裏町の洗礼
私の手は汚れている。
だから表通りには行かない。
人も物も空気も汚い、この場所がお似合い。
旧都南東の歓楽街の最奥。
にぎやかな歓楽街と打って変わって、ボロイ建物が密集しただけの人も物も見当たらない地区。
そこのひときわボロイ家が、私の住処。
もっと幼いころはここがスラムだと思っていたけど、スラムはまた別であるらしい。
スラムは軽犯罪の温床。
ここはもっと……
人も物も無いように見えるこの地域にも、見えないだけで両方ある。
私はこの地区に住んでいる、多分たった一人の人間。
やることは特にない。
少し走っただけで息が上がる私に出来ることは少ない。
そんな十四歳の人間の女が、私だ。
出来ることが少ないとはいえ、やらなければならないことはある。
私を育ててくれた人物のために、表の正しさをこの裏側に持ち込ませることを防ぐ。
それが私のやらなければならないこと。
ため息を吐いて、家の窓から見える汚い通りを眺めていると、ドアがノックされた。
思えば今は昼だった。
「バルメ、居るか」
「居る」
「飯だ」
「はい」
ドアを開けると、作業服を着た大男の魔族の、チャーリーがいた。
不愛想で作業服も角も尻尾も黒い。
おまけに体も大きい。
小さい頃の私はチャーリーが怖かった。
今はあまり怖くない。
チャーリーが持って来てくれたのは、野菜をひたすら細かく刻んだサラダと、茹でて潰したジャガイモと、茹でて塩を振った豆と牛乳と、コップ一杯の水と薬。
今日は量も種類も多い。
食べきれない。
「チャーリー、一緒に食べて」
「俺はもう食べた後だ」
「まだ入るでしょ」
「……いいだろう」
私にご飯を持って来てくれるのはいつもチャーリー。
服が破れた時に、縫い合わせた服を持って来てくれるのもチャーリー。
体調が悪い時、看病に来てくれるのもチャーリー。
だけどチャーリーは、ホッキンスの命令で私の世話を焼いている。
「ありがとうチャーリー」
「礼は要らん。ホッキンスのためにやっている」
でも私はホッキンスより、チャーリーに感謝している。
チャーリーが帰った後、私のやることは変わらない。
窓から外を覗くだけ。
私の仕事は滅多に無い。
無い方がいい。
……そう思っていたら、足音がした。
カシャンカチャン、ガッシャガッシャ。
やたらと大きい鎧の足音。
否が応でもそちらを見てしまう。
目に付く。
仰々しい鎧を着た、女騎士だ。
「……えぁあ?」
驚きすぎておかしな声が出た。
こんな場所に騎士が来る?
わけがわからない。
意識が驚いていても積み上げた訓練と言うのは冷静で、私の耳は、鎧の足音が一人分しかないことを確認していた。
そして目は勝手にあたりを見回しつつ女騎士を観察して、女騎士が腰に剣を下げていることと、従者や部下、仲間みたいな、そう言う、連れ、がいないことを私に伝えて来る。
騎士がたった一人で、旧都の裏側に来ている。
わからなくなった。
どっち?
この旧都の裏側の悪事をたった一人で暴きに来た馬鹿?
それともホッキンスと癒着している堕落した騎士?
「……怪しきは罰せ、だったっけ」
確かチャーリーがそう言っていた。
私はフィンガーループと吸入器を持って、ガッシャガッシャ歩く女騎士の後をつけた。
僕が普段見ているスラムの光景とは、ここはまた違う。
立場の弱い魔族の集まりでもあったスラムは、喧噪もあったし、生々しい生活感も漂っている。
それに対してここは、まるで無人。
今のところ誰も見ていない。
見ていないのだけど、見られているような感じはする。
なのにどこを見ても誰もいない。
自分のうるさい足音を差し引いても、人の立てる音がしない。
「不気味……怖い……帰りたい……」
割れた窓。
色のくすんだ建物。
風通しが悪くて淀んだ空気。
折れて錆びた鉄材。
割れた花瓶? 鉢植え?
とにかくここは地区全体が廃墟に見える。
そして困ったことに、僕はホッキンスさんの具体的な居場所を知らない。
この地区に入ればなんとかなるだろうと思って来たのだけど、誰にも出会わないし道しるべも無いとなると、どうにもならない。
歩き疲れた。
鎧重すぎ。
誰だこんな重い鎧を鍛えてもいない女に着せて歩かせようと考えたおバカさんは。
「……僕か、はぁ」
せめて人が居れば、ホッキンスさんの居場所や道を教えてもらうことが出来るのに。
あてもなく探し回るのももう疲れたし、とりあえず人を探してみよう。
人は居るはずなんだし、一人出会えればあとはなんとかなるでしょう。
僕は手直にあった、比較的まともな廃墟のドアを叩いてみる。
「すみません。誰かいませんか?」
返事はない。
もう一度ノックしてみる。
コンコン。
「あ」
軽くドアを叩いたら、その衝撃でドアがキィーと開いてしまった。
見たまんま無人の廃墟のようだ。
僕は少し迷った後、ドアをさらに開いた。
「んー……ごめんください」
やはり返事はない。
見えるのは居間と思しき部屋の残骸。
そして、埃があまり積もっていない。
ということは、人居るっぽい?
「すみません、ホッキンスさんにお会いしたくてここまで来たのですが、どちらにいらっしゃるかわからなくて」
と、玄関に立ち尽くしながら声をかけてみても、返事は帰ってこない。
ここに居る人はどうやら、僕に関わるつもりは無いらしい。
……仕方ないね。
「失礼しました」
家の中に向かって軽く頭を下げてそう言うと、僕は玄関を出る。
その直前、背後で声がした。
「ねぇ」
「んわ!?」
驚いて振り返る。
でも後ろには何もいない。
声はすぐ後ろから聞こえたのに、振り返っても見える景色は、さびれた廃墟群と薄暗い通りだけだ。
もう一度家の中の方を振り返る。
でも、誰もいない。
見えるのはくたびれた居間の風景だけだ。
「……え、怖い」
素直な感想が零れた時、僕はすぐ頭上から、何か音が聞こえていることに気付いた。
ジュー、とか、ビュー、という音だ。
その音の方を見上げようと思った瞬間
「ンギュッ、カハッ」
僕の首に何かの紐が巻き付いて、そのまま頭上に釣り上げられる。
一瞬にして両足が地面を離れ、レギンスが足からずり落ち、けたたましい音を立てて、さっきまで僕が立っていた場所に落下した。
紐は鎧と兜の隙間を縫って、キレイに僕の首を締め上げている。
ガントレットをつけた指は、鎧と兜の隙間に差し込めない。
解きようがない。
や、ヤバい。
死ぬ。
死んじゃう。
とっさにタウラスの釘剣に手を伸ばそうとしたけれど、この魔剣には刃が無いから、紐を切ることが出来ない。
そして、さっきの音の正体は、この紐とこの家の天井の梁がこすれる音だと気付き、同時に僕の意識は闇に溶けて落ちた。