80_MeteoriteBox_39_core3
プラネタリウムに星たちが灯る前、薄暗い視界の中で孤独な半球を見た。投影の前に星空を待つ人々の目には夢見る光が映った。投影の後には星々の燐光が退場までの余韻を十分に満たしていた。等間隔の経緯線で継ぎ接ぎになった半球は注視せねば見えなかった。光に容易に隠れて紛れていた。
また今日も見ることの叶わぬ輝きが重なった時、誰にも気付かれないように、半球はそっと銀河に涙を重ねた。
こうやってなんとか意識を保てたと自覚しているから、私はまだどうにか仮想箱の中にいる。本来なら仮想箱から追い出されるような相当な負荷を受けてしまったはず。安全装置が私に上手く機能しなかったか深いところに潜りすぎたか、ここまで来るともしかして意地かな。花園に残ったメイジに頼んだ境界線の希薄化もここでもう一踏ん張りするためのもの。
孤独な全球が広がっていた。コンサートホールくらいの全天が目下頭上に、やはり影や黒を集めて流動する模様を球内面に描く。私は球体空間の中心辺りに漂って、自由の効かない身体を確かめている。
声は出なかった。痛みは感じないけれど視界は半分で、やっぱりさっき海の怪物の反撃を受けて身体の左半分が無くなったのだと思う。私を映す投影装置の光を手のひらで遮ったようになっている。
向こうで何か雲の塊のような物が一つ形を成していく。困ったな、多分あれをちゃんと見るにはレンズが要る。テトレンズはよくここまでついてきた装置だ。どこかで私がそう思ったから箱側が役割を拾ってくれた、そんな気がする。片手のチョキはいつまで経っても四角にならない。
あれ?
別の誰かの手が見える。顔に当てていた私の片手にその手が重なると、視界に手応えが生まれた。
{手伝うジェミよ}
そんな、まさか。
{ハルカの手が塞がってて困った時に一回だけ自動で手伝うように仕掛けておいたジェミ。私がテトレンズの付け方を変更するかどうか聞いたのを覚えてるジェミ? ハルカがレンズを付ける仕草はちょっと面白くて好きだから二回目は言い出さなかったジェミ。そのお詫びジェミ}
少しの間だけ人の手を真似ていた緑色の手が光の粒子になって空間に溶けていく。
それなら何回だってあなたの方を向いて実演したのに。私がこうやってレンズを付けるのを知っているのはジェミーたちだけ。実は両手が必要だと知っているのは多分ジェミーだけだ。でも今この場にジェミーはいない。機械槍とみんなのところに分散していたから、箱の時間が止まったようになったから、あの時ジェミーは元気いっぱいじゃなかった。さっき私を守るためにゼロになった。
雲の姿から凝縮して形を選び始めた影にピントが合う。その輪郭を認識した私は見えない自分の半身にせめてものシルエットを与えようとする。見る情報は自分で決められるはず、両手両足が必要だ。それから光の足場を影に向けて繋ぐ。私が自分自身と向き合った時のように板きれの橋を生成して架ける。
天球の表面には尚も分厚い黒雲が流動していた。恒星を生む生命の源とは違う、きっとあれは重力とは別の糸で紡がれた情報集積。影が少し幼い(きっと遠い箱庭の頃の)カケルの形を作り終えた時には私もどうにか橋を架け終えた。カケル型の影は私が動くのを待っている。
私は今、電子情報を手懐け始めている。本来なら電脳化と呼ばれる階段を歩いた者にしか成し得ない所作、果てしない電子の海へと爪先が触れた後の水平線。
一歩、全天を望む光の板の上を進む。
仮想箱に入る時に私たちの意識は箱の中に再構築される。私の身体は箱の外で待っていて、箱の中での体験は外の時間での数瞬に圧縮され還元される。私たち箱のお客様は皆同じような仕組みを潜るけれど、箱の外の外から来たちょっとイレギュラーな私には小さな不整合が積み重なっていった。例えば箱から生じる感情、受け取る記憶、箱への愛着ともすれば執着、そして電子の世界への適応とも思える兆し。仮想箱に備わる安全装置が捕捉できなかったデータの欠片を蹴って走るうちに、箱の統治者が受け持つサーチライトやコンソールさえも攪拌してしまったようだ。
もう一歩、箱庭を内側から透視する地球儀の中心を進む。
少し無理をしちゃったかな。でも次で最後。謝罪じゃなくて、私がやりたいこと。このまま立ち去ったらジェミーたちに残るものに納得できない。箱の奥で私たち人間が生み出したものが私の思う通りのものなら。
「もう一度、手を握る」
やっと声が出せた。砂漠のロボットとも、踊りを前にしたケイコともそうした。今ならもっと上手くできる気がする。
原初の大地で初めて誰かの手を握った時に生まれたインターフェース。時を経て言葉にならない想いを伝え始めた接触通信。
最後の一歩、手の届く距離へと辿り着く。目の前に立って分かる、小さなカケル型の影には底知れぬ密度が渦巻いていた。それでも。
私の中の開け得ぬ箱に抱えた中身をあなたに繋ぐ。
踊り手が一人、砂漠夜の星空を纏って翼を広げた。
* * * *
カケルに与えられた箱庭はある程度カケルを良い方向に導いた。ここまでは無害な事実経緯だ。技術への親和性に高い数値を見せたカケルは、監視役の元でいくつかの手法と助言を得て仮想箱を一つ作り上げる。その仮想箱には箱に入ったその人を元にナビゲーターが与えられる機能があった。それからもう一つ、人の心に生じた/生じようとしている影を切り取ることで軽減する仕組みが込めてあった。
「最後の瞬間、最期の瞬間ってどんなもの?」
「私は何を見る?」
「こんな感じなら、良いかもしれない」
「やっぱりやめておこう」
「自分はこう思うのか」
「あの人はこう想ってくれるだろうか」
人工隕石がその一瞬に作り出す演算は、体験者の奥に巣食う影を炙り出して切り取った。漠然とした死への恐怖を薄めようとした。ナビゲーターは器用に彼らと対話して負の側面を緩和し、正の思考の深層へ向かう手助けをした。
カケルの仮想箱は誰かのためを思ったものだ。監視役がカケルから箱を取り上げるまで一定以上の成果を出していた。仕組みも良く考えられていた。見落としがあったとすれば、人々から切り取った影が箱の奥に蓄積していくこと。それらが都合の悪い形を取り始めたこと。
監査役はカケルから取り上げた仮想箱に“いい加減な後始末”をした。特別な役割、特権を持ったものとして箱に残ったカケルのナビゲーターには箱を守るように指示が与えられる。体験型装置となったリセット機構付きの箱庭は、軽い口調を表面に多くの人を呼び始めた。その最奥で情報集積を尚も肥大化させながら、箱庭を維持する役割という存在意義、自己暗示を手にしたアドミニストレータ――メイジを柱として。
メイジもAIであることに変わりはない。分岐と選択を繰り返しひとつの仮想人格が形成される過程で電子の海へと還った片方がある。完成を以て固められたメイジの前に、あろうことかそれらが群れを成して現れた。更に悪いことに黒い影を携えて。時期的にはデータが集束し始めてからのそれが監査役の悪意によるものなのか、情報集積そのものが意思を持ち始めてそうしたのか、危機を感じて過去の自分を切り離し保護したメイジ自身にも答えは分からなかった。
そっか、そんな風になっていたんだ。
私はこことは別の仮想箱で出会ったものを相手に伝えた。
――当時この集積を見つけた技術者の言葉を借りるなら、それは自然な流れのようでもあり、何かの使命を帯びているようでもあった。それに価値を見出した集積側と、強い感情のデータは反発することなく引き合った。
――ヒトの感情、思考、人格といったものを電子的に記憶することが出来たなら。電子空間はそもそも人とは比べものにならない容量を許容する。吸収起点となった集積は際限なく肥大化し、電子的には加味されない「重み」を帯びていく。
――再現された人格が物語を解釈できるなら、人があるデータに対して発する反応のように、あるいはデータの重みを理解できるのかもしれない。
光の奥で私の階層に合わせて姿を見せた存在。彼女(直前で見た女性の姿を模していた)は情報集積の有様を私に伝えて、その先の振る舞いを私に委ねた。逆さ円錐を下って舞台に立つ最上級の踊りを直視した時、あらゆる入力系統を超越しながら踊り手は確かに私に神秘を見せてくれた。私は先へ進んで精一杯何かを掴もうとした。もちろんそこで全てを持ち帰れたわけじゃない。何かを掴んだ手応えも酷く曖昧だ。でも私が認識できる以上に光り輝く何かが、そう、私の中に入り込んだ。重み厚みを増した。ジェミーたちと過ごすうちにそれが少しずつ確信に変わり、同時にこの仮想箱の奥が見えてきた。二つは反対の性質を示すように違う色をしている。私が持っている方は大きさも重さも分からないから本当は全然足りないのかもしれない。でも繋げてみようと思う。味方してくれる存在がいるから。私はそれを美しいと感じたから。
そう、私はこんな景色を見てきたんだよ。
* * * *
仮想箱の最奥で、ゆっくりと自転を続ける天球がある。今、表面に光の亀裂が一つ走った。少しだけ緑と青に寄り添った七色の光が漏れ出す。箱の外を夢見るその中心で、ヒトの形をした情報が二つ手を取り合った。光は爆発的に情報量を増していく。
暗い海の底から光が分厚い黒水を貫いて空を駆け抜けた。一つまた一つと灰色の空へ出た光の帯が後に続き重なり合い柱を成していく。小さな戦闘機が消えそうに眠る花畑を下から貫き、境界を隠す壁に穴をあけて膨大な光たちが噴出する。
光は時間の止まった未来の街に到達し、色を失ったものたちを七色に塗り分け始めた。それから一際強力な光が街に突き刺さった機械槍の姿を借りて、空に待つ人工隕石を粉々に砕いた。
ヒトでも機械でもデータでも、誰もそれを観測できなかったはずだ。
星を映す孤独な全球と同じ色をした男の子が、少女と手をつないで星空とその向こうを見ていた。光の並びは人類の見る全瞬間のどれとも異なる。気が付けば少女よりもほんの少しだけ背が低い影が寄り添って、輝きの一つを指差した。何やら角丸四角に耳が映えた不思議なシルエットがその横に並び、皆の前に現れたその粒子の意味を教えているようだ。真ん中で手をつないでいた男の子と同じ形の影が、優しそうな仕草の影と手を繋いで現れた。また一人、もう一人と、ヒトの両手で数えられるくらいの集まりができていく。
七色の光が世界を満たして、それから目を閉じるまで。
* * * *
回路が焼き切れる瞬間、密集基盤の暗がりに最初の星が灯ったような気がした。
その回路が今度こそ私のものであっても、ジェミーは褒めてくれるかな。やっぱり怒るかな。
ここまでだね。みんなありがとう。ちょっと大変だったけど、楽しかったよ。




