34_DanceBox_11
また向かい合わせに背の高い椅子に座った私たちは、しばらく言葉を交わさずにいた。細いシルエットのワイングラスを逆さにしたような丸いテーブルの形をぼんやりと眺めたり、遠くの誰かやカウンターの方に目をやったり。そのうちケイコは目を閉じてしまった。私も少しの間だけ目を閉じて、踊りが全てを支配する空間からこの喫茶風空間へ戻る間に整えようとしていた思考に仕上げをする。
あの踊りは何を体現しているのか。女性であることは必要な要素か。踊りは最適な媒体か。自分も含めてあの空間にいた人々をここまで強烈に惹き付けるものとは。死への期待はそれらしい答えに思えたけれど、その全てでは無いように思える。
ふと目を開けると、ノートに何かを書いているケイコ。いつの間に。ノートはパーカーの下に隠れていた小振りの鞄から出てきたらしい、ちょこちょこと鞄をつついて見せた。
「エネルギーになってると思うんだよね。だから尽きない」
ケイコはページの中心から右上寄りに書いた三角形を青いペンで指した。三角形を丸で囲むと、三つの矢印を三角形へ向ける。それらをL字の線で仕切って隔離した。左の余白に三角をもう二つ。丸で囲われて矢印が向けられたのは踊り手だろう。何かの境界の向こうからそれを眺める二つの三角は私とケイコかな。一階層外からの視点を意味するのだとすれば。ではその「エネルギーになっている」とは、死への期待が踊りへの、ということ? ふむふむ……。
「あ、そうだハルカ」
「なんでしょうケイコさん」
「一言、何か書いてよ」
ノートを反対に向けて、私に青いペンを預けた。ケイコにこれをされると色々と考えてしまう。私は旅人が観光スポットでノートに書くあれを思い出していた。
ありがとうケイコ
仮想箱の中で。 ハルカ
特に二行目を書くかどうかを少し悩んで、結局そう書いた。ノートを回転させて青いペンをケイコに返す。その時ケイコが一瞬見せた表情に私は息を呑んだ。悲しみとも喜びともつかない、含みのある美しい波形をしていた。
それから二人でしばらく静かな時間を過ごした。またカウンターでケイコチョイスの飲み物を貰ってきて、時々言葉を交わして、個人で考えて、二人で考えて。
「ハルカはそろそろ時間かな?」
あるタイミングでケイコは私にそう聞いた。彼女に言わせるのは申し訳ないと思ったが、なかなか自分から言い出せなかった。ケイコの言う通り、私はそろそろこの箱を後にしようかと考えている。
「案内モードになっちゃうけど、よく聞いてね」
「うん?」
何か手続きがあるのだろうか。
「あのカウンターで『ケイコさんは美人です』って言うとね、」
「……うん」
「お兄さんに変な顔されるよ」
「……」
「……」
「……ほら、湿っぽくならないようにだよー」
「ケイコさんは美人です」
ケイコは変な顔(怪訝というより笑わせるための)をした。
「やっぱりあたしも付いていくよ。見送りさせて。ホントは合言葉で済むんだけどね」
* * * *
席を立ち、ケイコの後ろ姿を見ながらカウンターへと向かう。少しの時間がどうしても名残惜しい。歩いている間に私が何も言わないからか、ケイコは一度だけこちらを振り返る。私は咄嗟に「何でもないよ」という表情を用意した。と思う。
カウンターへ着くと、ケイコは注文を受け付ける若い男性の前に立った。店員風の服を着た彼は誠実さだけしか印象に残らない振る舞いをする。既に二回ケイコとここへ来ているのに、彼に特にイメージが残っていないのだ。
「この子が外に出たいってさ」
階層の外の言葉だ。合言葉となっていてもおかしくはない。
「お楽しみいただけましたか」
男性は私の方を見てそう言った。
「……はい。とても考えさせられました」
「……だってさ!」
「何よりです」
ケイコと男性が一緒に笑う。すぐに彼らが実は知った仲だと教えてくれた。何ということは無く、常連さんを覚えることに店員さんは慣れているからだという。
ケイコが向こうの壁を指差した。アルファベットの『U』を逆さにした形に光の輪郭ができて、その部分が横にスライドして階段が現れた。階段は上方向へ続いているようだ。壁の一部は音も無く可動したのだろうか、近くにはテーブルに座って思考に耽る人もいるのに、誰もその方向を気にしない。……なるほど、そうではなくて、もうここから先は私にしか見えない演出なのだ。
「と、あたしと店員さんね」
私の頭の中を読んだようにケイコが補足する。
「お兄さんどうも。あとはあたしがやるよ」
ケイコは私の手を引いて歩き出した。やはりもう喫茶店風空間の人々は私とケイコのことを感知しなくなっていた。テーブルとイスとそれらと同じレイヤーになってしまった何人かの人物たちを避けて逆さU字へ向かう。その時間もやっぱりあっという間だ。ケイコは出口の横へ立つと、くるりと向き直って私を見た。
どんな言葉が良いだろう。お別れには、お礼には。
「お楽しみいただけましたかー」
ケイコは店員風の男性の真似をした。
「あたしは楽しかったよ。まさか連れ出されて一緒にあれを見るなんて思ってなかったし」
「私も楽しかった……」
こんな時だけ、言葉が私を先導しない。
「それなら嬉しいね。思考が新鮮なうちに外へ出なよー」
ケイコが人差し指で階段の上を示した。
「ケイコ、ありがとうね」
「ハルカもありがと」
湿っぽくならないように、か。このまま別れの時間にいてはケイコの言う通り湿っぽくなってしまう。彼女が「思考の鮮度のため」と掲げてくれたのは、そうではないと気付いた私がそうであるかのように歩き出せるように。
「行くね」
「うん。……途中で引き返して階段降りてきても、まだいるからね?」
「流石美人なケイコさん」
「えっへん」
「……じゃあね」
「じゃあねー」
ときどき私は願いを込めて無理にでも「またね」と言うけれど、今回はそれができなかった。
ケイコは特別だったのだろうか。それとも、箱に入った人に合わせて登場人物のうちの誰かがチューニングされ、特別であるかのように振舞うのだろうか。そうだとすればもう完敗だと言いたくなってしまう。あの踊りの全てを私は解釈しきれなかったし、ケイコは私にとって特別であるとしか思えなかった。仮想箱はそれだけの舞台装置を優に備えるのだ。
私が階段を上るリズムにあの究極の所作が寄り添うように想起された。
箱の中の意識は外へと戻る。