父親、いなくなるとき、親孝行
高校生のとき、寝る前にしばしば「もし父親が死んだら」と考えていた。
なぜ高校のときで、なぜ母親ではなくて父親かはわからない。だけど考えてた。
想像するたびに悲しくなって泣いていた。それなら考えなかったらいいのにやっぱり考えてしまう。誰かがいない世界。
世界にいる人々はたえず変化している。その数も、個人も変化する。死んでは違う人が生まれる。ただ、僕はその人を知らない。そうやって、細胞のように人々は移り変わる。だけど、死んでほしくないと思う人がいる。生命体にとってこっちの都合は関係ない。昨日までと同じように、日々更新されていく。
ある時から「父親がいなくとしたら」と考えても、泣かなくなった。いなくなってからでは、僕にできることは何もない。いいお墓を用意したって、毎日お供え物をしたって、僕は満足しないだろう。悲しいままだ。
親孝行は、死ぬまでにやらないといけない。親が死んだら、あるいは僕が死んだら、親孝行は不可能なものになる。生きているその時のみ、僕は親孝行ができる。父が死んだ後ではできない。あたりまえだ。だけど、そばにいる人はいつまでもいると思ってしまう。明日も今日も。でも、それは永遠じゃない。それもあたりまえ。だけど、そのあたりまえで後悔する人もいる。
母親は、毎日仏壇に向かうようになった。母方の祖父が死んでからだ。
ご飯を食べる前に仏壇のもとへ行く母親を見て、僕は親孝行を知った。




