二
人が人を好きになるのに理由は無い、と、云うと語弊が有るが、実際、男なり、女なりが好くと云う処に、完全に云い切れる訳は無い。少なくとも、五割位はそう思うだろう。美しき桜の園を歩く二人が、こうこう、之々と、一々説明しているのなら、滑稽極まり無い処か、愚の極みである。一頻り言葉を連ねたならば、“さよなら”と云えば好い。其れで決着が付く。
例えば、朝食はご飯派か、或いは、パン派か。そんな事で些細な諍いが起こる。実に詰まらない事ではあるが、両者に取っては大変重要な事なのだ。詰まり、『之からを思うと』と云う懸念が有るのだ。本当に、真実として愛を捧ぐならば、そんな事は恐らく何うだって好い。たとい、喧嘩したって好い。朝に喧嘩して、夜には必ず仲直りする筈なのだ。人生とは苦心に満ちたものだ。だからして、今日を乗り越えて、幸いなる明日を迎える。そして、何れ、死を賜る。ならば、今日と云う辛さを堪えて、迎えて呉れる人の愛を受け入れ、そして、其の為に生き、苦しくとも、其の為に恋をし続ける方が幸せだ。疑うなら相方に訊けば好い。全く其の通りなのだから。私は思う。恋の延長線上に在るものが愛であると勘違いしている者達が目立つと。判然云うが、恋と、愛とは全く別のものだ。愛とは愛おしい者の為に命を捧げる覚悟を持ったものだ。一方、恋とは、相手の意思を汲み取って、たとい、相手が死するとも、生き続けようと、受け取ったものを時世へ繋ごうとするものだ。極稀に、其の両方の性質を持つ感情を与えて呉れる人が居る。実は、其の人達こそが、恋や愛の伝道者なのだ。右を見たら仲間が破裂していた。そんな処に居た人達は愛も恋も知っている。其れが先述の双方共に理解し得る者なのである。勝手に布教活動にやって来て獄死した宣教師とは違う。……。
仮に、此処での主人公はS・Hとしよう。相手は、……何うしようか。面倒だから同じで好い。S・Hとしよう。大負けに負けてサーヴィスだ。男の名は、清水秀樹。女の名は佐々木日向。(日向は“ひなた”と読む)。
其の内に、能く解る様に、勝手な感情を乗せて語って行こう。




