亜衣編1
やっぱり、いきなり態度が変わった亜衣ちゃんが気になるな。勇者は椅子に座ってゲームをやっている亜衣ちゃんに近づいて話しかけた。
「亜衣ちゃん。この前のことなんだけど…」
「………」
「亜衣ちゃん?」
「…………忘れるの」
「?」
亜衣ちゃんはぶつぶつ何かを囁きながら熱心に、というか一心不乱にゲームに取り付いている。まるで闘犬のように闘志をもやし始めたみたいだった。薄い唇が幽かに歪んで微笑みを作っている。
「……あれは私じゃない」
勇者はもう一度話しかけた。
「亜衣ちゃん」
後ろから肩に手をポンと置くと亜衣ちゃんはハッと息をのんだ。
「い、いやああああっ!!」
激しい拒絶に、聞く者の胸を締め付けるような絶息してしまいそうな声を出して身悶えすると、亜衣ちゃんは勢いのあまり椅子から落ちてしまった。
「ボクに触らないで!!ボクに何する気?!」
そう言っておびえた目で勇者を見る。熱い呼吸の烈しさいよいよ烈しく唸るような声を出すにつれて興奮も高まってしまうようで勇者は慌てた。
「い、いや。ちょっと話そうと思ったんだけど……大丈夫?」
勇者は、床に座ったままの亜衣ちゃんに手を差し伸べた。
「き、君はボクに抱き着こうとしたヘンタイ!」
亜衣ちゃんは鳶のように光る瞳を見張って後ずさりをした。
「い、いや、それは」
「ヘンタイさんがボクに何か用?」
口角から牙のように、犬歯をむき出しにして見せる。
周りが変態という言葉を聞いてひそひそとあらぬことを噂し始める。
「勇者じゃなくて変態だったとは……」
「サイテー」
「ほほ……わしにも抱き着いてほしいのぅ」
いや!最後のは置いといて!!
「それについては謝るよ!亜衣ちゃんのことを怖がらせちゃってゴメン!!」
「亜衣ちゃん…?違うよ、ボクは姫衣。亜衣がつけてくれたんだよ」
「え……?」
「ふむ。ここは安全みたいだね。初めまして……じゃあないよね。亜衣が恐怖を感じたら出てくる人格だよ。まあ、主人格は亜衣だけどね。ボクは亜衣に作られたの」
何の邪気もない単純さを見て、あどけない顔つきになった亜衣ちゃんは姫衣と名乗った。
勇者はそれを聞いて混乱した。勇者の世界には二重人格なんてないからだ。
「えと、亜衣ちゃんが姫衣ちゃんで、姫衣ちゃんが亜衣ちゃん?」
「まあ、それも間違ってないかもね。二重人格。これが亜衣の病気だよ」
「つまり……」
姫衣ちゃんは勇者の言いたいことを理解した。姫衣ちゃんは上目遣いに勇者を見て、睫毛を伏せながら低く言った。
「ボクが完全に消えるとき、亜衣の病気が治る」
「そんな……」
「じゃあ、そろそろボクはお暇するよ。あ、亜衣はボクが表に出ているときの記憶はないから。じゃあね~」
何もかも了解しているといった風の笑いを含んで姫衣ちゃんが目をつむる。
「んん…」
再び目を開けるときにはもう、亜衣ちゃんに戻っていた。
「私……?あれ、勇者さん?何で私、床に座って……?」
亜衣ちゃんはそこまで言いかけるとはっとしてきょろきょろと何かを探し始めた。
「ゲーム、私のゲームは?」
勇者は、この前亜衣ちゃんが持っていた黒い物体について思い出していた。もしかして、あれがゲーム?勇者はテーブルの上に置いてあるゲームを亜衣ちゃんに差し出した。
「もしかして、これ?」
「!!」
亜衣ちゃんは、それを勇者の手から奪い取ると大事そうに抱きしめた。身体を固くして息をつめていた。顔は歪んで泣きそうだった。
「わ、わたし……。ご、ごめんなさいっ!!」
暫くためらう様子を見せたが、そう言うと亜衣ちゃんはきびすを返して走り去った。勇者は、どうしたらいいのか判らなくなった。
「お兄ちゃん、大変だね」
「イリヤ……」
勇者は視線を声の方に動かす。そこに立っていたのはイリヤだった。ただし、今は全身をシンプルな黒い衣装でまとっていて、まるで喪のようだ。
その機械的な露ほど暖かみのない声で勇者に語り掛ける。
「亜衣ちゃんは今のこのままの状態じゃあ、病気なんて治らないと思うよ」
「そんなこと……」
「じゃあ、お兄ちゃんは亜衣ちゃんの生い立ち、今置かれている状況が解るの?」
勇者は下唇をかみしめた。唇が片方に歪んで、悔しさで吊り上がりそうだった。
「そんなこと……そんなこと、亜衣ちゃんに直接聞いてみるよ!!」
勇者は早足で、出来れば駆け出したい気持ちで夢中で亜衣ちゃんを追った。
イリヤはファイト!!と両手を握りしめた。
勇者は、亜衣ちゃんの部屋の前までやってきた。
ドアをノックするかどうか一瞬迷ってそのまま扉を開いた。
亜衣ちゃんはベッドに横になっていた。
顔は向こうを向いているのでよく判らないが、どうやら起きているようだった。
「亜衣ちゃん……大丈夫?」
勇者は思わず真面目な声を出した。
「……」
「亜衣ちゃん、君は自分が……」
そこまで言って勇者は言葉を切った。二重人格だって知っているの?
そう言うつもりだったのに亜衣ちゃんの背中が震えていることに気付いて言葉を止めた。
「怖いの?」
亜衣ちゃんは反応しなかった。
「泣いてるの?」
亜衣ちゃんの口から嗚咽が漏れた。
「亜衣ちゃん……」
勇者は無言で亜衣ちゃんのベッドの隅に腰かけた。
「み、見ないでください…っ」
そう言うと亜衣ちゃんは自分の頭をシーツで隠した。
「今まで、こうやって……こうやって一人で耐えてきたんです……」
誰にも頼れず、一人で自分の殻に閉じこもって頑張ってきた女の子。二重人格になってまで苦しいことを耐えてきたんだ。もう、いいんじゃないか。
「僕は何があっても亜衣ちゃんの味方だ。だから、これからもここに来てもいいかな?」
亜衣ちゃんを一人にさせたくない。それが本音だった。
「……」
亜衣ちゃんが解るか解らないかのあいまで頷く。
「ありがとう」
勇者はそっと亜衣ちゃんの頭を撫でた。なんだか、こうしていると亜衣ちゃんが妹のように思えてくる。亜衣ちゃんの涙は止まらなかった。
「ママ……」
「え?」
亜衣ちゃんは自分の声に自分で吃驚した様子で勇者を振り返り、今度はまた大層小さい声になった。
「な、何でもないです……」
「?」
「勇者さん…本名はシュナイゼル・リーンなんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、シューちゃん」
亜衣ちゃんが囁くような小さな声で勇者の名前を呼んだ。
その顔は悪さをして叱られたとか、涙に濡れた頓狂な顔をして勇者を見つめていた。
「え?」
「シューちゃんって呼んでもいいですか?」
今まで硬直していた亜衣ちゃんの顔の筋肉が途端に弛みやや微笑んでいたが、また忽ち険しい線をキッと示したりした。
「いい………よ」
正直、亜衣ちゃんからこんな提案をされるとは思ってもみなかった。
その日は、そこで会話が途切れてしまい、勇者は自室へ帰った。
亜衣ちゃん……か。
勇者は、消灯時間を過ぎたベッドの上で考え事をしていた。まぁ、考えることと言っても亜衣ちゃんのことだけど。亜衣ちゃんの過去について伊里亜は何か知っているようだった。
でも、自分で知らなきゃいけないよな。
勇者はそこで重い瞼を閉じた。
――――翌朝。
勇者は、誰かの怒鳴り声で目が覚めた。
「……!!……!!!」
「ほほ、起きたか。小僧……」
見ると、恩田さんがベッドに上半身を起こして座っていた。
「あ、恩田さんも起きたんですか?」
「ほほ、もうとっくのとうに起きとったわい」
「……!!……!!」
「なんですかね、この声」
「行ってみたらいいじゃろう。いつものことじゃよ」
「はぁ……」
何か危険な香りがするけど行ってみようかな。興味あるし。
勇者は野次馬根性を発揮した!
えーと、確かこの辺から……。
声の方をたどって行ってみると、そこは亜衣ちゃんとイリヤの病室だった。
看護師さんが何人も群がってよく見えない。だが、声だけは聞こえる。
「亜衣!!さっさと家に帰ってこい!!お前は病気なんかじゃあない!!」
中年の男性らしき声だった。
「ボクの亜衣をいじめると許さないよ!!」
応戦しているのは、姫衣……か?
「またそうやって、病気のふりをする!!家に帰ったらたっぷりと痛めつけてやるからな」
そして、男は下卑た声で笑った。
「坂上さん!勝手に入ってこられては困ります!!それに、その話は先日、裁判でかたがついたじゃあないですか!」
「うるさい!!」
「いやあああ、来ないで!!ボクに近づくな!!」
「親権はあいつにわたってしまったが、亜衣は俺を必要としている。またすぐに帰りたくなる。こいつは一生俺の傍から離れられないんだよ!!さあ、亜衣。叔父さんのもとへ帰ってこい」
「坂上さん!!」
男はガタイのいい看護師に引っ張られるようにして部屋を出た。一瞬男と目があった。しかし、男の目は、視線が定まってなかった。口からはだらしなく涎がでている。
この男、混乱しているのか?
勇者は黙ってその男のことを観察した。すると、ドアから出ていく最中、何かを素早くガタイのいい看護師に手渡した。白い紙袋だ。
何だ……?
「まったく、どうやって入ってきたのやら……」
中年の女性看護師がため息をつきながらつぶやいた。




