犬、範囲、価値観
今日、自転車に乗ってると、大きな犬が飼い主に連れられて、散歩をしているのを見た。成人男性が犬の格好をして、犬のふりをしたらあのぐらいの大きさだろう。そのぐらい大きいのだ。それに対して、飼い主は中学生ぐらいの女の子(正確にいうと飼い主ではないか)。犬が本気を出せば、犬は走り去ることもできそうである。しかし、そんなことにはならなかった。
そういえば、数年前に公園で犬と散歩をしているお婆さんを見た。散歩をさせている犬は、小型犬のシーズーで、ペットを飼っていない僕にもわかるぐらい年老いた犬だった。老犬シーズーは、お婆さんの前をコテコテと歩き、たわんだリードを持ったお婆さんが老犬の後をコツコツと歩いていた。老犬シーズーは、数歩あるくと、ふっと飼い主のお婆さんを見ては、またコテコテと散歩ロードを進む。
老犬シーズーが、お婆さんに歩を合わせている。僕にはそう思えた。その落ち着きすら感じさせる犬は、これ以上速度を上げれば、お婆さんに無理をさせてしまうことを理解している。シーズーは、自分のやっていい範囲を知っている。
先の大きな犬もそうだろう。自分の立場を理解しているように思えた。そう考えれば、グイグイと前に進む犬は、そのぐらいリードを引いても、飼い主が怪我をしないことを知っているとも言える(あるいは、厳しい罰がないことも知っている)。犬は、自分の範囲をわかっている。
人間の子供もそうである。ここまでしたら怒られる、ここまでしたらさすが危険ということはある程度知っている。しかし、子供はその境界線を少しでも広げようとするし、危険なことをして、境界線ギリギリまで行こうとする。
つまり、その境界線をはっきりさせるのが親から子供への教育なのかもしれない。ただ、親が思う境界線を子供が少しでも超えたからといって、甘えさせてはいけないということで厳しい注意をするのは、正しいのだろうか。なぜなら、その親が考えるところの境界線というのは、親の価値観が反映したものであって、それが絶対的に正しいとは言えないからだ。その範囲が、あまりにも偏っている場合もある(例えば、実際のところ親に都合の良い範囲に基づいているかもしれない)。
人に何かを教えるとき、たえず「わたしは正しいのか」と考えるしかない。自分が正しいとは限らないからだ。親子の関係だとしたら、子どが正しいときだってある。そのときは、素直に認める。そうすれば、子供だって、親に頼らず、何が正しかを自分で考えようとするのではないだろうか。