ほずのみや
蝉が鳴いていた、雲が流れていた、僕は動けなかった。
「……。」
最後かもしれないというのに、手も足も口さえも動かなかった。
だけど、瞳は彼女を見つめていた。遠ざかる彼女を、彼女が消えた方向を。
何が起きているのか分からなかった。いや、分かりたくなかった。脳が認識するのを嫌がっていた。誰でも一日で分かるのに。
だから、視線が絡まっても、
「……。」
馬鹿の現実逃避のせいで、ほつれて、ほどけた。
最後の彼女の笑顔が、とても哀しく見えたのは僕の願望が見せた幻想なのかな。
蝉が鳴いていた。
雲が流れていた。
僕は――
後になって気付くなんてのはよくあることで、後悔先に立たずって言うけれど、この事だけは後悔したくなかった。
白んできた外から差し込む陽の光をレースのカーテンが受け止める。零れた光が瞼に落ちて朝を知らせた。アラームが鳴る前の目覚ましを止めて、忙しげに首を振っている扇風機に感謝を込めながら電源を切る。四時五十八分、習慣づいた行動が今は僕を少し支えていた。
洗面所に行き、鏡を見る。
「あ……。」
頬をつたう雫を、水道水で上書きしてタオルでかき消す。あの日を夢見たのはこれで何度目だろう、自分が嫌いで仕方なくなったのは何度目だろう、解を求めたところで意味のない問題が頭の上あたりを漂いだしたのを無視して作業に向かう。
「おはよう父さん。」
「おう、おはよう。」
祖父から代を継いでから父さんが起きてくるところを見たことがない。気負いすぎて倒れないのか心配だと、引退した祖父がこぼしていたのを思い出して僕も少し心配になったけれど、やる気に満ち溢れた父さんの目を見ていると、いらぬ心配だなと思う。と言うかむしろそのやる気を少しは僕に分けて欲しいところだ。アホなことを考えだしている頭を切り替えて作業に集中する。昔から教わって続けてきたこの仕込みの作業。まぁちゃんとこなせる様になったのはついこの間だけど。これが無かったら多分僕は今頃うじうじ布団にこもっているダメ人間だっただろう。ありがたやありがたや。
「もう朝ごはん食べていいぞ。」
作業が終わって次に何をしようか考えていたら父さんがそう言ってきた。そういえば作業をしたからか時間が時間だからかお腹が空いていた。
「そうする。」
僕の家は【幸屋】という和菓子屋をやっている。みんなに幸せを売るというのが語源らしい。確かにじいちゃんや父さんの作る和菓子は食べると幸せな気持ちになる。僕のもマシにはなってきたけどまだ足元にも及ばない。
そんなこんなで朝食に向かうと、魚の焼ける香ばしい匂いと、お米の炊けたほんのり甘い匂い、出汁や味噌の匂いが息をするたびに入ってくる。さっきからお腹が空いたと唸っていた腹が、文化祭前夜の高校生かってくらい騒ぎ出した。まったく、はやく腹に文化祭をやらんと腹がボイコットを起こしそうだ。なんのこっちゃと自分にツッコミを入れながら食卓について緑茶をすする。
まだかまだかとばあちゃんと母さんを見ながら朝ごはんを待っていると、じいちゃんが散歩から戻ってきて、父さんも作業を終えて戻ってきた。タイミングが良いのが分かっているのか、魚が焼きあがって、ばあちゃんと母さんが料理を運び出す。僕もみんなの分のご飯を茶碗によそって並べる。みんなが席につく。
「いただきます。」
やっと朝ごはんだ。魚をつついて、身を口に運ぶ、そしてご飯を頬張る。おいしい。味わいながらお味噌汁を飲む、出汁の香りが鼻を抜ける。休むことなく食べ続けて、
「ごちそうさま。」
とても美味しかった。
気持ちを切り替えて仕事着を着る。商品を並べてのれんをかけて、幸屋が開く。今日は八月三十一日、夏休み最終日だ。
「アオイ、いるか?」
僕がいると分かった上で訪ねてくる奴なんか一人だけだ。僕は和菓子を補充しながらそいつの顔も見ずに答える。
「アオイ君は宿題を隠しに旅に出ました。探してほしくないそうです。」
「うるせえ、おとなしく見せろ優等生。」
「来ると思ったよアキラ、僕の机の上に置いてあるから適当に写してくれ。僕ももうすぐそっちに行くから。」
「助かるよ。あ、おじさんお邪魔します。」
返事を言いながら僕の家に入っていく。彼はアキラ、親友というか小さい頃からの腐れ縁で一緒にいることが多い。
「一箱八百円です。」
「ありがとうございました。」
さてと、僕も店番を父さんに任せてアキラの相手をしに行かなきゃ。作文まで丸写しされたら大変だと少し急ぎながら着替えて部屋に向かう。
するとアキラは頭を抱えてうんうん唸っていた。
「アオイよ、こやつはどうしてこんなことを思ったんや、俺には共感できん。」
「お前の共感は必要ないからだよ。余計なこと言ってないでさっさと写せよ。数学は自分で終わらせたんだろ?」
「まあな。夏休み前に終わった。」
アキラは基本的にアホだが、数学だけは大の得意なのだ。たぶん、想像したくもないが、僕が苦労した数学の課題をアキラは一日で終わらせたんだろう。しかも楽しそうにしながら。
僕はアキラの分には毒を盛りたい心境でお茶を入れながら、見知らぬ誰かにアキラの説明をする。
「おい、お前今恐ろしいこと考えなかったか?」
「そんなことないよー。」
僕はからかうつもりで、満面の笑みを浮かべる。
「おい、何だその爽やかな笑顔は。おいアオイ、お前まさかそのお茶に変な物入れてないよな?」
「チッ、そんなことないよー。」
「え、何?今の舌打ち。俺絶対そのお茶飲まないからなっ!」
「えー、せっかく高いクス……、お茶いれたのにー。」
「今絶対クスリって言いかけたよねっ、思わず口に出ちゃったよねっ!」
「茶番はここまでにしてさっさと写してしまえよ。それ全部明日堤出だから時間あんまりないぞ?」
「その大事な時間奪ってるのはおまえだろっ! おいっ!」
「悔しかったら来年は自力で終わらせろよ。」
「うぐ、頑張ります。」
面白い反応をしてくれるのでアキラと話す(イジる)のは楽しい。この夏はいつも以上に遊びに来る、多分彼なりに元気づけようとしてくれているのだろう。相変わらず憎めない奴だな。なんて思っていると、
「なぁアオイ、お稲荷様の噂って知ってるか?」
「ん、なにそれ?」
「南商店街を通り過ぎた所に狐の像がお地蔵さんみたいに祀られているんだってさ、その像にお願い事をして、お稲荷様に認めてもらえたらその願い事が叶うんだってさ。」
「へぇー、そんでアキラは頭が良くなりますようにとでもおねがいしたのか?」
僕は適当に聞いているふりをしながら、アキラに話を振る。
「バッ、しようと思ってたけど、そんな願い事じゃねーよっ。」
少し間を開けて、
「もっと大事な事だ。」
真剣な表情でアキラは言った。
「ならそれはしない方がいい、大事なら大事なほど人任せにしちゃダメだよ。叶わなかった時に、たぶん、乗り越え方がわからなくなると思うから。」
最後の一言は僕の口の中で噛み潰したけれど、
「そうだな。」
彼には伝わってしまったみたいだ。
「お菓子持ってくるよ、その方が捗るだろ?」
「サンキュ、あんこ系のやつ頼むわ。」
暗い空気を戸を開けて流し出す。アキラに気を遣わせる前に出ていくための理由がとっさに浮かんで本当に良かった。僕は少し胸をなでおろしてから階段を降りた。
太陽が沈みそうな、外が少し赤いような、そんな時。宿題を終えたアキラを店の外まで送ってから、僕は今までで一番真剣に和菓子作りをしていた。二つの稲荷寿司の形をした生菓子を数回の試行錯誤の結果、やっと美味しいものができたから、見た目も気にしながら作っていく。完成したのを入れ物に入れて、包装して紙袋に突っ込んで走りだす。
交通量の多い交差点の横断歩道をちゃんと渡って、南商店街を翔け抜ける。
すると少し不思議なお稲荷様がそこにいた。少し先は森で、まるで入り口で待っているみたいだった。
「……叶わなかった時に、たぶん、わからなくなると思うから。」
そうだよ、分からないんだよ。あの時何も言えなかった事をどうやって乗り越えればいいのか分からないんだよ、自分が何もしてなさすぎて。
お稲荷様の前のお供えを置く所に紙袋を置いて、パンッと手を叩く。少し強めに僕の背中を叩いてください。へこたれてんなって、行動に移す勇気を下さい。心の中で願った。
よくよく考えてみると結構恥ずかしい事をしたな、なんて思いながら交差点の赤信号で歩くのをやめる。すると向こう側に白い狐が見えた。目を疑った僕は目をこすった。するとそいつは道路に飛び出していた。僕は助けようとか考える前に体が動いていた。白い狐を突き飛ばした後、タイミング悪くトラックがおいでなすった。『キィーッ』という耳をつんざくようなブレーキ音の後に、『ゴキッ』という鈍い音と強い衝撃が体に走った。
ぼやける視界の中にこちらを見る白い狐の姿があったから、少しホッとしながら小さくぼやく。
「ちょっと強すぎませんか?お稲荷様――」
雨が降っている。ザーザーと強い雨が降っている。僕はこの雨を、この朝を忘れたことはない。まるで僕の心の中みたいだなと思いながらカーテンを開けたことを覚えている。どうやら僕は七月二十四日の夢を見ているらしい。よりによってあいつがいなくなった日に、シズクが引っ越した次の日なんて、当日の朝より最悪だ。起きたくないので目を閉じていると、懐かしく地味に痛い衝撃が飛んできた。
「起きなさい、アオイ。」
「!?」
ありえない。きっと幻聴だ。でも信じがたい現象は、追撃によって信じざるをえない現実となった。
シズクが目の前にいる。正確には僕の上にまたがって立っている。いや、そんなことは今どうでもよくて。昨日引っ越したはずのシズクがなんで、
「なんでここにいるんだよっ。」
シズクは「はぁ?」とでも言いたげな顔をして、
「アオイが言ったんじゃないっ、卒業までここにいろって。」
なんだって? 僕はさよならすらまともに言えなかったはず。
「寝ぼけてないで仕込みに行かなくていいの? 私はおばさんのお手伝いしてくるからちゃんと起きてね。」
とシズクは僕の部屋を出て行った。
僕は?が十個くらい頭に浮かんだところで思い出した。そういえばこれは夢だった。それを思い出すと色々と納得出来たので僕は仕込みをしに行くことにした。
ザーッ。
憂鬱な雨の音を聞きながら僕は考え事をしていた。
他でもない、この夢の事だ。
僕は確かトラックに轢かれたはず……。ということはもしかしてここは夢じゃなく天国なのでは? いや、それはないか。気を失う前の記憶的にたぶん背骨は確実に折れてたけど、頭や心臓なんかにはさほど衝撃はきていなかった。まあ夢なら今日が終われば目が覚めるだろう。深く考えずシズクがいるこの幸せな幻想に今は身を委ねよう。
作業を終えて僕達五人家族に、シズクが加わった六人で朝食を囲む。お茶碗や箸なんかは幼い頃よくお互いの家に泊まりあってたからシズク専用のがある。
いやそんなことより、隣り合って朝食を食べてるこの状況のせいで僕の心臓はどっどどどどうどどどうどどどうと酸っぱいかりんも吹きとばせと言わんばかりにうるさい。触れ合えば伝わってしまうかもと不安になるほど。
少し動けば肩が当たる、そんな状況では表情を普通にするだけでも精一杯だった。
いかんいかん朝食に集中せねば。
玉子焼きを一口、甘い……。これはシズクが作ったのか。我が家の玉子焼きは出汁がきいていて、ご飯がすすむ。僕は甘いおかずはおかずじゃないなんて言わないけど、ご飯のすすむおかずの方が好きだ。だからといってシズクの甘い玉子焼きが嫌いなわけではない。
「どう?」
シズクは不安そうに聞いてくる。こういうシズクはあまり見られないので、少し意地悪してみたくなってくる。
「普通。」
「そう。」
言葉と表情が裏腹な返事をしてうつむくシズク。それを見た僕は微笑みながら、
「冗談、おいしいよ。」
「本当に?」
「本当だよ。」
そう言うとシズクの表情はパァーッと明るくなる。
そして、僕以外の家族がニヤニヤしながら見ているのに気づくと真っ赤になる。相変わらず褒められると喜ぶ、夢の中でも子供っぽいままのようだ。
「私の分もいる?」
「いや、いいよ。そんなことしたらシズクの分がなくなるだろう?」
「そう……別にいいのに。」
朝からいい顔が見れたので、たぶん今の僕の顔は緩みきっていると思う。
あと実は僕がシズクの料理なら何でも大好きだというのは内緒だ。
僕は幸せの味を噛みしめながら、朝食を楽しんだ。
そんなこんなで七月二十四日が始まる。
僕が終わらないと信じていた日常が。
こうなるんだろうなと心に描いていた日々が。
そして、止まっていた僕の時間が。
動き出す。
「ヒマだな。」
雨の日の店番はとてもヒマだ。だからといってだらけるのも良くないので、ボーっとしながら時計の針が進むのを眺めている。秒針がいつもよりゆっくり進むように感じられる。
「ちょっといい?」
シズクが宿題を片手にやってきた。ちなみに僕はもう終わっている。シズクも去年は僕と同じように夏休み前に終わらせていたけど、今年は引っ越しの準備とかで出来なかったんだろう。
「いいよ。」
「この英文なんだけど……。」
ガランと音を立てて店の戸が開く。
「いらっしゃ「アオイー、遊びに来たぜーっ!」 」
少しの沈黙。
「で、ここが分からないの。」
「あー、そこはね。」
「おいっ! 無視すんなよ! てかなんでシズクがいるんだ?」
「何よ、いちゃ悪い?」
「いや、別に悪いとは言ってないけど……。」
「あー、言ってなかったな。昨日からうちに住んでいるんだ。」
「え?」
「ちょっと!」
「あれ? 言っちゃまずかった?」
「当たり前でしょ? アオイの家族がいるとはいえ、どっ、どどどどうせ――」
動揺しているシズクの言葉を遮って、アキラが口を開いた。
「同棲ですか、へぇー、ふうーん。良かったですねシズクさん。」
アキラがニヤニヤしながらシズクを見ている。あれはからかうネタを見つけた時の目だ。
「うるさいバカッ!」
そうか、よくよく考えたらこの状況やばいんじゃないか? 一つ屋根の下で好きな子と暮らす、それも卒業するまでずっと。いや大丈夫、まだ焦るような時間じゃない。そう、これは夢なんだから、今日だけだ。今日一日だけシズクと一緒に暮らす、それぐらいなら僕のやわな心臓も持つだろう。
それに僕以上に不安なのはきっと、
「シズクのお父さんの単身赴任に家族でついていく予定だったんだけど、それだと勉強的に大変かなと思ってうちに住んでもらうことにしたんだ。だからアキラ、シズクも色々と不安だろうからあんまりいじらないでやってくれ。」
「アオイがよく言うよ、朝からからかってきたくせに。」
「あれは、僕なりの気遣いだったんだけど。」
「何が気遣いよ、もう。」
「まあ痴話喧嘩はそこら辺にして、アオイもうすぐ店番交代だろ? 遊ぼうぜー。」
「なんで知ってんだ、っていつも同じだからか。先に上がっといてくれ。僕も着替えてから行く。」
「あいよ。」
「お邪魔します。あ、おばさん今日もお綺麗ですね。」
勝手知ったるという感じでアキラは家に上がる。
「アオイ。」
「あ、シズクも先に行っといて、僕もすぐ行くから。」
「アオイ。」
「あー、さっきの英文? あとで部屋で教えるよ。」
「ちがくて。」
「ん?」
「理由。」
「え?」
「引き止めた理由。さっき言ってた勉強の事だけ?」
「っ!!」
心臓が止まるかと思った。
だってそれは、本当の理由を伝えるという事は。この夢の終わりを指しているような気がしたから。もう少し、もう少しだけシズクとの夏を過ごしたいと思った僕は、
「えっと、どうだったかな。無我夢中だったからあんまし覚えてないや。」
答えを濁した。
「そう。」
そう言って彼女は僕の部屋へと向かった。
「そういえば今年の夏祭りみんなで行くよな?」
僕の部屋で各自宿題をしたり、ゲームをしたり、本を読んでいるとアキラが話しだした。
「僕は一日目はうちの屋台の手伝いするから、二日目は大丈夫だよ。」
「そっか、今年もやるのかミニどら焼き。」
「まあね、シズクは好きだったよね、うちのミニどら焼き。いつも二・三回は買いに来るし。」
うちの幸屋も夏祭りでは屋台を出している。ベビーカステラを見ておじいちゃんが思いついたんだとか。売り始めてから毎年一日目で予定していた量が全て売り切れてしまうほどなかなか人気がある。
「それは……、そうね、好きよ。」
またアキラがニヤニヤしているがまあ、無視しよう。
「私も今年は手伝うわ、住まわせてもらってるわけだしそのくらいはしないと。」
「なんだ、シズクも一日目無理なのか。」
「みんな気にしなくていいって言ってるんだけどね。」
「私が気にするのよ。」
相変わらず律儀だ。
「まあ、シズクがいいならいいけどね。花火が上がるのも二日目だし。」
「じゃあ二日目みんなで行くか。」
すると、今度はシズクがニヤついて、
「あっ、そうだ!」
とアキラに耳打ちをし始めた。よく聞こえないし、二人の距離に心がざわつく。それと同時に、アキラにもやきもちを焼く自分に、彼氏でもないのに独占欲の働く自分に、嫌気がさす。
「お前っ、それ!」
シズクの耳打ちを聞き終えるとアキラは顔を真っ赤にしてそう叫んだ。
「まあまあ、もともと言うつもりだったし、アキラにとっても良い話でしょ?」
「ぐっ、たしかに……。」
「何の話?」
「えーっとね、まあ当日分かるわ。」
「そっか。」
また胸が痛む。すごく気になるけど無理やり聞いて嫌われたら。我ながら女々しいな。
よし、決めた。後で聞こう。せっかくの夢だ。夢の中でくらい後悔しないようにしよう。たとえ今日だけの幻だとしても。
「ヤヴァい、今日もう終わりそう。」
僕はお風呂に入りながら自分の意気地なしさに絶望していた。
アキラが帰った後、何度も二人きりで話す機会をつくろうとしてみたものの、家族という名の障害が立ち塞がって気付けば夜、お風呂の中だ。
「まあ、頑張るかな。」
ざばあっと風呂から出る。
髪の毛を乾かし終えて涼もうと縁側に出るとシズクがさみしそうな顔で座っていたから、丁度いいし隣に座った。
「さみしい?」
僕は、きっとごまかすだろうと思った。
「そうね。」
けれどごまかさなかったから、
「後悔してるなら帰っても。」
僕もごまかさず思った事を言うと、それを遮って、
「後悔してないよ。」
そしてもう一度、
「後悔してないよ。」
今度は僕の目を見て真剣な表情でそう言った。
「実はね、引き止めてもらえないかなって思ってたの。だから、後悔してないし、むしろここにいれて嬉しいのよ。」
「そっか。」
「そうよ。」
僕は意を決した。
「アキラと話してたことって何?」
聞いた時、表情は固かったと思う。
「あー、あれね。ユキも夏祭りに誘おうと思って。」
「ユキちゃんを?」
ユキちゃんというのは高校に入ってから親しくなった子だ。高校入学のタイミングで引っ越してきたらしい。
「アキラね、あの子の事好きなのよ。だから話してあげたってわけ。」
「え……えええ?」
話してきた内容に肩すかしを食らったのと、アキラがユキちゃんの事を好きだという事実に僕の頭は混乱しかけていた。夢だということは忘れて。
「落ち着きなさいよ。まあ鈍感王子なら仕方ないか。」
「鈍感王子?」
「学校でのアオイのあだ名よ。アオイ自分に何人の女の子がアタックして玉砕したのか知らないでしょ?」
「知らないというか、一人もいないよ?」
「まあ、そういうことよ。」
「へえー。」
「興味なさそうね。」
「興味ないからね。」
「ふーん。」
正直今はそんなことよりアキラとシズクに何もないと分かったことによる安心の方が大きい。
そして緩みきった口からは僕の願望がこぼれ落ちた。
「花火は……。」
だけど。たとえ夢だとしても後悔はしたくなかったから、僕はその願望の奔流を止めなかった。
「花火は二人で見ないか? あの場所で。」
空を見ながら言った。風呂のせいでも夏のせいでもない火照りを頬に感じながら。
「うん。」
少しの間が空いて、
「うん、いいよ。」
今僕はどんな顔をしているんだろう。いや予想はつく。たぶんにやけきっている。
一度ゆっくり目を閉じて、そして開くと夜空にすうっと流れ星が流れた。
僕はこの夢がその日まで続くことを心から願う。
儚げな流れ星はまるでこの夢みたいだな、なんて思いながら。
結果から言おう。
「夢が終わっていない。」
僕はつい先程、受け慣れたシズクのポニーテール攻撃で朝を迎えた。一昨日の夜みたいにほどいた髪もいいけど、僕はやっぱりポニーテールのシズクが好きだ。
それはさておき、あの時の流れ星が叶えてくれたのかは分からないけれど。夢は夏祭りの二日目まで続いていた。実はこっちが現実なんじゃと思ってしまう程だ。
とはいえまあ、また幸せの味を噛みしめられるのは喜ばしいことだ。
シズクの甘い玉子焼きを眺めながら僕はしみじみとそう思った。
昼までの店番を終え、待ち合わせの五時まで暇な僕はシズクの宿題を見ることにした。
とは言っても基本的に僕の助けは必要ない。シズクは僕といつも学年一位を争うレベルだ。むしろ教えようとすると怒られてしまう。限界まで自分で考えたいんだそうだ。良い心がけだと思う。
「今日はこのぐらいにしようかな。」
「待ち合わせまで一時間あるけど、どうする?」
「着替える。」
「え、その服で行くんじゃないの?」
「浴衣着るのよ。おばさんのを貸してくれるそうだから。」
「へえー。」
人ごとみたいに聞いてるけど、アオイも着るのよ?」
「へ?」
「へって。ユキもアキラも着てくるみたいよ。」
「なんやて。」
僕あれ苦しいから嫌いなんだよな。ほか三人が着てるなら仕方ないけど。
「それに。」
シズクは少し下を向いて、
「あの日も着てたじゃない。」
そう呟いた。
「うん……うん、そうだったね。」
覚えていたのが自分だけじゃないと再確認できて、僕たちはたぶん、見た訳じゃないけれど、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった変な顔になっていたと思う。
もし僕がもう死んでいて、ここが天国だとしたら。それでもいいなと今なら思える。
「ど、どう?」
浴衣を考えた日本人は本当に賢いと思う。日本人の黒髪と線の細い体に似合うように作られた浴衣がシズクに似合わないはずがない。シズクの浴衣姿を見たのは二回目だけど、前と違う淡い青に青紅紫の朝顔の咲く柄は周りを涼しく感じさせてくれる。
「似合ってるよ。」
そう言うと、シズクの顔は浴衣とは対照的な赤に染まった。
シズクの浴衣姿を眺めていると二人がやってきた。
「じゃ、行こうか。」
「そうね。」
「おう。」
「はい。」
僕はもう二人きりで見る花火のことで頭がいっぱいだった。
「うわっ!」
「すごい人ですね。」
今年は神社の人が張り切って隣町までポスターを貼りに行ったおかげですごい人ざかりだった。昨日のうちの屋台も材料の量を去年の倍にしたにも関わらず、七時前には完売したぐらいだ。
「はぐれないように固まって行こう。」
「なんだか引率の先生みたいですね、アオイ君。」
「からかわないでよユキちゃん。」
笑いかけてくるユキちゃんに僕も笑い返す。その瞬間、他の二人の表情が険しくなったのは気のせいだろうか。
そんなこんなで固まって屋台をまわっていると、
「マ”マ”ァ”――ッ!」
という女の子が泣いている声がどこからか聞こえてくる。
他のみんなは気づいていないみたいだ。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるから先行っといて。後で合流するから。」
そう言うやいなや駆け出していた。
どこにいるんだろうと、あたりを見回しながら人混みをかき分ける。
すると神社の水飲み場前で泣いている女の子を見つけた。
「ママとはぐれたの?」
しゃがんで同じ目線になってから話しかける。女の子は一瞬ビクッとしたが、こちらを見て口を開いた。
「迷子じゃないよ?」
「わかってるよ、迷子になってるママを見つけてあげよう? お兄ちゃんも手伝うから。」
「お兄ちゃんは?」
「さちやのお兄ちゃんだよ。知らない?」
「知らない。」
「そっか、隣町の子か。」
これもポスター効果か。
「今日はママと二人で来たの?」
「うん、今日はママのお仕事がお休みだったから連れてきてもらったの。うちにはパパがいないから。」
「そうなんだ。」
「わかってたんだけど、他の子がパパに肩車してもらってるのを見てね。」
「うん。」
「それで、それでね、どうしてうちにはパパがいないの?って言っちゃって。」
「うん。」
「そしたらママが怒って、怖くて逃げてきたの。それでここにひとりぼっち。」
小さい女の子は涙ぐみながら必死に話してくれる。
「そっか、じゃあママにごめんなさいしないとな。」
「うん、ごめんなさいする。」
小さい女の子はもう泣き止んでいた。
「よし、いい子だ。」
女の子の手を引いて一緒に歩き出す。
「ママはどんな服着てるの?」
「えっとねえ。」
花火まであと四十分か、『あの場所で待ってて』とメールを送ってから、焦る気持ちを抑えて人探しを始めた。
「ママー、どこー?」
三十五分歩き回っているけど、なかなか見つからない。向こうも探しているはず、すれ違っているのかもしれないな。
「あうっ。」
「どうした?」
すぐ後ろで女の子がうずくまっている。
「足痛い。」
慣れない下駄で歩きまわったせいか靴ずれをおこしている。よくここまで我慢したもんだ。
「よっしゃ、お兄ちゃんに任せろ。」
僕は細い体に力を入れて女の子を肩車した。
「わぁぁぁ、すごーい!」
「喜んでもらえて何よりだ。」
とはいえ、そんなに持てないし、時間もない。早く見つけなければ。
「アイー! アイー!」
これはもしや、
「ママッ!」
「アイッ!」
アイというのはこの子の名前だろう。なにはともあれ良かった。
「ありがとうございます。」
「いえいえ、もうすぐ花火ですから楽しんでいってください。」
僕は手を振って約束の場所への道を歩き出す。一度振り返ると、
「ママ、ごめんなさい。」
「いいえ、ママの方こそごめんなさい。」
そう言って母親はアイちゃんを抱きしめた。あの二人は大丈夫そうだな。それを確認した僕は走りだした。
神社の裏にある森を抜けるとひらけた土地と池がある。五年前にシズクを見つけた場所だ。
そこにうずくまるシズクの姿があった。
「俯いてたら花火、見えないだろ?」
――ヒュルルルル ドーンッ
「見えるわよ、池に映るもの。」
「間に合った?」
「ギリギリ、ね。」
そう言って、シズクが笑うから。
僕も笑った。
「何してたの?」
「ちょっとトイレが混んでてね。」
「そう。」
僕たちは隣合ってぽつり、ぽつりと言葉をかわす。
空に咲く花と池に浮かぶ花はとても綺麗できっと誰もが目を奪われる、そんな光景だけど。
僕はシズクの瞳にゆらめく色彩の花に目を奪われていた。
――ヒュルルルル ドーンッ
自然と目が合う。たぶん無意識だったと思う。思わずではなく、無意識。
――ヒュルルルル
「シズク、僕は――」
ドーンッ!!
かき消された言葉はきっと心からの言葉なんだろうけど、これは、この事だけは自分の意志で伝えたかったから。幸運だったんだと思う。
「なんて?」
だって、
「なんでもない。」
シズクとの夏を、
この幻想を、
もどかしい距離感を、
もう少し噛みしめていたい。
それが僕の、今の願いだから。
夏祭りから月日は過ぎて、八月三十一日。
結局僕は自分の気持ちを伝えることはできないでいた。
それで今何をしているかというと、シズクとおつかいに行った帰りである。とほほ、夏も終わりやないですか、どないしますんあんさん。エセ関西弁を使っても告白する勇気が湧くわけではない。
「ふう。」
「荷物持とうか?」
「いや、大丈夫。」
荷物の重さが辛いわけじゃない、自分の不甲斐なさが辛いのだ。
赤信号で立ち止まっていると、向こう側に白い狐が見えた。見覚えのあるそいつは道路に飛び出した。やっぱり僕は助けようとか考える前に体が動いていた。白い狐を突き飛ばした後、タイミング悪くトラックがおいでなすった。『キィーッ』という耳をつんざくようなブレーキ音の後に、『ゴンッ』という鈍い音と強い衝撃が頭に走った。
くらむ視界の中で僕はこんな状況にぴったりの言葉をつぶやいた。
「デジャヴ……だな。」
――ピーッピーッピーッ
テレビで聞いたことのある電子音と消毒液の匂い。ここは病院なのだろう。
夢だろうか現実だろうか、まあどっちでもいいか。
ポタンッ
暖かい雨が降っている。心にしみるような雨が。
僕は雨が嫌いだけど、この雨にならずっと打たれていたい。
ゆっくりと目を開ける。
「アオイッ!」
目の前に好きな人がいる。頭は麻酔であまり働いていない。だけど好きな人と、言いたかった言葉は分かる。
「シズク。」
あなたにこの言葉を贈ろう。本当はかっこいいセリフとか考えていたんだけれど、僕の気持ちを伝えるにはやっぱりこの言葉しかないみたいだ。
――ピーッピーッピーッ
「好きです。」
シズクは目を見開いて。
「私も。」
そして力強く、
「好きです。」
何度も何度も、
「好きっ!」
顔をくしゃくしゃにしながらそう叫んだ。
嬉しいな、
「―――― !」
声が遠くてよく聞こえないけど、
「―― !」
想いは伝わってくる。
――ピーッピーッ
だけど最期くらいは、
――ピーッピーッ
シズクの笑顔が見たかったな――――
ピ――――――――――――――
後悔するなら踏み込まない方がいい。そう思って行動した結果がこのザマだ。
あの日から日々をひたすら浪費している。
「シズク、お昼ごはんは?」
お母さんの声がする。
「いらない。」
「寝てばかりじゃない?」
「晩ご飯までには起きるよ。」
夢でもいいからあの日に戻ってやり直したい、そんなふうに思う始末だ。
今日は八月三十一日、もうすぐ私の夏が終わる。そう思っていた。
「――卒業までここにいろっ!」
どうやら私の夢の中で七月二十三日に戻っているらしい。そして私の言って欲しかった言葉をアオイが言ってくれた。ここまで理想通りだと笑える。
だけどそんな理想の日々は終わらなかった。私がアオイのことを好きだと知っているアキラにいじられたりはするものの、アオイとの夏を過ごせていた。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるから先行っといて。後で合流するから。」
そう言って駆け出すアオイ。アオイが走っていった方向と私とを何度か見てから、ユキが口を開いた。
「え、行かせていいの?アオイ君。」
「いいのよ。いつものことだから。」
そう、アオイが後先考えずに動くときはいつも同じ理由だ。
「ああ、いつもの。」
アキラは気づいたみたいだ。
「え? え?」
ユキは慌てている。
「なんなの?」
「アオイお得意の『おせっかい』よ。」
昔から変わらない、私の好きなところ。
十二歳の頃の私。アオイに浴衣を褒めてもらえなくて、すねてどこかわからないところに来ちゃう私。そしてアオイに見つけてもらえた私。どれも大切な私の記憶。
――俯いてたら花火、見えないだろ? ――
――見えるわよ、池に映るもの――
見つけてもらえて嬉しいのに、意地を引っ込められないバカな私。
――そうだね、綺麗だ。こんな場所見つけてくれてありがとう――
そんな私も包み込んでくれるアオイ。
――シーちゃん――
――なに? アオくん――
それ以前から好きだとは思っていたけれど、多分この時初めて本当の好きになったんだと思う。
――この場所、二人だけの秘密だよ――
――そうね――
――また花火見に来よう――
――そうね――
――『二人で』――
「シズク、僕は――――」
ドーンッ!!
その時、花火の音で消された言葉は、口の動きで分かったけど、
「なんて?」
ちゃんとした言葉で聞きたかったから聞き返した。
「なんでもない。」
そう言うと分かっていても。
だけどそれでも良かった。だって私は、たぶんアオイも、この距離のまま今年の夏を噛みしめたいと思っていたから。
目の前でアオイがトラックに轢かれた。呼吸が止まる。音が消える。
気がついた時には病院でアオイに抱きつきながら泣いていた。
目を開けたアオイは、好きだと言って、鼓動を弱めていく。
私は叫んだ。
「好きっ!」
「好きなのっ!」
ずっと心にあった言葉を、アオイに届けと。
ピ――――――――――――――
電子音が耳に入らないくらいに。
「はっ!」
夢? そっか夢か。悲しいのと嬉しいのが混ざり合った顔をスッキリさせようと、顔を洗うために一階に下りる。すると、
「え? アオイ君がトラックに轢かれて背骨を!? それで意識が戻らない!?」
そうだ、、そうじゃないか。私は夢で何を見て、学んできたんだ。
もう後悔したくない!
リビングに飛び込む。時計の針は七時を指している。
「お父さん、お母さん、アオイのところに行かせてください!」
私は一発くらい打たれる覚悟だった。
「そうか、ようやく言ってくれたか。本心を。」
「え?」
肩すかしを食らった気分だ。
「実はね、転校の手続きなんかはしていないの。」
「ええ?」
「まあ、それはともかく急ごう。今からなら夜には向こうに着く。」
「えええ?」
「えええじゃないわよ、アオイ君のこと好きなんでしょ?」
昨日の私なら否定していたと思う。だけど踏み出さないで後悔なんてもうしたくないから。
「うん、好き。」
「なら行きなさい。」
「行ってきます!」
私は夢と違う容態に少しの安心と不安を抱きながら家を出た。
ここはどこだろう。神社、だけど見たことがない雰囲気だ。
「カカカカカッ! お主本当に馬鹿じゃのう。」
中性的な声と見た目で白髪白眼のキツネ耳と尻尾の生えた、着物を着た人? が突然現れた。
「あなたは?」
「あー、この姿なら分かるかの?」
そう言ってドロンっと煙に包まれたかと思ったら、見覚えのある白狐が姿を見せた。
「あの時の!」
「まあ願いを受けたワシなりに色々と主を試したわけじゃが……。カカッ、カカカッ! 主が本当の馬鹿だと認めざるをえんわっ、カカカカカッ!」
「えっと、あの?」
白狐のマシンガントークに理解は追いつかないけれど、確かめなければいけないことが一つある。
「僕、死んでない?」
白狐は目を瞬かせて、また笑い出した。
「カカカカカッ! 当たり前じゃ、何やりきった顔で達成感に浸っておる。」
「良かったあ。」
僕は胸をなでおろした。
「安心しとるヒマはないぞ?」
「え?」
「本番じゃよ、本番。」
「予行練習はさせてやったんじゃから、きちんと本番かましてこい!」
何か全てに合点がいった気がした。
「はいっ!」
そう叫ぶと、僕は光に包まれた。
「後悔、せんようにな。」
最後の一言は、優しい男の人の声だった。
「おはようございます。」
「おはよう、毎日えらいわね。」
「いえ、それでは。」
そう言って少女は花束を抱いて一週間通い続けている病院の一室に向かう。
病室に入って、しなびてきている花を持ってきた花束に替えて飾る。
ベッドには眠る少年の姿。
「背骨折れてるだけなんだからさっさと目を覚ましなさいよっ、バカアオイ!」
少年の頬に少女の涙が伝う。
――この温かい雨を、僕は知っている――
少年の目が開くとき、
もう交わるはずのなかった二人の時間が、
思い描いた未来へと歩を進める。
もう、後悔しないために。
《数年後 八月三十一日》
ーーツクツクボーシッ ツクツクボーシッ
「今年も夏が終わるのう。」
白狐は、自分が祀られている祠に座る。
「この祠が年中日陰で風通しの良い場所にあって本当に良かったのう。」
そう言ってあくびを一つ。
「え? 二人のその後? そのくらい自分で考えんか。さすれば認めてやらんでもないぞ? カカカカカッ!」
笑いながら白狐は、さっき一組の夫婦が供えていった紙袋から、稲荷寿司の形をした生菓子を口に放り込んだ。