かつては文章を読めなかったのに、今は本ばかり読んでいる
子どもの時、ほんとに文章を読めなかった。
文章を読み続けることができなかったのです。読書の時間が小学校のときにあったが、いつも読んだふりをしていた。何分経ってもページがめくれない。なぜなら、2〜3行読んだら、あとはただ字を追いかけているだけだったから。次のページを開いたら、もう話がわからない。デザインが多めに施された本でも同様だった。
中学生になると、夏休みに読書感想文を書かないといけなかった。三年間同じ作品で読書感想文を書いた(内容は異なる)。その本は自分で選んだものではなくて、知り合いから入院のお見舞いでもらったものだった。一度、読めれば、二回目三回目読むのは楽だろうと、同じ本を毎年読んでは感想文を書いていた。そのぐらい本は読めなかったし、読むのも好きではなかった。
高校生になっても状況は変わらない。読むとすれば、国語の授業ぐらい。だけど、それは一人で黙々と読むようなものではなく、授業のたびに少しだけ読む程度でした。
大きく変化が起きたのが大学受験の時。浪人して、二年間受験勉強をしたのだが、その時に現代文を何度も読むことになり、文字を追うことになれてきた。一人で浪人していた(いわゆる自宅浪人)だったので、嫌でも一人で黙々と読まないといけない。その結果、「あっ、本を読むってこんな感じなのかなぁ」と感じた。大学生になったらもっと本を読まないと、と思い始めた。
それで、今や毎週2冊は本を読むようになり、毎日活字を読む生活である。年に換算したら、およそ読了する本の数は100冊を超えるだろう。小説はほとんど読まなくなった。フィクションでも考えせるような内容であればいいが、単なる娯楽として本を読まなくなった。だから、漫画も読まない。評論や哲学書ばかりを読んでいる。
ここで考えられるのは「何かをやり始めるということである」。もし小学生の時、あるいは中学生の時に、誰かに「本を読みなさい」と強制されたら、僕は本を読むようになったのだろうか。もし、自宅浪人の経験がなかったら、今頃本を読むことはなかったのではないか。
一人で気づき、そしてやろうと思ったこと。それが、無尽蔵のエンジンのようん動機を与えてくれたのではないだろうか。この独我性が僕を突き動かしたと思う。




