かいに腰を下ろすと、現れたウェイトレスにホットコーヒーを注文した。

 今日も寒いわね、などと当たり障りのない言葉を並べながら、私は彼が切り出してくるのを待った。

 

 暫くすると、注文したコーヒーが運ばれてきた。店に入って5分程が経過している。相変わらず目の前の男は、難しい顔をしたままだ。うーん……仕方がない、こっちから切り込むか。


「それで、大事な話ってなんなの?」

 

 私は小首を傾げながら、篤志の顔を覗き込んだ。すると彼はコップの水で喉を潤すと、意を決したように静かに口を開き始めた。


「俺と別れてくれ」

 

 はあっ、いまなんと? 驚きの余り声が出ない。突然の出来事に目の前が真っ暗なる。喉はまるで砂漠にでもいるかのように、からっからに干上がっていた。

 でもそんな私のことなどお構いなしとばかりに、目の前の男は業務報告でもするかのように淡々と話を進めてゆく。


「実は中村専務のお嬢さんと、今度見合いをすることになったんだ。だから――」

 

 別れの理由――それは上司の娘との縁談が原因だった。断れば出世コースから外れる。逆にお受けすれば、輝かしい未来が待っている。要するにこの男は、出世に目がくらみ私を切ろうとしているのだ。

 冷たいところがあるのは、以前から知っていた。出世欲の強い仕事人間なのも知っていた。だけどそういうところも全部ひっくっるめて、彼のことが好きだった。


「奈々には本当に悪いと思ってる」

 

 そりゃ、そうでしょうよ。これを悪いと思わないないで、一体なにを悪いと思うのよ。こういう時に、涙の一つでも流せれば少しは結果が変わるのだろうか?……だけど可愛げのない私は、そんな簡単なことが出来ない。


「そんな棚ぼたな出世の道に、一体なんの価値があるの?」


「俺は使えるコネは、なんでも利用する主義なんだ」


 悪びれる様子もなく、サラッといってのける。相変わらずの開き直り体質。心変わりの可能性はゼロか……私は席から腰を上げると、静かに篤志を見下ろした。

 もう見ることのない、涼やかな目元。大好きだった華奢で綺麗な指……。


「それじゃ、専務のお嬢さんとお幸せに」


「水くらいかけたらどうだ?」

 

 篤志はそういって、テーブルのコップを静かに見つめた。利己主義者が珍しいことを……でもその手には乗らない。


「悪いけど、そこまでヘコんでないから」


 精一杯の強がり……それはアラサー女の最後のプライドだった。


「それじゃ」


「いや、ここは俺が――」

 

 私がコーヒー代をテーブルに置いてその場をあとにしようとすると、篤志はすかさず口を開いた。


「あんたに奢られる(いわ)れはもうないわ」


「そっか……まあ、そうだな」

 

 暫しの沈黙のあと、彼は苦笑いを浮かべて頷いた。そして私は飲んでもいないコーヒー代を残し、涙一つ流さずにもう二度と来ることのないカフェをあとにした。

本当に大好きだった……。

 頭の中に浮かんでくるのは、楽しい思い出ばかり……でも最後の言葉なんて意外とあんなものだ。私は溜め息を漏らしながら、昨夜の回想から帰還した。

 

 ヤケ酒の原因――それは3年物の男に、あっさりと捨てられたからだった。しかもこっちはてっきりプロポーズされると思っていたんだから、そのヘコみ方は倍返しで襲ってきた。

 ったく人生ってほんと上手くいかないわ……私はそう思いつつ酸っぱい胃液と共に、一人きりのベットで久々に大声を出して泣きじゃくった。







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