創造による原因と結果
「原因と結果が逆になっている」という話を読んだ。確かにそのとおりだと思う。
僕は、塾の講師のアルバイトをしているが、過去に勉強が苦手な生徒を勉強ができない人として扱っている先生がいた。たとえば、生徒に対して「ここのページは○○さんには難しいので・・・」と言っていたり、生徒に聞こえていてもおかしくない声で僕に「あの生徒は、個別で対応してください」と言ってきたりする場合がある。
その先生はきっと、「勉強できないから、その生徒は勉強が苦手な人」だと思っているだろう。しかし、そうなのだろうか。「悲しいから泣く」のではなくて、「泣くから悲しい」というように(ウィリアムズ・ジェイムズ)、「勉強できないから、勉強が苦手な人」ではなく、「勉強が苦手な人だから、勉強ができない」のではないだろうか。つまり、先生や周囲がその生徒を「勉強が苦手な人」として対応するから、その生徒は「勉強ができない」。つまるところ、原因と結果が逆だ。
ここまでは、先に読んだ話に沿った内容である(全く同じ話をしたわけではない)。
加えて私が思うのは、そもそも原因と結果は言葉によって創られたものではないかということ。
つまり、原因と結果は言葉による創造であって、世界の側に独立に存在するものではない。「勉強できないから」→「それ相応の対応をする」のか、それとも「勉強できない対応」→「勉強できなくなる」のか。それを創造するのは、私たちの言葉である。私たちは、決めているのである。事実がそうなっているかどうかではない。
今思えば、「勉強できないがゆえに、勉強できない人」という説明は、まるで「勉強できないのは本人のせいだ」と暗に意味しているように思える。周囲が責任から逃れるために創造された説明ではないか・・、いやそれは、考えすぎだろうか。