喘息少女
私は生まれつき、重い喘息を患っている。
食後に飲むお薬が無ければ、軽い運動で息切れを起こし、必死に息を吸って、吐いて、それでもずっと苦しい。
ホッキンスは私を拾ってすぐにお薬を手に入れ、手に入れ続けられるようにし、そして私に与え続けた。
お薬があっても、少し走れば息が上がる。
喉にある空気の通り道がはれ上がって狭くなり、呼気も吸気も出来なくなる。
少し休めば収まるものの、私には他の子と比べて元気で居られる時間は、ほとんどなかった。
九歳になったとき、私は困った。
荷物持ちは出来ない。
私が息を切らさずにこなせる家事もほぼない。
何の役割も無いまま養われていた今までの私ではいられなくなったというのに。
何の役にも立たないということは、どこにも居場所が持てないということなのだと、この時になって初めて理解した。
そんな私に、ホッキンスはまた新しいお薬を与えた。
新しいお薬と、それ用の吸引機だ。
新しいお薬は、すごかった。
吸引口を口に当て、思い切り強く、一息吸う。
それだけで、それから半刻は苦しくならない。
喉が狭まることがない。
走れるし、跳べるし、大声を出せる。
息は上がるけれど苦しくはならない。
今までずっと私にのしかかっていた重い喘息からたったの半刻とは言え解放され、その間にチャーリーに技術を教わるようになった。
最初に習ったのは、フィンガーループの使い方だったかな。
レンファンス幽霊屋敷の衣装部屋で、可哀そうな魔族の女の人四人と一緒に過ごす。
簡単な質疑応答をしていれば夜になる。
夜になったら動き出すつもりだし、それまではやることも無さそうだ。
「あなたは?」
「バルメ」
「さっきの子は?」
「安全な場所に預けてきた。後で合流できる」
「何をするつもり?」
「見ていればわかる。あなたたちは動かずじっとしていればいい」
これではあまり答えている意味が無いような気がする。
そもそも教えられることが少ないのもある。
狭い部屋で、廃屋だからか埃っぽい。
お薬を飲んでからそれなりに時間が経っているせいもあって、息が苦しい。
喉がヒューヒューと鳴り始めた。
もう一錠お薬はあるけど、今飲むと夜明け前までは持たない。
飲むタイミングは考えないといけないだろう。
「大丈夫?」
「問題ない」
服の袖で鼻と口を覆い、埃をなるべく吸い込まないようにしつつ、目を閉じて呼吸に集中する。
埃は嫌いだ。
埃を吸って咳を一回でもしてしまったら、一層喉が閉まって苦しくなる。
周りの魔族の女の人達も質問するのを止めてくれた。
夕方になり、私は静かに衣装部屋を抜け出した。
目的はガラマンダラズの構成員と、頭領のガラとダズの居場所を把握しておくためだ。
夜明け前の少し前にガラとダズをここから引き離す以上、居場所の把握ぐらいはしておかないといけない。
喘息のお薬が切れているので、ここはかなり慎重に行く。
そっと階段の手すりに身を寄せ、近くの物音に集中してみる。
……二階に二人いる。
一回にはガラとダズと後何人か。
屋敷周辺の見回りに一人か二人出していると仮定すると……
聴覚には自信がある。
壁越しに人の息づかいを感じ取るくらい。
だから下の階に居る野盗たちの会話ぐらいなら、ここからでも拾うことが出来る。
「いいじゃねぇか。明日にはここ出るんだろ?」
「売値が安くなったらどうすんだよ」
「別にさがりゃしねぇよ。性奴隷売るわけじゃねぇんだから」
と言う下種な会話が聞こえてきた。
なるほど。
彼らは積み荷を売る前につまみ食いするつもりらしい。
想定外だけど、これは私の見通しが甘かったというだけだ。
このままガラとダズと、他の構成員の居場所を把握するつもりだったけれど、そうもいかなくなった。
それどころか、私まで……
「……もう、いいか」
どうせチャーリーたちはガラマンダラズの構成員を殺すんだろう。
殺さなかったとしても、奴隷として売り払うに決まっている。
違法に魔族を奴隷としてテレジッドに売ることが、どれだけホッキンスの怒りを買うのかを示す、いい見せしめになる。
「売り物に手を出すくらい飢えてるなら、相手をしてあげる」
私は踵を返し、お腹に巻いていたフィンガーループを緩めながら、四人の女の人の待つ衣装部屋に戻る。
怯えた八つの目が私を見る。
私はカヒュー、クヒューと喘鳴を漏らす。
狭い衣装部屋の隅で、肩を寄せ合って怯えているのは、ガラマンダラズの積み荷の四人の女の人だ。
「そんなに、怖がらなくても、いいのに」
私の立場としては、あなたたちを助けに来たんだけど。
一切説明の類はしてないけど、それくらいは伝わっていると思う。
現に一人は逃がしたわけだし。
「……ッギ……グ」
さっきからずっと藻掻いていたガラマンダラズの構成員の一人が、静かになった。
首に絡まった紐を解こうと必死になっていたようだけど、呼吸が出来ずに窒息して意識を手放した。
積み荷である魔族の女の人は五人。
ガラマンダラズは明日、ガガンの町で積み荷を売る前に、つまみ食いをしようと五人でこの部屋に押しかけた。
今は全員洗濯物のように天井の梁に吊るされてる。
と言うか、私が吊るした。
なるべく静かに済ませたけれど、武器を抜いて、そのまま私を斬れずに床に落としたりして、それなりに音は鳴った。
それでも他の構成員は見に来ない。
ちょっと激し目につまみ食いしてると思ってるんだろう。
まさか衣装部屋に向かった五人が、全員テルテル坊主になっているなんて思いもしない。
ああ、苦しい。
お薬飲まずにやるべきじゃなかった。
まぁ飲んでいたとしても、効き始める前にやっていただろうけど。
残りの構成員は三人。
頭領のガラとダズは下の階に居るとして、二階にいる二人のうち一人はここで吊るされているから、二階にいるのはあと一人。
一階にガラとダズと残りの二人がいる感じだろうか。
屋敷の周りの見回りに一人出しているなら、ガラとダズを含めて、この屋敷に残っているのは四人ということになる。
「……ああ、でも、どうしよう」
お薬が切れたまま五人を吊るしたせいで、本格的に呼吸が苦しい。
持ってきた最後のお薬を飲むしかない。
それでもお薬が効き始める前に、ここに他の構成員やガラとダズが現れたら、私は何も出来なくなってしまう。
少し考えた後、私はお薬を飲んだ。
それから衣装部屋の扉のすぐ横に座り込んで、お薬が効いてくるのを待つ。
いつでも吸引機を使えるようにして、お薬が効く前にこの部屋に誰か近づいてきたら、すぐに使ってなんとかする。
本当は夜明け前までおとなしくしているつもりだったのに、こんな行き当たりばったりになってしまった。
困った。
お薬が効き始め、ようやく普通の呼吸が出来るようになった。
今のところ何も起こっていない。
運がよかった。
私は立ち上がって、衣装部屋を出る。
出る時はちゃんとドアの軋む音を立てる。
歩くときは、あえて床を鳴らす。
そろりそろりと見つからないように。
気付かれるように。
そっと一階に降りていく。
人の気配はちゃんとする。
その気配のすぐ横を通り過ぎる。
ガラとダズはリビングにいるようだった。
まだ見つかるのは早い。
見られないように通り過ぎる。
そして玄関にたどり着く。
そして、あえて強く玄関扉を押す。
ガンッと鍵のかかった扉が鳴る。
私の手は慌てたように扉の鍵をガチャリと開くと、後ろから怒声が鳴った。
「何してやがる!」
ビクリと体を震わせ、ガバリとそちらを振りむけば、野盗の一人と目が合った。
「おい脱走者だ! 餓鬼が逃げてやがる!」
ここでいきなり私に向かって突っ込んで来ていたら少しだけ困っていたけれど、こいつは冷静に仲間を呼んだ。
だからその隙に扉を開けて屋敷を飛び出す。
「待てこの餓鬼!」
「逃がすな! こんな場所で捕まったら終わりだぞ!」
野盗の慌てた声を背中に受けながら突っ走る。
玄関を出てすぐのところにある柵は閉じていて、閂はさび付いていて開きそうにない。
よじ登って超える。
「他の女どもは逃げてねぇだろうな!」
「上で他の奴とお楽しみだよ!」
「じゃあなんであいつだけ逃げてんだ!」
「知らねぇよ! 餓鬼だからほっとかれてたんだろ!」
後ろから合計四人の声。
多分屋敷に居た残り全員だ。
あと一人は多分……
「おい! そいつ捕まえろ!」
フェンスを越えた瞬間、建物の陰から一人現れた。
周辺を見回っていた一人だ。
これで五人。
陰から現れた一人の手を掻い潜って逃げながら振り返る。
すると予想通りと言うか、頭の悪いことにと言うか、五人全員で私を追いかけてきていた。
ということは、この五人の中に頭領ガラとダズが混じっていることになる。
喉が締まる。
息が辛い。
でも今は逃げなくちゃ。
全速力さえ出せれば、簡単に振り切ることが出来るのに。
喘息さえ無ければ……
なんてね。
私はとうとう追いつかれた。
屋敷から必死で走って逃げて、ガラマンダラズの残り五人は私をひたすら追いかけて。
そしてこの人気のない場所にたどり着いた。
湿った冷たい空気が淀んで重く、私の締まり切りそうな喉をさらに締め上げる。
苦しい。
限界。
とうとう仰向けに倒れ込んでしまえば、随分と楽になっていく。
重くなった手足に血が巡っていくような感覚。
私はポケットから……
「てこずらせやがって」
「ま、人の居る場所に逃げ込めなかったのが運の尽きだったな」
汗だくになったガラマンダラズが、倒れ込んだ私を見下して、下卑た笑みを浮かべている。
屋敷で残りの五人が仲良く死んでいることも知らずに。
暢気ね。
「おい」
「へい」
一人が私を顎で指してそう言えば、もう一人が私を担ぎにやって来る。
なるほど。
おい、と言った方がガラかダズのどちらか。
一人が私を担ごうと近づいてくる。
カツカツと靴音を、薄暗く、狭く、汚い道に響かせている。
うつ伏せに倒れている私では、その姿をよく見ることは出来ない。
でも足音から距離は測れる。
三。
二。
一。
ガンッ! と大きな音が鳴る。
道の脇に置かれていた、中の詰まった重たいゴミ箱が飛び上がった音だ。
「あ?」
高く飛び上がったゴミ箱は、そのまま重力に引かれて落ちていく。
その様子を、きっと五人そろって、ぼんやり見ているんだろう。
ゴミ箱は、もう落ち始めている。
ジリジリジリと紐がこすれる音が聞こえる。
仕掛けた罠は、ちゃんと動いた。
口角が上がる。
ゴミ箱を吊り上げた紐が、今度はゴミ箱に引っ張られる。
ヒュボッという音と共に、私を担ごうと近づいてきた野盗の一人に襲い掛かる。
「グァッ!」
そのまま首に巻き付いた紐は、ゴミ箱の重さで首を引っ張り上げる。
吊り上げる。
ガッシャンと激しい音を立ててゴミ箱が落下する。
中身の詰まった重いゴミ箱だ。
勢いよく引かれた一人は、一瞬空中を踊る。
「な、なんだ! トラップか!?」
今になって気付いても、もう助からない。
もう一度、紐で縛られたゴミ箱が飛び上がる。
首を釣られた一人が落ちて、またゴミ箱を引っ張ったから。
ゴミ箱と野党の一人をつなぐ紐は、この狭い路地の両端の建物をつなぐ、角材を並べて作った橋に引っかかっている。
ゴミ箱が中途半端に地面から離れ、そして吊り上げられた方は、周りの洗濯物に混じってぶら下がっている。
これで……
「六」
あと二人始末して、ガラとダズを捕まえて。
それからチャーリーたちに引き渡せばいい。
吸引機からお薬を吸い込み、一気に喘息から解放され、立ち上がる。
道の端に置かれている木箱に隠しておいた魔剣、タウラスの釘剣を手に取り、振り返る。
「お前……何者だ」
唖然としてテルテル坊主になった構成員を見ているのが二人。
冷静に私を見ているのが二人。
冷静な方がガラとダズだろう。
何者か聞いてきたのは冷静な方の一人だ。
「私はホッキンスの暗殺者」
この魔剣を実際に使うのは初めてだ。
だけど聞いた説明通りなら、なんとかなる。
こんなに行き当たりばったりで綱渡りな状況が続くのは初めてだ。
だからこそ、不安にはならない。
なってはいけない。
「勝手に人を攫って奴隷としてテレジッドに売るあなたたちには、消えてもらうことになった」
これ以上説明は要らないだろう。
私は魔剣を鞘から抜いて、構えた。