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読書、楽しさの条件、塾の講師

 今、ある本を読んでいる。毎日僕は本を読む。別に、そうしようと決めているわけではなく、ただ楽しいからしている。小説はほとんど読まない。哲学書かそれに関する本、あるいは自分の関心がある本を読む。


 といっても、いつも読書が楽しいわけではない。時間が忘れるほどに没頭することは、月に一回あるかないかで、面白くないからその本を読むのをやめてしまうことすらある。


 少し前に授業で、ある哲学書の一部を読んだ。20世紀を代表する哲学書であったが、授業内で読んだり予習したりする限り、あまり興味が惹かれるものではなかった。だから個人的に読むこともなく、一年が過ぎた。


 最近、あるきっかけがあって、その本をまた読み始めた。そしたら、とてつもなく面白い。以前、読んだ時と感じが違う。どうしてか。

 それは一つに、読む動機にある。「自分が読みたくて読んだ」のである。以前は、そうではなかった。目の前に与えられていて、しぶしぶ読んだに過ぎない。同じ本なのに、こうも印象が変わる。もちろん、変わったのは僕である。


 これは楽しさの条件だと言える。「自分でやろうと思うこと」、これが楽しく思うための一つの条件だと言える。誰かに与えられたのでは、なぜかやる気が出ない。そこには何か「強制」とは言えなくても、「縛るもの」がある。それが楽しさを奪う。これは僕だけか。


 そう考えると、仕事として塾の講師をやっていることは、罪深いように思えてくる。なぜなら、講師は生徒がしたくもない勉強を押し付けているともいえるからだ。どんなに面白く授業ができたとしても、生徒は自分で楽しさを見つけたことにならない。それだけでは、生徒は「知ること」を欲しない。


 では講師は「知ることの楽しさ」を教えることができるのか。それはできないだろう。なぜなら、楽しさと自己原因が密接に関係するなら、講師は阻害する者でしかないからだ。


 講師って邪魔者なのか。どんな先生が理想なのか。



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