雷雨のバス停にて
カラッと晴れた夏のある日。
僕は友達と一緒に都営プールで泳いで遊んでいた。
ひとしきり遊んだあと、僕と友達はアイスを食べながら帰宅していた。
途中で友達と別れて、僕一人で自宅に戻ろうとしていたその時、空気がひんやりと冷たくなってきていた事に気づいた。そして山の向こう側に見えていた入道雲がぐんぐんと背を高くして、空を覆っていき始めた。
夕立が来る。急いで帰らなきゃいけない。僕は自転車のペダルをガンガンに踏みつけ、立ち漕ぎでスピードを更にのせていく。自転車のギアも一番加速する重いやつに切り替えた。でも雲の成長する速度は僕が進んでいくよりもずっとずうっと速くて、あっという間に空は暗くなっていくんだった。
間もなく遠くからゴロゴロという雷の音が聞こえてきて、アスファルトには水が落ちて染みた跡が出来始める。僕の頭や体にも落ちる。ぬるい水。
「ひゃーーー濡れる濡れる!」
雨の勢いはあっという間に強まって、道路はすぐに水浸しになった。
ダメだこりゃ。雨宿りできる場所を探さなきゃ。近くに何かなかったっけか?
「ああ、確かこの先に屋根があるバス停があったはずだ!」
そこでしばらく雨をしのぐ事にしよう。ずぶ濡れで帰るよりはマシだ。
僕はべダルを漕ぐ足を更に強め、自転車の速度を更に上げて疾走する。
15秒くらいですぐにそのバス停は見えた。と言っても、簡素なベンチをトタンの板で覆った簡単な作りのものだった。作られたのがだいぶ昔なせいか、トタンの塗装が所々剥げ落ちていて隙間から水が落ちてくる。それでも風雨を防ぐ屋根壁、座って休めるベンチがあるのはとてもありがたかった。バス停の中はベンチが二つ置いてあるが、その一つに先客が一人いた。
輝かしい金髪に青い瞳、日焼けしても多分赤みを帯びるだけで色が黒くなることはないだろうと思わせてくれる透き通った白い肌の子供。服装はTシャツにハーフパンツにサンダル。僕と同じように自転車で移動してたようで、濡れないように自転車をバス停の中に入れている。カゴには手提げバッグが入っている。
白人の子は座って視線を手元の3DSに落としてゲームをプレイしている。それほど夢中になっているわけでもなく、時折雨の様子を伺いながら。
僕もスマートフォンを取り出して、掲示板とかSNSのログが溜まっていないかを確認する。特にSNSは時々確認して最低でも既読にしておかないと、後から何を言われるかわかったもんじゃない。昔はこういうツールが無かったというから、気楽だったんだろうなぁ。
ログを確認している間にちらちらと横目で白人の子を見る。
かなり端正な顔立ちをしていて、可愛らしい。まるでお人形さんみたい、という陳腐な形容を思わずしたくなるようなそんな感じの雰囲気を持っている。
しばらくはお互い無言で画面に目を落として指を動かしていたけど、やがて飽きたのかその子は3DSを鞄の中にしまい込んで顔を上げてふう、とため息を吐いた。
私もログを見て返事を返し終え、他の掲示板なんかも大体見てやる事がなくなっちゃったのでスマートフォンをポケットの中にしまって、あてどなく空を見つめるなんてしていた。
普段なら見知らぬ人に、例え子供だろうと話しかける事なんてないんだけど、ついこの日だけは何というか魔が刺した。
「ねえ、君名前なんていうの?」
声を掛けてもしばらくは反応しなかったけど、もう一度言うと自分に話しかけていると気づいたのか、顔をこちらに向けて気だるげに答えた。
「ミカ」
そっけない返事。でも日本語を理解できている。という事は、日本で生まれたのかそれともこっちに来て大分長いのか。僕も暇だし矢継ぎ早に質問を投げる。
「どこら辺に住んでるの?」
「○○市」
「いつ日本に来たの? それとも日本で生まれた?」
「5歳くらいの時に来た」
「何語話せるの?」
三つめの質問で、大きなため息を吐いてミカは僕をにらみつける。
「あのさ、ガイジンが物珍しいのはわかるんだけどそんなに質問しないでくれる? うんざりしてるんだ。何処に行っても質問攻めでさ」
「あ、ご、ごめん」
「別に謝らなくたっていいよ。これ以降話しかけてこなければね」
そしてミカはまた3DSを取り出してゲームをプレイし始める。明らかに僕に話しかけられる事を嫌がって、話しかけられない雰囲気を作り出している。機嫌を損ねてしまった。失敗したなぁ。
諦めて僕もスマートフォンを再び取り出してアプリのゲームをプレイする。
雨足は弱まるばかりか、勢いを増すばかり。
トタンの屋根を叩きつける音は強くなっていく。いつになったら止むんだろう?
そう思っていると、山の近くにのびている暗雲の隙間から白く輝く光が見えた気がした。少し遅れて、ずずずんと地響きのような、和太鼓を大きく叩いたような音が聞こえてきた。
光と音がやってくると同時に急激に気温が下がって肌寒くなってきている。夏だと言うのに。雨で濡れていた僕はプールで体を拭ったバスタオルを使って、体に付着していた水分をよく拭き取って肩に掛けて体温を保つ。
その時、ベンチがガタガタと震えている事に気づいた。僕の震えではない。
横を向くと、ミカが青ざめた顔色で山の向こう側をじっと見つめている。自分が小刻みに震えている事に気づいていないようだ。額には冷や汗の玉が浮き出ている。
「ミカ、雷苦手なん?」
「……そんな事、ないよ」
仏頂面で答える声色も弱々しくて、明らかに虚勢を張っているのがわかった。
言ったすぐ後にまた稲光が閃いて、空気が震えてトタンの板屋根がびりびりと鳴るくらいの雷鳴が轟くとミカはひいっと声を上げ、僕に抱き着いてきた。
やっぱり苦手なんじゃん、という言葉を喉元でとどめて僕は震えるミカの肩をそっと抱きかかえた。ミカは僕の胸に顔をうずめてぎゅっと目を瞑っている。目の端には少し涙が溜まっているけど、僕はそれを見ないふりをしてミカの頭を撫でた。
光り、音が響くたびにびくっと震えるミカの姿はなんだか少し可愛いと思った。
徐々に雷の光と音のタイムラグが短くなっていき、こちらに近づいているというのがはっきりとわかる。もう少し辛抱すれば通り過ぎてくれるだろう。
何気なく外を眺めていると、なんだかやけに大きな樹が目の前にある事に気づいた。何百年と生きていなければああいった大きさにはならないだろうな、なんて思っていた矢先に、目の前が真っ白になって耳をつんざくような轟音が辺りに響いた。
一瞬の出来事で何が起こったかすぐにはわからなかった。
何度か目をしぱしぱさせて現状を確認すると、目の前の立派な大樹が真っ二つに裂けて燃え盛っていた。雨だと言うのに湿っている生木を炎上させるほどの威力。周囲には木の破片が飛び散ってそれも煙が燻っている。
「なになになに!! なにが起きたの!?」
「ちょっと雷が近くに落ちただけだよ。大丈夫だから」
「近くに雷が落ちたってそれやばいじゃん! やばいじゃん!!」
ミカのしがみつく力が更に増す。ちょっと腕が痛い。
「ごめんミカ、ちょっと痛いから離れて」
「あ、ご、ごめん……」
ミカは離れて僕の顔を見上げた。
ミカの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
「ひどい顔。これ使いなよ」
僕はポケットからハンカチを取り出してミカの涙を拭い、鼻水を拭かせた。
ミカは汚れたハンカチに視線を落とす。
「……洗って、返すから」
「別にいいよ。君にあげる」
「洗って返すから」
特に気に入ってもいない、お母さんに持たされただけのハンカチだし返されてもなって感じだ。ミカは自分の鞄にその青いストライプの入ったハンカチを丁寧に折り畳んでしまい込んだ。
しばらくベンチに座って待っていると、徐々にトタンの屋根を叩く雨音も弱くなっている事に気づく。
西の方の空も明るくなりはじめ、雲の切れ目から陽光が差し込んでくるのが見える。雷の光と音の間隔も開き、ここから遠ざかっている事がわかる。
もうそろそろ、家に帰っても大丈夫かな。
「ね、ミカ。雨おさまったよ」
「……」
ミカはバス停から出て外の様子を伺って雨が弱くなっている事を知ると、すぐに鞄を自転車のカゴに入れてハンドルを握り、スタンドを足で蹴った。そのままサドルに座ってペダルを踏みしめた所で、こっちを振り向いてミカは叫んだ。
「絶対に綺麗にしてから返すからね!」
そのままの勢いで、ミカは大きく自転車のペダルを踏みこんで物凄いスピードで居なくなった。
僕の住所を聞いてないのにどうやって返すつもりなんだろう。
「ばかだなぁ」
その辺りにも、またちょっとした愛おしさを感じた。
完全に雨は上がった。雨が降っている間の肌寒さがいつの間にか失せ去って、じめじめとした不快な湿気と生ぬるい空気がまたやってくる。
僕も帰ろ。
自転車のスタンドを勢いよく蹴り上げ、僕もまたミカと同じようにペダルを強く踏みしめて金属のチェーンに力を伝え、スピードをグングン上げていく。
ぬるい空気でも、風が当たれば少しは心地よい気がした。
* * * * *
「……そんな事もあったっけな?」
「あったって。すぐさ、ケイは物事忘れるんだから」
時は過ぎて、いつの間にか大きくなったミカは僕の背をはるかに越して、今は180cmくらいになっているっぽい。顔を上げて視線を上向きにしないとミカの顔が見えないんだよね。真っ直ぐ見据えると見えるのはミカの胸板だ。
僕はミカと一緒に自分の部屋で宿題を抱えながらおしゃべりをしていた。
「いや、まさかミカの家が隣近所だとは思わなかったよね。すぐ翌日ハンカチ返しに来たときはびっくりしたわ」
その時のハンカチを僕はポケットから取り出した。何の変哲もない、白地に青いストライプが入った地味なやつ。裏地には僕の名前が入っている。
「雷、まぁだ怖いか?」
僕が意地悪く笑うと、ミカは苦笑する。
「やめてよ、流石に今は雷も苦手じゃなくなったから」
「ほんとかぁ?」
僕はハンカチを口元に当てて笑いを隠す。
「なぁケイさ、いっつも思うんだけど、なんで自分の事僕って言うんだ?」
「なんとなくだよ。うちのばーちゃんだって自分の事オレっていうしそれとおんなじだよ」
僕は椅子から立ち上がり、ステップを踏んでターンする。
制服のプリーツスカートがふわりと空気を含んでひらひらと舞った。
「最初にミカを見た時はさ、すっごい綺麗な子だと思ったんだけどね。今は面影もありゃしない。残念だなぁ」
「言うなよ、それ。子供の頃と比較されるの気にしてんだから」
「でもさ、それはそれとして今の顔も僕は好きだよ」
「さらっとそういう事言う?」
言われてまんざらでもないミカのはにかんだ笑顔は、やっぱり愛おしい。
いや、ミカのすべてが、かな。