ありふれた矛盾
なんでも貫く矛と絶対に貫くことができない盾がある。じゃあ、この二つを競わせたらどうなるのか。簡単に言ってしまえば、これが矛盾。矛盾は、論理的ではない。だから、矛盾はダメ。
だけど、僕たちの日常は矛盾だらけ。たとえば、僕たちは花を大切にする。小学生の時、学校の先生から、アサガオを大切に育てるように教えられた。「花は生きているから、大切にしないとダメよ」と。だけど、屋外を歩く時、その先生は、雑草を踏みつけているかもしれない。僕たちはそれを不思議に思わない。
草は、花と違って生きていないのか。もちろん、そうではない。草をいたずらにむしり取ってはいけないことを、みんな知っている。この矛盾は、どうやって解消されるのか。
このような矛盾は、至るところにあるだろう。僕たちは、ペットを家族の一員として大切に育てる。だけど、僕たちは豚や牛、鶏を食べて生きている。生き物を大切にすることと、自分が生きることは矛盾するように思える。これを深刻に受け取れば、ベジタリアンを目指すしかない。だけど、野菜は食べていいのかな、野菜(植物)は生きていないのかな。
僕たちは、矛盾の中で生きている。だけど、僕たちはそれを回避する方法を知っている。つまり、場合分け。「ペットは、命を大切にしないといけないけど、食べ物として命をいただく時は、仕方ない」と。そういう言い訳をして、僕たちは生活をしている。この場合の言い訳は、「言い分け」といえる。そうやって言い分けることで、矛盾を回避できる。
だから、普遍的なものにこだわる理由があるのだろうか。普遍性とは、あまねく全てに当てはまることを指す。「命は殺してはいけない、だから牛や豚も食べちゃいけない。だって全て命でしょ」。だけど、僕たちは、言い分けを用いることで、あっというまに普遍性を解体する。
この言い分けは、怖い側面だって持っている。「みんなはそうだけど、僕だけは・・・」と、自分だけ、自分たちの集団だけを特別扱いするのも言い分けだ。これは怖い。「みんなは、嘘をつくのダメだけど、僕だけは嘘をついていい」なんていうこともできる。「みんなは、騙されてるけど、僕だけが本当のことを知ってる」と考えるのも言い分け。
言い分けには、理由がいる。「なんで、君だけ嘘をついていいのさ」に答えなければいけない。言い分けによって、僕たちは普遍性を解体している。そして矛盾の中を生きている。




