別離(わかれ)
「いい加減にして……っ!!」
突然だった。
今日は久々に早く上がれたので6:00前には家に着くことができた。インターホンを押すが、いつもならすぐ出てくる妻が出てこない。仕方なく自分で鍵を開け玄関に入った瞬間に聞こえた妻の悲鳴にも近い叫び声と篠の痛がる声。何事かと急いでリビングに向かえば、涙を流しながら右手を振り上げる妻の姿が飛び込んでくる。妻の足元には泣きじゃくる篠。
手にしていた鞄をほっぽり捨て妻を押さえる。
「やめなさいっ! 何をしているんだ!!」
「……っ! あ、なた…。………っあ、ぁあっ! 私は、何てことを…!」
我に返った妻が力が抜けたようにその場にへたり込む。
私に掴まれた右手はそのままに、涙を流しながら唐突に喋り出した。その瞳はうつろで焦点が定まらず、体は微かに震えていた。
「だって……仕方ないのよ…。私のせいじゃないわ…っ。そうよ、アナタが帰ってこないから……」
ぶつぶつと何かを呟いているが声が小さく聞き取れない。
こころなしか掴んだ妻の腕が細くなったような気がする。…そういえばここ最近、昇格のチャンスが舞い込んで来たのでいつもより帰りは遅く、家を出るのが早くなっていた。だがそれは昇格すれば妻と篠にもっと良い暮らしをさせてやれると思っての行動だったのだが……。裏目に出たようだ。
妻にはかなりの無理を強いていたらしい。
「俺が悪かったよ。最近忙しくてね。帰るのが遅くなって済まない… バシッ ………っ!?」
座り込む妻の肩に手を置きこちらを振り向かせるのと同時に妻の平手が飛んできた。驚く俺をよそに、ゆらゆらと立ち上がる妻。
「も……耐えられ、ないっ…!」
そう言い残すと妻は寝室にこもり、その日はもう出てくることはなかった。
俺も料理はできる方だったので夕ご飯は俺が作った。もう少しで小学生に上がる篠が「今日はパパが作るんだね」と無邪気な笑顔を見せた。俺はそれに正面から答えられなかった。
「うん」
と味気ない返事をし、篠を風呂にいれ寝かせると俺はリビングのソファで眠りについた。何故か、寝室には入っていけないような気がした。
次の日、早朝会議が入っていた。この日はとにかく早く出社しなければならない。すやすやと眠る篠を確認し、寝室に寄る。
「…行ってくるよ」
と一言だけ声をかけ、家を出た。
だが出社したはいいものの、昨日の事が頭から離れず、集中ができなかった。会議中も上司に注意を受けたほどだ。
同僚と上司に頼み込み、早く上がらせて貰うことにした。時間は午後の16:24。
駅から家まで走って帰った。途中、タクシーに追い抜かれた。胸騒ぎがしてならなかった。
なんとなく、あのタクシーは自分の住むマンションの前で止まりそうな気がする。頼む、止まるんじゃない。とまるなとまるなとまるなとまるなとまるな…………!!
そんな思いとは裏腹に黒いタクシーのスピードはどんどん落ちていき、とうとうマンションの前で止まった。
だが誰もマンションから出てこない。走っているスピードを更に上げ、マンションのエントランスに滑り込む。エレベーターではなく階段を使い5階まで一気にかけ上がった。
自宅の504号室が見えてくる。扉を、あける。……頼む、いてくれ…!
「紗栄子っ!」
妻の名前を叫びながら玄関に入る。そこには両手に大荷物を抱えた妻の姿があった。少し驚いたような顔をしたが、すぐに無表情へと戻ってしまう。
「……っおい! どこへいくんだ、こんな時間に!」
俺を無視して玄関を出ようとする妻の腕を掴む。すると金切り声が響いた。
「離してちょうだいっ!!」
「っな、さえ…… ピンポーン ? なんだ…」
インターホンが鳴る。妻が一言
「来たみたいね。……じゃ、しぃを宜しくね」
そう言い、扉をあける。
「…っ紗栄子! ………っ!?」
扉を開いた先にいたのは見知らぬ男。……全て、繋がった、瞬間だった。
「紗栄子さん、先に行ってて」
男は妻にそう言い、妻を追いかけようとする俺の前にたって一言言い放った。
「何で……もっと大切にしてやんなかったの」
そう言い、男もエレベーターへと姿を消した。
言い返せなかった。……それは違う。大切にしてやんなかった……? まさか。この上ないくらいに大事にしてきた。妻も、篠も、仕事も、同僚も、営業先も、……全て。
どうして、何も知らない若造にそんなこと言われないといけない。どうして紗栄子は出ていった。何故あんなよく知りもしない男に奪われた。
俺が……大事にしなかったから、か……?
最近、帰りが遅かった。休日も返上で働いた。電話にも出てやれないことがあった。
「早く帰ってきて」と言われても「今日も遅くなる」と言った。
こんなで、俺は大事にしてきたと言えるのか……?
放心状態でリビングに向かえば机の上にハンコの押された離婚届と「さよなら」とだけ書かれた妻がいつも使っていたメモ紙。
ソファにはすやすやと寝息を立てる篠の姿。
篠の頬を撫でると何かが篠の頬を濡らした。そのままとめどなく溢れ続けるその雫。
「……くっ、そぉ……! どう、じて……っ!!」
泣いたのは、篠が生まれた日以来だった。
よくよく晴れた春の日、俺は離婚届を提出した。