どんな人間になりたい?
エッセイを書く時は、深夜であることが多い。多いというよりかは、寝る前に何かを考えつき、そのことが気になって眠れないので、とりあえず執筆しておくという流れである。
で、だいたい考えることは、口に出すには忍びないこと。一般的には、「重たい」と言われてしまうようなことである。さっきまで考えていたことは「どんな人間になりたいか?」ということである。
「そんなことを考えて、いったい何になるの?」って聞かれたら、僕はこう答えるしかない。「それを考えないとしたら、君は何を考えて生きているのかな」。
誰かが「私は毎日、楽しい生活を送れたら、それでいいです」と言えば、その人は「楽しい生活を送っている自分になりたい」。具体的にいえば、毎日自分の趣味に没頭できることを意味しているかもしれない。仕事が順調である自分の姿を連想しているのかもしれない。はたまた、パートナーがいて、子供もいる家族のなかに自分がいることを想像しているのかもしれない。
「私は、嫌なことがなければそれだけでいいです」と誰かが言っていれば、その人は悩み事から解放された自分をイメージしている。それもこれも、みんな「なりたい自分である」。
だから、たいていの人は、漠然でありつつも「なりたい自分をイメージして生きている」と僕は思う。
で、僕は「どんな人間になりたいのか?」。最近、それがなんだかよくわからない。働き出して、ある程度の収入を得て、結婚して、子供ができて、家庭ができても、きっと僕は満たされないだろう。どれも、なりたい自分ではないような気がする(これでは、結婚せず、年をとるな・・・)。
ただ漠然としてあるのは、今まで自分がしてきた良いこと・悪いことすべてを、自分で認めることができる存在でいたいということ。人に言えないような悪しきこと、恥ずべき行為すべてを素直に思い出し、それでもそういう自分でよかったと思えるような自分でいたい。自分にとって都合の悪い行為を無かったことにしないで、すべて「自分がそう欲したことだ」といえるような自分でいたい。
たとえば、いまの自分でよかったと思えたり、生まれ変わってもいまの自分で良いと思えるような自分である。わかりにくいかな?
つまり、僕は「これまでの自分がしてきたことを肯定できる人間」でいたい。
みんなと同じがいいとか、常識だからという理由で、自分の行動をみんなと同じにしたくない。自分で考えて、納得の理由があるなら、自分の判断で選択し、行動する。僕は、コピーではない。他人のレプリカでいたくない。あくまでもオリジナルになりたい。
抽象的だが、そういう人間に僕はなりたい。そう思った。




