社会的正義 と 趣味
人のためになりたい。人の助けになるようなことをしたい。そういう思いが社会的正義だとしても、それが何よりも重要だとするなら趣味を楽しむことは後ろめたくなる。つまり、「本を読んだり、ゲームをしたり、映画・アニメを見ている場合ではない。社会のために、困っている人のために何かをすべきだ!」というわけです。
そのように主張する人々からいえば、趣味が社会的正義を果たすことでなければいけません。彼らにとって、二つは常に一致するものです。つまり、好きなこと(趣味)が社会のためになること。これは、宗教の原理主義者に似ています。教えが全てであって、趣味はその教えにかなうものでなくてはいけない。そうでない趣味など、人間にとって害だと。
でも、よく考えてみると、この立場には共通点がある。つまり、何かを唯一のものとする考え方です。つまり、社会的正義が全て、あるいは何かしらの教えが絶対など、他にも「〜するために人間はいる」「人間の使命は〜である」のような絶対的で唯一のものがあるということを前提している。
だとすれば、「どうしてそれが絶対なのか?」と疑問に思っていいのではないか。例えば、「なぜ人を助けることが何よりも大事なの?確かに、僕は社会のために何かをする人を賛美する。だけど、それが常に何よりも絶対に優先されるとは言えない。僕たちは、自分の好きなことを通して、新しい自分を見出したり、新しい人物像を描いたりできる。社会的正義を果たすことだけで、それら全てが満たされるとは思わない」。
「本当は〜だ」「〜でなければ、人間ではない」という、本質や絶対的なものに関わる言葉は、何かを排除しているように思える。全てをひとまとめにして、生きることを楽にする行為は、現実をあまりに簡単に変換しすぎている。それは一つのフィクションといえる。
しかし、こんなことを言っている僕は、「絶対的なものを疑え」と言っているが、「その主張自体、絶対的なものにしているのでは」と言われるかもしれない。




